「わぁ、凄いねぇ。こんな高級そうな建物に住むのかい?」
中華雑貨店オーナーのリーさんが運転する白いバンが、
パリ14区の<Raymond Losserand通り100番地>の前で、静かに停まった。
午後11時を過ぎた夜中の通りには歩く人の姿もなく、白い猫が石畳の舗道の脇でうずくまっている。
 「えぇ、確かに高級な建物なのですけど、不思議な事に家賃は一般的な値段なんですよ。」
車から降りながら、ここの家賃をリーさんに告げると彼は両手を挙げて、大げさなジェスチャーをした。
 「それは、格安の掘り出しものじゃないか。パリ左岸の14区は庶民的な地域だけど、
もしこれが高級住宅街の8区や16区だったら、物凄い値段になるんだろうね。
家賃の他に、管理費や公共費が掛かるのかい?」
バンの荷台を開け、私の大きなボルドー色のスーツケースやダンボールを降ろしながら尋ねる。
 「それが、家賃以外には掛からないのですよ。リーさん、こちらからお願いします。」
 急いで、大きなガラス張りの重厚で広々とした玄関の右側の壁に駆け寄り、
天井に取り付けられているスポットライトに照らされているベージュ色の大理石の壁に取り付けられた
玄関ロックのボタンに、覚えたばかりの暗証コードを打ち込む.と
玄関の大きく重厚なガラス張りの扉が、痺れるような低音の唸りを上げて
セキュリティ・ロックが解除された。ガラス張りの大きな扉を内側に大きく押し出し、
スラックスのポケットから、この建物の幾つもの扉の鍵の輪を取り出して
二枚目のガラスの扉に鍵を差し込み、広々としたエントランスの内部へと大きく扉を開いた。
 「豪華だねぇ、この床は一枚板の大理石じゃないか。思わず滑って転びそうだね。」
白く塗りこめられた天井に仕込まれた幾つものスポットライトが、
温かく優しい印象を与える柔らかな色と光で、
美しく磨き込まれた淡いベージュとローズピンクが入り混じった大理石を照らし出している。
 「舗道にスーツケースや荷物を置いとくのは物騒だ。
皆で、一旦このエントランスに運び込んでしまおう。」
 リーさんは、舗道に駐車してある白いバンに振り向くと、
助手席に座っている台湾からの留学生、チンさんに台湾語で話しかける。
 三人で、力を合わせて重い荷物を持ち上げてエントランスに運び込み、玄関の二枚の扉を閉めた。
 「マドモヮゼルはスーツケースを持って行ってくれ。
私とチンはこの重いダンボールを二人で運ぶからね。
この荷物の量なら、一度でエレベーターに詰み込むことさえ出来れば直ぐ終わるさ。さぁ、始めよう。」
 正面に取り付けられた、大きな黒いセキュリティ・カメラに見守られ、
荷物を抱えてエントランスを真っ直ぐに歩き、鏡張りの扉のエレベーターの前で立ち止まる。
右側の壁にあるセキュリティ・ロックの鍵穴に鍵を差し込むと、静かに扉が左右に開き
私は直ぐに扉が閉まってしまわないように扉をしっかりと押さえ、その間に
リーさんとチンさんが3個のダンボールを手際よく詰み込んでくれた。
三人が荷物を持って乗り込むと、エレベーターの空間は一杯になった。
 前方右側にあるパネルに5階を選択すると、エレベーターは静かに動き出した。
 「チンさん、重い荷物を持って頂いてありがとう。大丈夫ですか?」
フランスに来てまだ一ヶ月も経っていないチンさんが、フランス語が出来ないのは分かっているが、
私も台湾語が全く出来ないので他に選択肢もなく、フランス語で話掛ける。
彼女も言っている事のニュアンスが伝わったのか、黒いつぶらな瞳を輝かせ、
清潔そうな形の良い白い歯がこぼれる様な、柔らかい笑顔で頷いてくれた。
<同じアジア人なのに、いつから、どうしてこうも違ってしまったのだろう?
 21世紀の日本では絶滅してしまったような、
艶やかな真っ直ぐの黒髪、黒いつぶらな輝く瞳、こぼれるような白い歯に可憐な微笑み。
 礼儀正しく真面目で実直。清楚で、清潔で、清純な女の子。
 台湾に行けば、チンさんのような可愛い女の子が沢山いるのかなぁ。>
自分自身も持ってない清楚な、可憐な雰囲気を彼女を見つめて考え込んでしまった。
<でも、人間は環境の動物と言われているのだから、
二十一世紀の日本に、彼女のような古き良き時代の優雅な雰囲気を持つ女の子が
絶滅してしまったのも自然の成り行きだ。
礼儀正しく真面目で、清純なだけの女の子が幸せに生き残って行けるほど、
今の日本は、優しい世の中ではないのだ。
女性の清純さと可憐さがあるとしたら、それを守り続けくれるものは一体、何処にあるのだろう?
もし、それを守り続けるとしたら、それを持つ女性の強い意志だ。
 しかし、誰がそんなモノを尊重してくれるのだろうか?
今の日本はそんなモノを尊いとは想っていないのだ。
それに変わるものを求めている。それは、・・・・・。>
 鏡張りのエレベターの扉が音もなく左右に開く。
 廊下に踏み出し右手に折れ、突き当たりの右手の深いボルドー色の大きな扉の前で立ち止まる。
鍵穴に鍵を差し込み、部屋の内側へと大きく扉を押し出すと、
長い間、換気もされずにこもった真夏の熱気が、逃げ場もなく部屋の内部に充満している。
 「暑いねぇ、先に空気の入れ替えをした方がいいな。マドモヮゼル。
あとの残りの荷物を運び込んでおくから、明かりを点けて、部屋の窓を開けておいてくれ。」
 背中越しに暗闇の中で、後からチンさんと二人でダンボールを抱えるようにして
部屋の中に入ってきたリーさんの声が聞こえる。
 手探りで入り口から直ぐの右の壁にあるライトのスイッチを探し出し、玄関ポーチに明かりを点ける。
左手に二つ並んだ大きく真っ白なドアの右側のドアノブをしっかりと持ち、
部屋の内部へとドアを押し出したとたん、真っ暗なリビングの暗闇のむこうに続く、
眼下に生い茂る木々を遠く隔ててそびえている建物に、
幾戸ものアパルトマンから、こぼれるようなオレンジ色の温かな窓明かりが光って見えた。
 リビングを横切り、南のべランダに面した大きく重厚なガラス戸を横一杯に開くと、
柔らかい新鮮な夜風が部屋の中にそよいでくる。
<今度は部屋の明かりだが、何処にライトのスイッチがあるのだろう?>
 玄関ポーチを照らしているライトの乳白色を帯びた穏やかで温かい光りが、
扉口からリビングへと射し込んでおり、視界を凝らせばスイッチの場所もわかりそうだ。
 リビングの扉口に戻り、左側へと開いた真っ白なドアの反対側の壁を慎重に手探りする。
<随分と滑らかなさらりとした上質な触感のクロスが壁に貼られているんだな。
まるで、しなやかになめされたスウェード生地のようだ。>
 クロスの上質な肌触りに軽く驚きながら、手探りでスイッチを探すのだが見つからない。
 「おい、おい、どうしたんだい。マドモヮゼル?。まだリビングが真っ暗じゃないか。」
 背中越しに、リーさんが話し掛けてくる。
 「ライトのスイッチが見つからないんですよ。扉口に続く壁にあるはずなんですけど・・・・・・・。」
 隣に立ったリーさんも、重いダンボールを床に下ろし二人で壁を手探りする。
 「どうも・・・壁際にはないみたいだ。だとすると、部分照明じゃないかな?
リビングのどこかにランプがあるはずだ。探してみてくれないか、マドモヮゼル。」
 「ランプですね。ちょっと待ていてください。」
 暗闇の中で目も慣れてきたのか、ぼんやりと部屋に置かれている家具の輪郭が浮かび上がる。
 窓辺に沿って横に伸びた薄暗いリビングを見回し、対角線上の窓際に
180センチメートル程の高さで緩やかに弧を描いている、モダンなスタイルのランプらしき
黒いシルエットが浮かび上がる。
 急いで駆け寄り、ランプの足元にあったスイッチを押すと、
温かなオレンジ色を帯びた光りが、20畳ほどのリビングの中に広がった。
 「立派な広さだねぇ、中庭に面した全面がガラス張りだ。
バルコニーも充分な広さがありそうじゃないか。
 マドモヮゼル、運び込んだダンボールは何処に置いておけばいいかな?」
 扉口に立っているリーさんが、広々としたリビングを見回しながら尋ねてくる。
 「リビング入り口の横に置いておいて下さい。お願いします。」
 長い間、窓を開ける事無く沈滞していた真夏の熱気を開放する為に、パリという大都会にありながら、
静寂を帯びた黒い木々が、豊かに生い茂る中庭に面した重厚なガラス戸を押し拡げていくと、
新鮮な空気と共に、木々の蒼い薫りがゆるやかに、この空間を満たしていく。
 扉口の方へ振り返ると、リーさんがダンボールを運んで来てくれたチンさんに中国語で
入り口横に置くように指示しているようだ。
 「ダンボール三個とスーツケース一個、これで全部かな?
忘れ物はないか確認してくれないか。マドモヮゼル。」
 急いでリーさんの方へ駆け寄り、荷物の確認をする。
 「全部あります。有難うございました。リーさん、チンさん。」
 二人にお礼をいうと、チンさんが中国語でリーさんに話しかけた。
 「あぁ、・・・・・分かったチン、彼女に聞いてみるよ。
マドモヮゼル、チンがこの素敵な部屋とバルコニーから中庭を見てみたいそうだ。」
 「もちろんです。ご覧下さい。
 お二人が私のパリのこの部屋にいらして下さった最初のお客様だというのに、
今夜は祝杯のシャンパーニュもお茶もお出しできないのは残念です。」
 「最初のお客様か?確かにそうだね。
じゃあ、次回にアペリティフのシャンパーニュをお願いするよ。その時はお洒落をして伺うよ。」
 笑いながら、リーさんの温かな手が私の右肩へと優しく置かれ、二人をバルコニーへと案内する。
 三人でバルコニーの重厚な黒い鉄柵にもたれ、星の見えないパリの夜空を見上げると
静寂の中に、涼やかな夜風に紛れて微かにサックスの音がジャズを奏でているようだ。
 
 
ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで
 

パリ左岸14区 真夜中過ぎの夜風

ココ・シャネルに会いにパリのホテル・リッツまで