『天使の階段』


 1――

 死んでやろう――そう思った。

 普段、ほとんど使っていない国語のノートを広げて、ボールペンを握り締める。

 復讐をするのだ。奴らの人生を滅茶苦茶にしてやる。

 暗い笑いが零れ落ちる。そうだ、それがいい――それでいい――と。

 元から、何もなかった。だから、今も何もない。そして、これからも何もない。

 生まれ落ちてからこれまで、よくよく生き続けたものだと自分でも驚く。

 とりあえず、思いつく限りの名前を書き殴る。アイツも、アイツも、アイツも・・・そうだ、アイツも、関係ないけどアイツも入れておこう。あの先生はセクハラで、あのババァも暴力を振るった事にしておこう。

 書いて書いて書いて。

 見開きのノートが、黒々となるまで書いて。

 そして、笑った。

 またやっている。くだらない。なんて滑稽なんだ――と。

 それでも気が晴れた。だから、死のうと思った。

 問題は、どう死ぬか――である。

 綺麗な死に方なんてものは、元から望んでいない。一杯、迷惑をかけたほうがいい。

 自分の命を使って、虐げてきた者達に思い知らさなければならないのだから、派手で散らかった方がいい。

 かといって、駅前のビルから飛び降りるのは論外。信じられない。関係のない他人は、巻き込みたくない。

 電車に飛び込むのは悪くない。だが、関係のない人がやっぱり乗っている。急いで帰りたいだろうし、待っている人もいるかもしれない。家族に多額の借金を残せるのでいいプランであるが、他人に迷惑をかけるのはやっぱり嫌だ。

 ならば、一番嫌いなアイツのマンションから飛び降りるとか、この家の居間で首を括るとか、それぐらいが効果的かつ効率的、落とし所という奴ではなかろうか。

 しかし、今から出歩くのはやっぱりしんどい。居間でいいか、と諦める。

 首を括れば、凄惨だ。腐りきった両親にはこたえよう。しかし、姉は何も感じないだろうことは分かった。あぁ、せめて姉だけでも殺しておきたい。色々と、社会のためにあれは抹殺しておくに限るのだが、居場所が分からなかった。探しようもない。後ろ髪を引かれるような思いであるが、あれだけの悪事を働いているのだ、いつかは裁かれよう。

「・・・どうしてこんな事になったんだろう」

 姉の事は憎いが、最初から憎いなんて事はない。緩やかに腐っていった。楽しかった日々は、全て霞み過去の遺物と化した。姉の笑う顔さえ、もう思い出せない。

 手ごろな紐を探さなければ――。気持ちを入れ替えて、部屋を見渡した時、羽が(ひるがえ)る音が微かに聞こえた。鳩でも紛れたかと――しかし、窓は開けていない。部屋の中には、彼女一人のみ。何もない。そのはずであるが、再び音は聞こえた。すぐ近くで。

 気付くと、ベッドの枕元に『それ』はいた。しかも、空中に浮かんでいた。

「だ、誰!?

 誰何(すいか)の声に、『それ』はただ慈愛に満ちた笑みを浮かべて見せた。白人の男である。それもとてつもなく美形の。ブロンドの髪に、燃えるような真紅の瞳。黄土色の神衣には、燃え上がるような炎の刺繍が施されていた。そして、背中には三対の合計六枚の真っ白で美しい羽が広がっていた。

 相手が本物であるならば、『彼』とは表記できない『それ』であるが、便宜上『彼』は、何も持っていない両手を静かに、羽を広げるかのように開く。

「我が名は、()天使(てんし)ウリエル。エデンの門を(つかさど)る天使。書物によっては、地獄(タルタロス)を監視する天使とも呼ばれております」

 静かに(こうべ)を下げる。彼女は、圧倒されていた。信じるとか、信じないとかそういう次元の話ではなかった。圧倒的な力、存在感。目の前にいる『天使』と名乗る『それ』は、その全てで有無を言わさない迫力を纏っていた。

「天使・・・?」

「迷える子羊よ。汝が望むならば、この羽を託そう」

 羽を一枚摘み、彼女の前に差し出す。驚くほど白い。これほどまでに無垢な白は、さすがに彼女も見たことがなかった。

「こんな羽で・・・何が出来るというの?」

 彼女は、天使を睨み付けた。彼女のその瞳に、天使は僅かばかりに表情を動かした。驚いていたのだ。

「では、こういう形に致しましょう」

 天使の手の中で、白い羽は白銀の聖杯の姿へと変わった。

「全ての願いを叶えることが出来る聖杯です。あなたの望みを、全て叶えてくれます」

「・・・うさんくさい」

 聖杯に映りこむ彼女は、馬鹿にしたように笑っていた。

「仮に願いを叶える聖杯が本当だったとして、何を支払わないといけないのかな?」

 その時になって、彼女はあることに気付いた様子。笑いは、自嘲へと変わった。

「そうだった。私には最初から何もなかったんだっけ。あげられるものなんて、この捨てようとした命ぐらい。どうせ捨てようとしていたんだから、有効に活用するのも悪くないか。ねぇ、それ使ってあげる。使って欲しいんでしょ? いいよ。面白そうじゃん」

「・・・あなたは面白い方だ」

 天使が微笑む。それは、とても人間っぽい普通の少年がするような笑みであり、思わず彼女もドキッとしてしまうほどのものであった。

「聖杯をあなたに託します。どのように使うのもあなたの自由でございます。ただ、聖杯を用いて訪れた結果は、聖杯を持っても変えることはできません。ゆめゆめお忘れなきよう」

 聖杯が輝き、彼女の胸の中に溶け込み、消えていく。それと同時に、天使の姿も消え去っていた。

 残されたのは、彼女――高倉美子と、胸に収められた聖杯。

 美子は早速、願ってみた。

 姉よ、いますぐ死ね――と。

 

 2――

 遺影に写る彼女を、星川凛は知らなかった。少し前に撮られたものなのだろう、学生服を着た彼女は、凛よりも若く見えた。中学生の頃の写真か。もうすでに二十歳を超えているはずの彼女の遺影にしては、少しサバを読みすぎな気がしないわけでもない。

 朗々と流れるお経。混じる嗚咽の中に、一際若い声が混じる。親族側の席で咽び泣いている、高倉美子の声だ。姉の事を心底嫌っていたのは知っている。しかし、嫌いだと言っても、やはり姉妹なのだろう。凛は、美子が泣いているのを始めて見た。そして、場違いな感想を持った。

 あぁ――この人でも泣くんだ。

 何か、声をかけてあげなければ。そう思ったが、足がまるで進まない。心が軋む、膝が軋む。ついぞ凛は美子の側まで行く事ができなかった。そんな自分の弱さが、彼女は心底嫌いだった。

 

 3――

 葬式も終えて帰宅した美子は、すぐに自室へと戻った。力なく、床に座り込む。頭を抱えて、髪をかきむしる。フローリングの冷たささえ、彼女は感じていなかった。

「私が・・・殺した」

 姉の死因は、『心不全』だった。持病なんて持っておらず、ドラックもやっていなかった姉の鉄の心臓が、急に止まるなんてことはどう考えてもおかしい。話を聞くと、突然眠るように倒れたとの事。心臓自体に欠陥もなかったことも分かっている。原因不明だから、『心不全による突然死』となった。

 倒れた時刻は、きっかり美子が姉の死を願った時と一致する。それは、偶然として片付けてしまうには、あまりにも都合が良すぎる話だ。

 姉の死を望んではいた。それが現実となり、さらに直接的ではないが殺してしまったという事実。美子が受けたショックは計り知れない。自分の胸に埋まっている聖杯を掻き取りたい気分に彼女は駆られていた。

「姉さん・・・ごめんなさい・・・!」

 美子は三日三晩、嘆いた。

 嘆いた後、彼女は真っ赤な目を擦りつつも、学校の制服を身に纏い始めた。

 学校に行かなければ――。

 それは、自分のためではない。両親をこれ以上苦しませるわけにはいかないという思いが、彼女を突き動かしていた。

 幽鬼のような彼女の姿。事情を知っているものがほとんどなので、登校した彼女に敢えて近づこうというものはいなかった。しかし、中には空気が読めない奴らも存在する。

「なにその目、ちょっとダサくない?」

 かつて、美子に不思議な忠誠心を抱いていたクラスメートが馬鹿にする。今では、美子を迫害する一団のリーダー。正直美子は、彼女が美子の仲間だった頃から嫌いであった。

 無視をしていると、机を蹴られた。美子は、ため息を吐いて、クラスメートの方に顔を向ける。

「まるでゴキブリね。腐った弁当にたかって、それで? 私にこれ以上何を望んでいるわけ? 浅ましくて、ヘドが出るんだけど」

 美子お得意の毒舌。苛める側から、苛められる側へと変わってしまっても、美子という人格が変わるわけではない。彼女のその態度は、常に周りをイラつかせていた。

 椅子から蹴り落とされた。派手な音を立てて、美子が隣の机を巻き込んで床に倒れる。その痛みに顔をしかめる美子。痛みは美子の中で怒りを増長させた。

 『死ね』――。

 咄嗟に、そう願おうとしている自分に気付いて、美子は慌てた。今、迂闊に願えば本当になってしまう。目の前で死なれてしまっては、後味が悪いとかそういう次元の問題ではない。

 本当に願いが叶うのであれば――。

 美子は、暗い笑みを浮かべた。そして、『謝れ』と心の中で命じた。結果は――と、考える(いとま)もなかった。

「高倉さん、ごめんなさい」

 次の瞬間には、土下座までして謝っていた。彼女の取り巻きが、驚いた顔でそれを見ている。美子は、試しに彼女らにも『謝れ』と命じた。すると、すぐに表情を改めて、彼女らも土下座をして謝った。

 これが聖杯の力――!

 姉を殺してしまったかもしれない力。それはまだ確証できない力であった。だが、いま力の一端を目視した。聖杯は、間違いなく美子の思いを具現化させる。それを知ったとき、美子は思わず笑っていた。姉を殺した事が確定されたことなんて、すでに意識の外に出ていた。目の前の事象に、(とりこ)となっていたのだ。

「結構、使えるじゃん」

 落ち込んでいた美子の姿は、もう微塵もなかった。立ち上がり、土下座をしているクラスメートを見下ろす彼女の瞳は、底知れない冷たさを纏っていた。

 

 

 4――

 変わり行く様を、星川凛はじっと見続けていた。中間テストで学年トップだった高倉美子を、球技大会で異様な活躍を見せる高倉美子を、様々な人に奉りあげられる高倉美子を――。

 見続ける凛の表情は、とても暗い。明るい笑みを浮かべる美子とは、対照的であった。

 彼女は、不安だったのだ。何が? と問われても明確な答えは口にできない。そんな漠然とした、しかし無視できない大きな不安。それは、美子を中心に全てを包み込んでいた。

 ただ見続ける。いつか自分の力が必要になる時が来るのではないかと。その時は、勇気を振り絞り、彼女の手を引こう。あの時のように――凛は決意する。

 少し古い話――。

 なにが原因だったのかと問われても、始まりはよく分からない。ただ、激化させてしまったのは、間違いなく凛自身だった。度重なる執拗な嫌がらせに腹を立てて、放課後嫌がらせを繰り返す連中の教科書を、廃棄された焼却炉にぶち込んで燃やした。見られたわけではなかったが、凛は自然と犯人にされて、さらに執拗で強力ないじめを受けることになってしまったのだ。自業自得――そう、彼女はあざ笑った。しばらくはこのままで。どうしようもない事態まで追い詰められたならば、今度は徹底的に反撃してやろう。凛は、それだけを支えに生きていた。しかし、思っていることと深層心理の中に眠る本音は違う。度重なる暴力に、心は萎えていた。世界に絶望していた。

 そんなある日のことである。公園に呼び出されて、リンチされた。雨が降っていたことが、今日ばかりは幸いとなった。切れた額から流失する血液が雨と混ざり、傍目から見たら大出血。大怪我を負わせてしまったと勘違いし、怯え散っていった。血とは不思議なものだな、と凛は苦笑する。いつもは動かなくなるまで暴力を繰り返すが、血を見た途端にこの様。『ざまぁみろ』、と凛は毒付く。

 しばらく、雨に打たれていた。動く気力がなかったのもあるが、ただ――雨の雫と雨が奏でるメロディが心地良かった。そんな均衡の取れた世界の中に、濡れた大地を踏みしめる音が響く。

 凛と同じ制服を身に纏った、野良犬のような目つきをした少女が、缶コーヒーをそっと凛に差し出した。言葉も何もない。ただ、彼女は駅員に切符を渡すように、缶コーヒーを差し出している。

「ありがとう」

 缶コーヒーの温かさを感じた時、凛の瞳から涙が零れ落ちた。

 (せき)は崩れた。ボロボロと泣く凛を、少女はじっと傍で見つめていた。その少女の名は、高倉美子。別のクラスで、凛とは違う子をイジメている女子グループのリーダーであった。

 美子と出会ってから、凛の生活は激変した。その変化に戸惑いを覚え、いつしかそれが『普通』だということに凛は気付く。

 イジメがなくなったのだ。正確には、ターゲットが変わった。そう、凛を助けた事により、高倉美子が失脚したのだ。そして高倉美子は、かつての自分の部下と、凛をイジメていたグループの双方から、苛烈な攻撃に晒される事となった。美子は、野犬だ。生半可な覚悟で噛み付けば、逆に食いちぎられる。彼女らは、結託して美子を叩き潰した。それはまるで、『革命』のようでもあった。

 記憶がぶれる。

 その先があったような気がした。だが、どうしても思い出せない。思い出せないが、分かる。

 自分は、美子に近づいてはいけない。

 それだけは――。

 

 変化が訪れたのは、美子が目立つようになって四日目のこと。最初は、凛自身も気のせいだと思っていた。しかし、あまりにも同じような事が繰り返される様を見て、凛は気のせいではないことを確信した。

「おはよう」

 美子がそうすれ違い様にクラスメートに挨拶をするが、相手は気付かずに歩いていく。美子が肩を掴んで呼ぶと、驚いたような顔をして慌ててそれを取り繕う。それが、何度も。生徒だけではなく、先生にも同じことをされていた。

 そして、特別教室の点呼の時、高倉美子の名が呼ばれなかった。その一件で、凛は気のせいではないことを確信した。

 高倉美子という存在が、薄らいでいる。認識されなくなっているのだ。どういう原理で、そんな奇怪な現象が起こっているのかは分からない。高倉美子という存在は、確かに目の前にいる。存在しているのに、認識されない。見えていない。

 抗う美子。それを見ているだけの凛。声をかけた瞬間に、見えなくなってしまうんではないだろうか――そんな不安が、凛を躊躇わす。

 そうこうしているうちに――。

 高倉美子は――。

 凛を除く全ての人から、認識されなくなってしまった。

 

 

 5――

 私は、世界でたった一人だけになってしまった。

 願いの叶う聖杯で、思えば随分と多くの小さな願いを叶えてしまったものである。だが、世界を手に入れるとか、巨万の富を得るとか、そんな大きなことは願えなかった。分不相応という奴だ。その代償がこれである。頭が悪い私には、どういう原理で自分が『見えなく』なってしまったのかは分からない。ただ、願いを叶えるたびに何かを失っていて、それがなくなってしまったから、見えなくなった――多分、そういうことだと思う。

 あのクソ天使。なかなかエグイことをしてくれる。

 美子は、ひとしきり心の中で吐露して、空を仰いだ。あの大空は、私を認識してくれているのだろうか――そんな栓のないことを、彼女は考えていた。

 学校に行く必要もなくなったので、美子はぼんやりと町の裏道を練り歩く。大通りに出たら、酷い目にあった。美子が見えていないせいで、誰も彼も構わずに突っ込んでくる。跳ね飛ばしても、気付きもしないのだ。その様を目の当たりにしたとき、美子は心の底から恐怖を感じた。

 単純に生きていく事は難しくない。何を食べても、どこで寝ようと、誰も美子をとがめない。見えていないのだから当たり前である。しかし、人は食べて、寝ての繰り返しだけでは生きていけない、下等な生物。孤独という(つち)が、美子の心を粉砕するのも時間の問題である。

 羽を翻す音が聞こえたような気がした。次の瞬間、美子はあまりのことに絶句して、周りを見渡していた。

「がっ・・・学校・・・?」

 いつのまにか、学校の屋上にいたのだ。驚く彼女の前に、熾天使ウリエルが降臨する。相変わらず、完璧な笑みである。

「・・・ゲームオーバー?」

 ウリエルはその問いに答えず、あらぬ方向を指差した。その先にあったのは、宙に浮く真っ白な扉。しかし、そこに辿り着くまでの道はどこにもなかった。

「あの扉がどこに繋がっているのかは私にも分かりません。未来かもしれない、過去かもしれない。そもそもどこにも繋がっていないかもしれない。しかし、あなたが残しているものを代償に願えば、望むところへと繋がるかもしれません」

「最後に残したもの?」

 私には何もないだろう? と怪訝に眉根を細める。

「はい、あなた自身です」

 自分の命を代償に、願いを叶えろ――天使はそう囁いていた。美子は、迷わずに一歩踏み出す。もうこの世界では生きてはいけない。なら、命も惜しくない。新しい世界で、新しくやり直す。そのほうが絶対にいい。美子は、白い扉に希望を託した。

「どうやってあそこまで行けばいいの?」

「まっすぐに。道は見えませんが、そこに道は確かにあります。迷わずに、まっすぐです。決して振り返ってはいけません。何があっても。わき見をせずに、まっすぐお進みください」

「・・・ありがとう」

 美子の言葉に、ウリエルが少しだけ驚いた。美子の後ろで、彼は笑う。実に人間らしく、友を慈しむように。

「お気をつけて」

 美子は、フェンスを乗り越えて屋上の端へ。その先に浮かぶ扉を見ていると、不思議と恐怖が薄れた。彼女は、迷わずに一歩を踏み出す。彼女の体は重力に逆らい、何もないところを昇っていく。

 白い扉を見据え、一歩一歩。

 天使の階段を踏みしめていく。

 

 

6――

 美子が学校に来ていないことに気付いて、凛は焦った。

「高倉さん!? いないんですか!?

 周りの目にも気にせず、凛は声を張り上げていた。もしかしたら、目の前にいるのかもしれない。ちゃんと学校には来ているのかもしれない、ただ――見えないだけかもしれない。高倉美子は、正真正銘、世界でたった一人になってしまったかもしれない。

 強く噛んだ唇。血が滴る。悔しさがこみ上げていた。まただ。また、手を差し伸ばす時を見誤った。いつも、いつもだ。問題を先送りにして、結局はそのまま立ち向かわずに逃げてしまう。いつもいつも、いつもいつも、間に合わない。

 凛は、学校から飛び出した。探さないといけない。美子は、またどこかで一人泣いているに違いない。いつも気丈で、口が悪くて、素行も悪い人であるが、その心には悲しみを一杯抱えている。それが、高倉美子という少女の真の姿。

 美子と一緒に過ごした時間は、二週間もなかった。その間、美子にどれだけ背中を押してもらっただろうか。彼女の浮かべる、下手糞な笑みにどれだけ安らぎを覚えただろうか。

 不器用で、強情で。

 優しくて、厳しくて。

 初めてで、たった一人だけの。

 凛の友達――いや、親友である。

 そう、それが高倉美子。

 凛の親友――親友である。

 脳裏に過ぎる、美子の寂しげな横顔。それは、記憶の向こう側で霞む凛が知らない記憶。いや、知っていたはずの記憶。どうして、美子は寂しげな表情を浮かべているのだろうか。そう考えた時、凛は途端に申し訳ない、という気持ちを抱いた。

 なにか、取り返しの付かない事をやってしまったような感じがした。だが、思い出せない。思い出せなくて苦しい。

『私は、晴れた日が好き。心が柔らかくなるから』

 突然、思い出したその言葉。美子の言葉だ。どこかでそれを聞いたことがある。美子がよくいた場所。それはどこだっただろうか。

 駅前まで来た凛は、雑踏の中から美子の姿を探そうと目を凝らす。見つからない。やはり見つからない。きっとここにはいないのだ。

 凛は視線を巡らす。早く見つけないと大変な事になる。そんな思いが、凛を苛んでいた。

 学校が見えた。フェンスで囲まれた屋上が見えた。

 屋上――。凛は、それだ! と閃き、再び学校へと走り出した。

 屋上に辿り着いた頃には、夕方になっていた。寂しげな夕日が、赤々と屋上を照らしている。遠くでカラスの鳴き声が、電車が走る音が聞こえてくる。そして、羽を翻す音。

 屋上の入り口の上に、『それ』はいた。

「天使・・・?」

 熾天使ウリエル。彼は、柔らかい笑みを浮かべて凛を歓迎した。

「はじめまして。星川凛様。少しお時間がかかってしまいましたが、無事に辿り着けて良かったです」

 彼の言葉の意味が分からず、凛は怪訝な顔で眉根を細める。そして、気付く。彼の正体を怪しんでいる場合ではないということに。

「あの、ここに人が来ませんでしたか?」

「高倉美子様ですね。すでに最後の試練を受けております」

 ウリエルが指し示す先。そこには、確かに高倉美子の姿があった。彼女は何もない空を黙々と昇っていた。それは、異様な光景であった。

「高倉さーーーーーん!!

 フェンスにしがみ付いて、大声で呼んでみた。だが、美子の歩む速度は変わらない。声が届かない。聞こえていないのか、無視されているのか。どっちにしろ、距離が離れすぎている。

「高倉美子様は、己が命を捧げてエデンの門を叩こうとしております。階段を昇りきれば、もう会うことは叶わないでしょう。星川凛様、あなたはどういたしますか?」

 背後からウリエルが丁寧な口調で話しかけてくる。

 美子の背中を見上げる。少しずつ離れていっている。見えなくなってしまえば、もう会えない。エデンの門が何を意味しているのかは、凛には分からない。しかし、その門が美子にとって大切なものであるならば、引き止めるべきではないかもしれない。

 この世界にいたところで、美子は苦しみ続ける。誰からも救われる事なく、孤独な世界で果てるのであれば――。

「あなたは、何度同じ過ちを繰り返すつもりですか。しっかりなさいませ、星川凛!」

 ウリエルが、突然強い口調で凛を糾弾した。

「またあなたは見捨てるおつもりなのですか? あなたは何も気付いていない。そろそろ、ご自分の身勝手さを自覚し、歪んだガラスを取り除いて、深淵を見つめて御覧なさい。そこに何が見えますか? 泣いているのは、誰ですか? 口に出して御覧なさい」

 泣いているのは誰かと、彼は問う。

 そう、泣いているのは誰なのか。

 寂しげな美子の横顔。あれは泣いていたのではないか? では、泣かせたのは誰だ。

 記憶が蘇ってくる。

 

「泣いているのは高倉さん。あぁ・・・泣かせたのは私だ」

 

 7――

 何もない空を昇っていく。何もないのに、確かに硬い何かを踏んでいる。踏む度に体が浮いていく。最初は近くに見えていたエデンの門。しかし、歩けど歩けど、なかなか辿り着かない。

 不思議な気分だった。疲れはない。それどころか、歩けば歩くほど、気持ちと体が軽くなっていく。世界が遠く感じる。世界が静かに感じる。

 思えば、ろくでもない一生だった。美子は、自嘲する。

 最初は普通の家族だった。厳しいけど面倒見のいい姉がいて、子供を良く気遣う両親がいて、学校では友達がいて。普通の毎日だった。それが壊れたのは、中学生になったばかりの頃であったか。姉と両親が喧嘩をした。姉が妊娠をして、勝手に降ろした。私はそれを境に不安定になった。気付けば、人を虐げる事で、心の安定を図っていた。高校生になった時、そんな自分の惨めさに気付いた。そして、アイツに出会った。

 美子は、そこで考えるのを止めた。

 それ以上は、思い出したくもなかった。人生で、きっと一番辛かった事。一番後悔したことが、そこにあったからだ。

 歩んでいく。歩んでいく。

 エデンの門はまだ遠い。

 天使は言った。

 振り返ることなく、まっすぐに進めと。

 だから、まっすぐに歩く。

 エデンの門の先に、『普通』の世界を願って。

 

 8――

 天使は言った。

 そこに道はあるかもしれないし、ないかもしれない。仮にあったとしても、まっすぐかもしれない、曲がっているかもしれない。

 屋上の端。一歩先は、奈落。吹き抜ける風が、小さな凛の体を揺り動かす。

 美子の後姿。また少し離れてしまった。手遅れになってしまう。凛は、勇気を振り絞って、右足をそろりと出す。ゆっくりと足を下ろしていくと、途中で硬い何かに当たった。ぐっと体重をかけてみても、硬い何かは不変。とりあえず、その硬い何かの上に立ち止まる。凛は、何もない空の上に立った。本当に道がない。何も見えない。また右足で次の場所を探す。そして昇る。探して、昇る。美子の姿を確認すると、さきほどよりも遠くなっていた。

 悟る。こんな風にちまちまと進んでいたら、絶対に間に合わない。

 意を決する。下を見ずに、美子の背中だけを見つめる。

 一歩、一歩――そして、凛は駆け出した。美子の背中を目指してまっしぐらに。

「高倉さーーーーーん!!

 呼びかける。自分の中の恐怖を振り払うように。

「高倉さーーーーーん!!

 呼びかける。全身全霊をかけて。

「高倉さーーーーーん!!

 呼びかけ続けた。あらん限りの声を出して。

 しかし、届かない。美子の歩みは変わらない。

 届かないなら、届ければいい。

 凛は走った。泣きながら走っていた。涙で曇って美子の姿が霞むたびに、涙を拭った。

 駆け上がる。手を伸ばす。そして――。

「高倉さん!!

 美子の細い腕を掴まえた。しかし、美子はそれでも振り向かずに前へと進もうとしていた。凄い力に、凛は前のめりに倒れそうになる。だが踏ん張った。離してなるものかと、必死にしがみ付く。

「お願い・・・行かないで・・・!」

「手を離せ」

 美子は振り向くことなく、強い口調でそう言った。その迫力に、凛は手を離してしまう。

「アンタには、もう用はないよ。邪魔しないでくれる?」

「高倉さん・・・」

「あ、でもそうだ。言っておかないと。私は別に、アンタを恨んではないから。私が勘違いしていただけ。ゴメン、迷惑かけた」

「待ってください!」

 先に進もうとする美子を全力で呼び止める。

「謝るのは・・・私です。私なんです! ごめんなさい! ごめんなさい・・・! 私、私・・・高倉さんのためにと思って、高倉さんを避けてた。だって、私なんかを助けちゃったから、高倉さんが・・・あんな酷い目に・・・だから、私なんかが近くにいてはいけないんだって・・・そう思って・・・でも、違った。私、自分が原因で高倉さんが苦しむ姿を、ただ・・・見たくなかっただけなんだ・・・。一度も・・・高倉さんの気持ちを考えた事もなかった!!

「アンタ・・・凛は、なにも悪くない。どうして謝るのか、理解できない。人なんて、皆自分が大切。他人は二番目。悪いのは、いつでも私。それでいい。私は私にケリをつける。だから、凛は凛でやりたいことをやればいい」

「私がやりたいことはもう決まっています」

 凛は、美子の腕を再び掴んだ。

「高倉さん、帰ろう。私のやりたいことは、高倉さんと共にあります」

 凛は、深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。いまだに前を見続ける美子の背中に、ずっと彼女に言いたかった言葉を解き放った。

「私はもっと、高倉さんの事を知りたい! 友達になってください!!

 虚空に響く、凛の言霊。彼女の瞳には、強い意思が宿る。

「・・・そっか。なんだ、私・・・馬鹿みたい」

 空を仰ぎ、ポツリと美子は呟いた。彼女は気付いたのだ。

 イジメられている凛を助けた。気まぐれのつもりだったが、そうじゃなかった。凛の姿が、まるで自分のように見えたのだ。直感的に、この子は自分に似ている――そう感じた。似ているなら、虚無に食いつぶされつつある己が心を理解してくれるのかもしれない。美子は、彼女と仲が良くなりたいがために、助けたのだ。だが、素直になれない美子は、それを口に出すことも、態度に出すことも出来ずに、ただ凛の側にいた。それだけで満足していた。望めば壊れてしまう気がして。しかし、破壊は凛のほうからもたらされた。『もう関わらないで』――彼女は、きっぱりそう言った。泣きそうな顔で。今なら分かる。あれは、美子を嫌っている顔ではない。美子を思う顔だった。

 心に渦巻いていたものが、ゆるやかに溶けていく。結局、お互い不器用だっただけで、気持ちは同じだったという事である。

 美子は、振り返った。決して振り返るな――その約束を破って。

「凛、私は美子だ。せいぜい可愛らしく呼びなよ」

「美子ちゃん! アイタッ!」

 即座に頭をはたかれた。スナップがきいていたため、かなりいい音がした。

「理不尽な暴力に晒された・・・」

「やっぱ、やめ。恥ずかしいから、苗字でせいぜい仰々しく呼びな」

「うわ、この人横暴だよ、滅茶苦茶だよ、支配者だよ」

 そんなたわいのない話は、パキンと何かが弾ける音で終息する。凛と美子が、顔を見合わせた瞬間――。

 音をたてて美子が立っていた場所が崩れ落ちた。

 

 9――

 そこにある本当に望んだもの。それに手を差し伸べた瞬間に、終焉(しゅうえん)は来た。

 これが、力を使ったことへの代償だというのか。

 美子の体は、重力に縛られ奈落へと落ちていく――はずであった。

 体がぐんと振り子のように揺れた。落下していない。上を見上げると、自分の腕から別の腕が繋がっているのが見えた。凛の腕だ。彼女は、美子の腕を放さなかったのだ。

 美子の表情に翳ったのは、恐怖だった。

「手を離せ! アンタ、馬鹿?! 支えられるわけないじゃん!」

「嫌です・・・!」

 凛は、しっかりと美子の前腕を握っていた。これでは、美子自身の力で凛の手を振りほどく事ができない。

 美子は焦っていた。凛を巻き込みたくない。死なせたくはない。だが、美子の気持ちは凛とて同じであった。拮抗した思い。だが、重力の枷は美子の気持ちに応える。

 ずるりと滑る。少しずつ滑っていく。

 そうだ。それでいい――。美子は、静かに自分の死を受け入れようとしていた。もう十分だった。新しい世界なんていらない。この世界の、凛の気持ちを抱えたまま、幸せに逝ける。

 パキン。また不吉な音が聞こえてきた。今度は何が崩れるのだろうか。そう考えた瞬間、凛がいた場所が崩れ落ちた。空へと投げ出される凛。しかし、それでも美子の腕を彼女は離さなかった。

 凛は笑っていた。どうしてこの絶望の中で笑っていられるのだろうか。その時、美子は確かに彼女の声を聞いた。

 

『また会えます』

 

 全てが闇に溶け込んでいった。

 

 10――1

 電子音が聞こえる。何の音だろうか。

 空気が漏れる音が聞こえる。何の音だろうか。

 煌々と照る白いランプ。眩しい。

「・・・美子ちゃん」

 遠くから誰かが呼びかけている。うっすらとした視界の中で、微笑む少女の姿。

 星川凛。彼女は、泣きながら笑っていた。変な顔だと、笑う。

 ここはどこなのだろうか。記憶がバラバラになっていてよく分からない。

 帰宅途中だった気がする。

 いや、階段を昇っていたのではないのか。

 しかし、私は車に跳ねられたはず。

 では、さっきまでのは全て夢?

 分からなくて、考えていると気が遠くなる。

 そんなことを考えている内に、美子はあることに気付いた。

 凛が、しっかりと手を握ってくれていた。その温かさに気付いた時、美子も泣きながら笑った。

 

『あぁ・・・私の願いは、こんな近くにあったんだ』

 

 

 

 END

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