パリに向かいブルゴーニュを旅立つ日

 「カズミ!もうすぐパリへの迎えが来る時間よ、急ぎなさい。」
一階の階段下から、マダムが呼んでる声がする。
 「Oui、はーい、今すぐ行きます。」
と一階にいるマダムに聞こえるように大きな声で返事をする。
 ベットの横に立ち、いつもマダムに手伝ってもらっているように、
いつもの手順で、糊の綺麗に掛かった清潔なシーツをこの大きなダブル・ベットにかぶせて、
重いマットレスの下にシーツを敷きこみ、皺を寄せることなく真っ直ぐに、
美しくベットメーキングを仕上げようと格闘しているのだが、一人ではそう簡単に終わりそうにない。
時間を気にしながら焦れば焦るほど、美しいベットメーキングとは程遠い結果になっていきそうだ。
 今日でこの部屋ともお別れだ。
 昨日のうちに、パリへの引越しの準備は全て終了し、
私の少ない荷物はスーツケース1つとダンボール3個に詰め込み、既に一階に降ろしてある。
 一年間使わせて頂いた、正方形で12畳程の広さで南に面して大きな窓のある
居心地の良いこの部屋は、パリのグランゼコールに在学している
海外研修で不在のオリックの部屋である。
 夏のバカンスで自宅に戻ってきている彼は、私に部屋を使われてしまっているので、
研修先である東京から帰宅してからの約一ヶ月ほど、
同じ二階にある壁を本棚にある書籍で囲まれたマダムの書斎に
マットレスもなく、布団を引いただけの<ジャパニーズ・スタイルの寝床>で寝ているのだった。
 この部屋は、右の壁一面に数百枚のハリウッド映画とフランス映画のポストカードが、
持ち主であるオリックの几帳面な性格を表しているかのように、
見事なまでに、規則正しく、美しく整列して張り巡らされている。
 部屋の左の壁際に置かれた、天井まである大きなオーク製の
19世紀に作られたアンティーク洋服ダンスも、綺麗に掃除し磨き上げ、
一つ一つの内部の棚も丁寧に布巾で乾拭きを済ませてある。
 南に面して大きく開かれている硝子窓も、硝子クリーナーで綺麗に磨き上げ、
真夏の眩しく光り輝く太陽の光が、外側に向って大きく開かれた二重硝子の窓から、
部屋の隅々にまで丁寧に掃除機を掛けてある淡いクリーム色の絨毯の上と、
その上に置いてある青々と生い茂っているベンジャミンの鉢に、
午前中の新鮮な光をたっぷりとふりそそいでいる。
 部屋の中央に置かれてある重厚で大きな黒いデスクの上も、既に綺麗に布巾を掛けてあるし、
支度が済んでいないのは、このベット・メーキングだけだ。
 「どうしたの、カズミ?早く降りてきなさい。そろそろ時間よ。」
 背中越しにマダムの声がして、振り返るとドアを開けたままの戸口にマダムが立って
こちらを見ている。
 「まだベット・メーキングが終わらないのです。」
 「まぁ、今、カズミがしなくても、後で私とオリックがするからいいのよ・・・・。でも、そうね。
ちゃんと自分で使ったベットを清潔に綺麗にベットメーキングしてから、
部屋を出るのが正しいし、礼儀だわ。私も手伝うから二人で仕上げてしまいましょう。
カズミ、そちらのマットレスの端を持ち上げて。」
 マダムが私の反対側のベットの脇に回りこみ、二人でマットレスを持ち上げて、
シーツを素早く敷きこみ直す。
 「絨毯には掃除機も掛けてあるし
窓ガラスやあのアンティークの洋服ダンスまで綺麗に磨いてくれたのね。
この部屋、とっても綺麗になったわ。ありがとう、カズミ。」
 ベットの左右に別れた端から、いつものように二人でシーツを引っ張るようにして皺を伸ばし、
シーツを真っ直ぐに敷きこんでいく。
 「今晩からオリックがこの部屋をすぐに使えるように、掃除は全て済ませておきました。
それと、マダム。あのベンジャミンの鉢はパリに持っていけないので、一階のリビングにある
マダムの大きなベンジャミンの鉢の横に置いて行ってもいいですか?」
 「えぇ、もちろんよ。そのベンジャミンはカズミの置き土産だと思って、
ちゃんと私が大きく育てますからね。」
 マダムは笑顔で答えると、二人で息を合わせて重いマットレスをずらさないように静かにおろす。
 「カズミ、パリに行っても頑張るのよ。」
 「はい。」
 マットレスにシーツを皺を寄せることなく敷き終えたら、
今度は上掛けのシーツと夏用毛布をセットにして掛けた。
 「リッツに行って、例え周りの人とお友達になれなくても、一人だったとしても気にしてはダメよ。
週末には、いつでもここに帰って来ればいいし、
ロレンヌも来期からパリで法学の勉強を始めるから、何かあったら彼女に電話しなさい。
リッツで過ごす間は、余分な事は考えないで一生懸命に頑張って勉強し、
修了書と実地研修を無事に最後まで終了させるのよ。」
 マダムは心配しているのだ。
ホテル・リッツという世界からの富豪や王族、お金持ちの集まるところで、
私が誰からも相手にされずに、一人で寂しく過ごすのではないかと心配しているのだ。
 それは、充分に予想されることだった。
私は尽きる事無く湧き上がる石油王や、IT富豪などのお金持ちの令嬢ではないし、
通り過ぎるだけで、人々を振り返らせるような魅惑の美貌も
豊かなプロポーションも持ち合わせてはいない。
 人々を惹き付けて、人が羨むようなものは何も持っていない。
私と付き合ったところで、得になる事は何もない。地味な風貌の普通の日本人だ。
 不況が吹き荒れているとはいえ先進国である日本人なので、
あからさまな人種差別は受けた事はないが、
白人種、特にアングロサクソン優位の姿勢を持つ人がいるかもしれない。
 でも、一度だけフランスに来てから、大学の構内で大きなケンかをしたことがある。
 5・6人のグループで一つの主題を研究し論文をまとめる事になっていたのだが、
オーストリアから来た二人の男子18歳の学生達は、他のフランス人学生とは話をし
研究を詰めていくというのに、私とインドから来たアジア人には視線さえ合わせようとしない。
 最初は
<私は社会人も経験した25歳の大人なんだ。18歳のガキ相手に腹を立てても仕方が無い。>
と自分を抑えていたのだが、私達二人のアジア人を除いて勝手に論文をまとめ上げ、
教授に提出しようとしていた事が発覚した。これは許される事ではない。
 インドから来た学生は母国に幼い子供と夫を残してきた23歳の国費学生で、
この必須単位を落す事は許されないし、
自費留学の私も自分の時間を犠牲にして必死に勉強しているのだ。
 それを地続きの近所のヨーロッパから自動車で簡単にやって来たような、
自分勝手で我が儘な学生の、幼稚なイジメに屈する訳にはいかない。
 彼女の人生や未来の生活と、私の留学に費やしている情熱と時間とお金を無駄にさせる事を
決して許してはならないのだ。
 瞬間的に込み上げて来た怒りから、身体中を張り廻る血管網に
沸騰したような熱さを感じる血液が逆流し、しばらく時間を置いて冷静に考えた後、
彼らの傲慢さと現実の事実を結果的に周知の物とし、狡賢い彼らの裏工作をさせない為に、
どう阻止すれば良いか案を練った上で、事前に教授に相談し、
彼らに和解案を申し入れてもらったのだが、彼らは私達と視線を合わせる事さえしなかった。
 論文提出の日、教授が入室し学生達で一杯の静かな教室で、
彼らの机に静かに歩み寄ると、その問題の論文が入力されたフロッピーディスクを
床に叩きつけて壊し、印字された論文を破り捨てた。
 この態度が醜く馬鹿げているのは、破り捨てている瞬間も、そして今も良く解るのだが、
この時の行為が正しくなかったとは言い切れない。多分、それで良かったのだろう。
 その日、除け者にされていたインド人の学生と私が共同で執筆した論文を教授は受け取ってくれ、
無事に単位をとる事が出来たのだから。
 要するに18歳のオーストリア学生は、大人としての態度と文化的な美意識の基に
<様子を見る為に、沈黙を守った>私達の態度を軽く見て、バカにしていたのだ。
 二十一世紀になっても、ある思想と歴史を持つ白人にとって、
根拠のない白人至上主義と白人種の優越は白人の中からは消えてなくならない。
そんな彼らにとって日本は先進国なので、アジア人種ではあるが
準白人種のポジションに置かれているのではないかと感じる事はある。
それを、感覚的かつ敏感に察知するのは私が白人ではないからだ。
 しかし、生まれた時から<豊かな先進国・日本>で育って来た私には、
人種としての劣等感を感じる感覚さえ持ち合わせてはいないのだ。
 「カズミ、最後まで負けない気持ちが大切よ。
大丈夫、成功するって信じることが人生を生きる上での基本になるのよ。
 さぁ、ベットも綺麗に整った事だし一階に降りていきましょう。忘れ物はないわね?」
マダムは大きく部屋の中を見回す。
 「全ての準備は整いました。忘れ物はありません。」
 そう言いながら、部屋の中央に置いてあるジャスミンの鉢を両手で持ち上げた時、
 「カズミ!迎えの白いバンが来たわよ。」
と、ロレンヌが大声で叫びながら部屋に飛び込んできた。
 「まったく、ママたらカズミを部屋に呼びに行ったら、一緒になっていつまでも戻ってこないんだから。
下に置いてあった荷物はオリックとJ・Pがバンに積み込んだから、後はカズミが乗り込むだけよ。
そのジャスミンの鉢もパリに持って行くの?」
 「これは、マダムのジャスミンのコレクションに加えてもらうの。」
 「そう、家に置いておくのね。だったら、それを持ってあげるわ。急ぎましょう!」
と言い終わらないうちに、私の持っていたジャスミンの鉢を抱えて部屋を出て行く彼女の後に続いた。
 急ぎ足で階段を駆け降り、キッチンを通り抜ける時に前を歩いていたロレンヌが、
ジャスミンの鉢をキッチンの南に面したガラス戸の脇に置いた。
 「ここに置いて育てましょう。そうすれば、皆の眼も届くしカズミのことをいつも考えるでしょう。」
 ロレンヌは振り返って、私に笑って見せた。
<私もジャスミンの鉢のようにパリに行かずに、ここで残ってピッチオ家の皆と楽しく過ごしたいなぁ>
と、弱腰な考えが頭をよぎる。
 キッチンに面したテラスから、青々とした芝生が茂る庭に出ると
エンジンをかけたままで舗道に止まっている白いバンの横に立ち、
こちらに向って大きく手招きしているムッシューとオリックが見えた。
 「おーい、三人とも早くしないとダメだぞ!
今日はパリで何処かの公団がストライキをしていて、道路が渋滞するらしい。
早く出発しないとパリの下宿先の着くのが夜中になってしまうと、
バンの中で待ってるムッシュー達が心配しているぞ。」
 ムッシュー・ピッチオが心配そうに、大きな声で呼んでいる。
走って白いバンの横に駆け寄り、ムッシューとオリック、
そして、マダムとロレンヌの両頬にあわただしくキスをして別れの挨拶を交わす。
 「パリの下宿先に着いたら、夜遅くなっても電話をするのですよ。」
とマダムが心配そうに言うと、横に立っているオリックが
 「電話できるはずないだろ、ママ。下宿には、まだ電話は設置してないのだから、
それに、土地勘のない場所で夜に公衆電話を見つけるほうが危ないよ。」
 「そうね。オリックの言う通りだわ、下宿に着いたらすぐに寝て、次の朝早くに家に電話してくるのよ。
それに一人で暮らすのだから、鍵はしっかり掛けてから寝るのよ。」
ロレンヌが私の肩を軽く叩きながら言う。
 「おいおい、今日が永遠の別れじゃないんだぞ。うちの家族は、全く大げさなのだからな。
カズミだって、寂しくなればいつだってTGVにのって家に戻ってこれるんだ。
それよりも、早く車に乗って出発しないと本当にパリに着くのが夜中になってしまうぞ。」
 大げさなのは、フランス人の専売特許だ。その最もフランス人らしい、いつも大げさなムッシューに
急かされてエンジンの掛かったバンの助手席に乗り込んだ。
 「マドモヮゼル、もう出発してもいいかい?」
運転席に座っている中華雑貨店のオーナーが、バックミラー越しに
バンの後ろで見送っているピッチオ家の人々の様子を見ながら尋ねてくる。
 私の隣には、既に大学の学生寮から乗ってきているアジア人の女の子が静かに乗っていた。
 「今日はパリまでお世話になります。出発してください、ムッシュー。」
 「では、出発するよ。シートベルトをしっかり締めるんだよ、マドモヮゼル。」
アクセルをゆっくりと踏み込み車が静かに動き出して、徐々にスピードを上げて行く。
 私は右のサイド・ミラーから、だんだんに小さくなっていくピッチオ家の皆を見つめていた。
四人は走り去るバンに向って、大きく同じリズムでいつまでも右手を大きく振っている。
 少し汚れていて、ゆがんだサイドミラーの中で4人の姿は小さくなって行く。
 車が車道の突き当たりにある、ロータリーをゆっくりと左から右へと回り込んで右折すると
サイドミラーの中の小さな彼らの姿が消えた。
 窓ガラスを大きく開けている助手席の窓から、風力を重く感じる風が流れ込んでくる。
目の前が歪んで、あふれ出る涙が落ちることなく、真夏の暑い風に飛ばされて頬を横へと流れて行く。
 左の太ももに人の手の感触を感じて、振り向くと隣に座っている女の子が無言で
薄桃色の木綿のハンカチを差し出している。
 「どうもありがとう。お借りします。」
彼女から差し出されたハンカチを受け取ると、彼女は無言で頷いた。
 「あぁ、彼女は一ヶ月前に台湾から来たばかりで、まだフランス語が解らないし話せないんだよ。」
彼女は無表情で私の顔を見つめている。
 「マドモヮゼルは、本当に良い下宿先に恵まれていたんだねぇ。
私も、もう何年もパリへの引越しをする為に何百件もの下宿先に迎えに言っているが、
あの家族ほど、私に<何時ごろ、パリに着くのか?>とか、
心配そうに色々と尋ねてきた家族はなかったし、
この車が見えなくなるまで手を大きく振って見送った人々はいなかったからね。
 マドモヮゼルは、あの家で大変素晴らしい時間を彼らと過ごしてきたんだねぇ。
だいぶ遅れをとってしまった。スピードを出してパリに向うから、
二人ともしっかりとシートベルトを閉めるんだよ。」
 車はスピードを上げて、対向車のない真っ直ぐなアスファルトの道路を
真夏の太陽の光を浴びて反射している、豊かに生い茂った緑の田園を走りぬけていく。
 私はパリに向うのだ。そう、また一歩先のまだ見ぬ未来へ・・・・・・。
 




ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで

ピッチオ家の食卓


 「熱い!口の中が火傷しそう。
 でも、ママ、このグリュイエール・チーズのグラタン、ちょっとチーズの量が少なくない?
それに塩加減も薄いわよ。チーズはもっと足さないと、それに塩・胡椒もね。
カズミ、塩と胡椒を取って!」
 真っ白なお皿に盛られて、湯気を立てている熱々のグラタンをフォークで口に運ぶと、
慌ててコップに入った水を飲みながら、テーブルの脇に置いてある塩と胡椒の容器を指差した。
 ロレンヌに木製の大きな黒胡椒挽きと塩の入った白い陶器を手渡す。
 「カズミだってチーズが沢山の方が美味しいでしょう?だったら手伝って。
冷蔵庫の中にグリュイエール・チーズが入っているはずだから、
チーズ挽きでグラタンの上に、たっぷりと挽いてちょうだい。」
 食卓の右隣に座っているロレンヌがグラタン皿の上に黒胡椒を挽きながら、
今度は冷蔵庫を指差して指示を出す。
 食卓の右斜め前に座っているマダム・ピッチオは、オーブンから取り出したばかりの
チーズが熱でとろけているグラタン皿から、サーバーでグラタンをお皿に大盛りで盛り付けながら
 「あら、そうかしら?カズミは私の作るこのグラタンの味が大好きなのよね。
はい、どうぞ。お替りも一杯あるから沢山食べるのよ。カズミ。」
 笑顔で、お皿を私の前に置いてくれる。
 「はい、マダム。マダムの作るグラタンが大好きです。<私、食べ始めます。>マダム。」
と言いながら、マダムを見ながら頭を少し下げてから、フォークを持ち熱いグラタンを食べ始める。
 フランスには食事を食べ始める前に<いただきます。>と言う習慣もなければ、
それを言い表すフランス語の表現も存在しない。
 だから、私は毎回食事を頂く前に、食事を作ってくれたマダムに感謝の意味も込めて
少し頭を下げて<私、食べ始めます。>とマダムに挨拶をしてから、
食事を始めるのが習慣になっていた。
 「はい、召し上がりなさい、カズミ。ほら、ロレンヌも聞いたでしょう?
カズミはママが作るグラタンの味が美味しいって。美味しいわよねぇ。あなた。」
 そう言いながら、少なめに盛ったグラタンのお皿をムッシュー・ピッチオの前に微笑みながら置く。
 「そんなの当たり前じゃない、ママ!
カズミはいつだってママに<Oui、ウィ はい>としか言わないんだから。
ママの言う事に、反対意見なんか言わないわよ。」
 椅子から立ち上がり、冷蔵庫の扉を大きく開きグリュイエール・チーズを探し出した。
 皆の座席の前にグラタンのお皿を置いたマダムは、食卓にゆっくりと着席する。
 「ママ!冷蔵庫のどこにチーズがあるの?見つからないわよ。」
 大きな冷蔵庫の中に頭を突っ込むようにして、ロレンヌはチーズを探している。
 「あるでしょう?ママはグラタンを作ってから、ちゃんと冷蔵庫に仕舞ったのだから。
オリック!食事の用意が出来ましたよ。テレビを消してテーブルに着きなさい。」
 コップに水を注ぎながら、マダムはリビングでテレビを見ているオリックに声を掛ける。
 「ママァー、今いいところなんだよ。俺の食事は後でいいよ!」
 リビングのソファーで寝そべってテレビを見ているオリックが、
邪魔されて面倒くさそうな大声で、叫びながら返事をしている。
 「あぁ、まったくもう、東京の研修から久しぶりに家に帰ってきて、
家族全員で食卓を囲めるというのに、オリックの躾はなってないな。
お前、ちゃんと息子の教育をしないとダメだぞ!」
 食前に薬を飲む習慣のムッシュー・ピッチオは、大きな白い錠剤を3粒水でゆっくりと流し込み、
フォークを持つとマダムの顔も見ずに、
いつものように両肩を上げた大げさなゼスチャーを添えて小言を言い始めた。
 <フランスの家庭も、日本の家庭も日常生活の実態は大して変わらないなぁ。
子供の躾は皆母親のせいなのか。フランスの父親と日本の父親に違いはないね。>と、
ムッシューのおおげさで些細な小言を聞きながら、熱々のグラタンを食べる。
 ピッチオ家にお世話になってこの一年、フランス人の家庭で日常生活をしているのだが、
不思議な事に戸惑う事はなかったように想う。
 今、こうやって食卓に座っていると、目の前に座ってゆったりとグラタンを食べながら
フランス語を話している、豊かな栗色に白髪交じりの髪や、
彫りの深いはっきりとした二重の目に灰色の大きな瞳のムッシュー・ピッチオや、
ブロンドの髪に碧眼のマダム・ピッチオが、<ヨーロッパ人種の着グルミ>を脱いだら、
私と同じ黒髪・黒目のアジア人種のムッシューやマダムが、日本語を話し出して
出てくるのではないかと錯覚してしまうほど、フランス人家庭の生活と日本の生活に
本質的な違いはない。
 「カズミはいつでもママの言いなりですからね。ママの前では自己主張をしないの。
でも、本当は食い意地は張ってるから本当はチーズがたっぷりの方がいいのよね。」
 ロレンヌは自分のお皿に盛られたグラタンに、グリュイエール・チーズをたっぷりと詰め込んだ
チーズ挽きを左手にしっかりと持ち、右手で取っ手を大きく回し始め、
おろしたチーズがグラタン皿の上で山のように盛り上がっていく。
 「カズミはどうするのよ?チーズがもっと欲しいなら、お皿を私の方によこしなさいよ。」
 「お願いします。」
 ロレンヌの前に、急いでグラタン皿を差し出す。
 「ほらね、ママ。」
 私のグラタン皿にチーズをたっぷりと挽きながら、
勝ち誇ったように得意げな笑顔を浮かべてマダムに言った。
 「ロレンヌ、それは仕方がないわよ。
カズミは今までだって、食べる物を断ったことがないのですもの。
 さぁ、今度はサラダを回しますから、自分で好きなだけ取り分けてね。」
 ロメンレタスとトマトの盛られたクリスタル製のサラダボールをムッシューに手渡した。
 「はい、カズミ。グリュイエール・チーズをたっぷりと追加したわよ。
それに、今日は引越しの手配をお願いしに行くって市街地に出かけていったのでしょう。
ちゃんとパリに行く為の手配が出来たの?日にちはいつ頃?」
 ロレンヌが山盛りされたチーズのグラタン皿を、目の前に置いてくれる。
 「ありがとう。引越しの車は、あさっての朝十時に迎えに来ます。」
 「あさっての十時?カズミ、フランス語が間違っていないか?
<あさって>の意味は明日の次の日。
つまり今日の夜寝て、次の日の夜も寝て起きた日の十時だぞ。ちゃんと単語が解っているのか?」
 ムッシューがサラダボールを私に手渡しながら、フランス単語の解釈を教えてくれる。
 「はい、解ってます。二日後の朝十時です。」
 「二日後なんて急すぎるじゃない!それに迎えに来るって何処の誰が迎えに来るのよ?」
 ロレンヌは驚いていると言うよりは、なぜか怒ったように聞いてくる。
 「だってその日しか、デイジョン市役所にある中華雑貨店のオーナーが
パリの引越しを請け負えるスケジュールが合わなかったから仕方がなかったの。」
 右隣に座ったロレンヌを見ながら、説明する。
 「まぁ、中華雑貨店のオーナーがパリまでの引越しを請け負っているの?
大丈夫なのカズミ?ちゃんとした引越し業者ではないのでしょう。危険はないの?」
 マダムがフォークを持つ手の動きを止めて、心配そうに聞いてくる。
 「友人の知り合いの方なので大丈夫です。
それにブルゴーニュ大学に留学しているアジア人の学生がパリに引っ越す時は代金も安いので、
その中華雑貨店のオーナーに頼む学生が沢山いるのです。」
 「でも、不思議よね。
なんで、そんなサイド・ビジネスを中華雑貨店が安い代金で、パリへの引越し屋をしているのよ?」
 疑問が明らかに解消されるまでは、裁判官を目指している熱血漢で才女のロレンヌは
尋問をゆるめない。
 「月に数回、パリにある中華市場に仕入れに行くので、ディジョンからパリに向う時に
車の荷台が空いているので、そこに学生の引越し荷物を載せて行くのです。」
 「それなら理由が合うわね。有効的なサイド・ビジネスだわ。
毎月の仕入れだったら、パリまでのガソリン代だってばかにならないものね。」
 納得したロレンヌはグラタンにフォークを突き刺した。
 「大学で講義をしながら、毎日学生達と接しているというのに、全く知らない事もあるものだね。
アジア圏からの学生達だけに情報が流通する<アジア・コネクション>が存在するのか。
それにとてもユニークだ。中華雑貨店のトラックに沢山荷物を積み込んで、
車に揺られながら学生達がパリへと出発して行くのだろ。」
 ブルゴーニュ大学法学部教授であるムッシューは、感心したようにゆっくりと頷きながら
サラダをお替りしている。
 「お替りはいいの?カズミ、もっと食べなさい。」
 私のグラタン皿に、最初の一皿目と同様に大盛りのグラタンを盛り付けてくれた。
このマダムによる私の意志を聞く前に、笑顔と共にお替りをお皿に載せてしまうこ習慣は、
私がこの家にやってきた日の夕食から始まり、体重が徐々に増加し4キロ程増えたところで
どうにか停滞しているところだ。マダムの私に対しての食事の量は、
明らかに気前が良すぎるのだが、それを毎食、食べ残す事無く完食してしまう私も私だ。
 「確かに明後日に引越しするのは急すぎるけど、もうパリの部屋の家賃が発生しているし
来週の金曜日からはホテル・リッツの講習が始まるのでしょう?それに、
日常生活の細々とした準備やパリでの銀行口座の開設や電話設置などの手配も
結構、時間が掛かるから早めにパリに行くのは良いことよね。」
 ロレンヌはそう言いながら、サラダボールに残ったサラダを全部、私の皿に盛っている。
<あぁ、もうやめて!ロレンヌ。もうそれ以上はいくら何でも食べられそうにない!>
と憂鬱な気分に襲われるが、そんな事はおかまいなしの様子だ。
 「ねぇ、ママー。俺の飯は?」
 テレビを見終わったのか、よれた赤いTシャツを着て背中を掻きながらオリックがやってきた。
 「今頃やってきたって、もうそんなに残ってないぞ。」
 グラタンを食べ終わりコップに水を注ぎながらムッシューが、
テーブルに着こうとしているオリックに言う。
 「ねぇ、ママ。俺のグラタンこれだけなの?・・・・あれぇ、それにサラダももうない!終わっている。」
 「お行儀悪く、食事時にテレビを見ていて、今頃来たって残ってないわよねぇ。ロレンヌ。」
 マダムは、首を軽く傾げながらロレンヌに目配せしてみせる。
 「そうよ、カズミが全部食べちゃうわよねぇ。ねっ、カズミ。」
 ロレンヌが私に笑いながら、軽くウインクした。
<えっ!それは濡れ衣だ。私の意志で全部食べている訳ではない。
オリックの躾のダシにしないで欲しい!あぁ、オリックがこっちを見て睨んでいる。>
 「せっかく、息子が世界中の都市を廻りながら研修を終え、やっと一年ぶりに家に戻ってきたら
メシは、俺の留守中に日本からやってきたカズミに全部喰われている。
 あぁ、なんてことだ。信じられない!」
<だから、それは濡れ衣だ!オリック!>
 「別にいいよ、俺のメシをカズミが全部喰っちゃっても。
俺は、冷蔵庫に入っているソーセージを食うからさ。」
 イジケタ様子で、冷蔵庫の扉を開いてソーセージを探し始めた。
 「ねぇ、来週からカズミがホテル・リッツに通うといっても、一体何を着ていくの?
五つ星超豪華ホテルに入れるような、洋服をカズミは持っていたかしら?
ドレスとかも必要なのかしら。」
 ロレンヌはロメンレタスをフォークで指しながら私ではなく、なぜかマダムに話しかける
 「そうよねぇ、一体何を着ていけばいいのかしら?ドレスは持っていないわよ。
カズミは豪華な服も、派手な服も持っていないけれど、学費の入金確認の為に
リッツにちゃんと入れたのだから、あの日のような普通の格好で大丈夫なのではないかしら。」
 ここに来てから洗濯や洋服のアイロンがけは、全てマダムにお世話になっているので、
数少ない私のワードローブはマダムが管理しているのも同然だった。
 「19世紀でもあるまいし、今ではパリの五つ星ホテルと言っても利用率が高いのは
海外からのビジネスマンか、国内でも仕事絡みの利用が多いだろうし、
ドレスなんて時代がかった大げさな格好でホテル内を闊歩している人はいないだろう。
 パリのオートクチュール産業だって、その顧客数は20世紀初頭と比べれば
世界規模にして半分以下に減っていると言われているのだからね。
 心配する事はない、アイロンの掛かった清潔でスタンダードな服装を心掛けるのが
大切ではないかな。」
そう言いながら、ムッシューはナプキンで口の周りを拭っている。
 「心配だわ、一人でちゃんと生活できるかしら。カズミは結構、世間知らずじゃない。
パリは大都会なのよ、ディジョンみたいな地方都市じゃないのよ。判っている?」
 ロレンヌがいつもの調子で、私の教育を始めた。
彼女の熱血的な性格と正義感が疼くのだろう、裁判官を目指している彼女は
リビングでソファーに寝そべってテレビを見ている時も、
その番組が刑事・民事事件などの法廷を舞台にストーリーが展開していると、
俳優や女優の言動を見ながら「あぁ、この場合においては、
主人公の弁護士の言ってる事はおかしいし、それにこの裁判官の対応も変よ。
ちょっと、待ってて・・・・。」と二階の彼女の部屋に駆け上がり、
フランスの六法全書のような分厚い法曹書をもってきて、
 「いい?カズミ。この場合における親の親権はね・・・・・。」
と、なぜか単語も満足に理解できない私に説明を始め、
例え日本語で話してもらっても理解できないような、
難解で未知のフランス法曹単語の洪水のような法律のレクチャーを黙って受けるのだった。
 「パリには色々な人がいるのよ、上手い事言って近寄って来る人もいるから
良い人ばかりじゃないんだから、人間には注意するのよ。」
 右手の人差指を振りながら、説教を始めるた。
 「大丈夫よ。カズミは結構、怖がりで用心深いから。」
 マダムが助け舟を出してくれる。
 「でも、パリには結構多いんだぜ。日本人の女の子専門にナンパを繰り返す男。
日本からパリにやって来て、大体の留学期間は一ヶ月から半年・一年行くか行かないかで
帰国するだろ、そうすると男にとっても具合が良いんだよな短期で縁がさっぱり切れてさ。
 すると、次の女の子を見つけるんだ。まぁ、女の子の方も数ヶ月の短期間でフランス語を
身に着けようと焦ってて、ほらガイドブックとかに良く載っているだろ
<語学を短期で上達させる為の最善で最短距離は現地人との恋愛!>なんてさ、
鵜呑みにして簡単に引っかかってくるし、滞在費を切り詰めようと男の部屋に転がり込んだり
双方の利害関係が一致するらしいんだよな。」
 グラタン皿に残った焼けてこびり付いた香ばしいチーズをこそげ落として食べながら、
オリックが話に割り込んできた。
 「そんな下品で下劣な話をしないでよ。それに、何でそんな事オリックが知っているのよ。」
 ロレンヌが右隣に座っているオリックの方を向きながら尋ねている。
 「だって、そんな事パリじゃあ良くある話だからさ。まぁ、パリだけじゃなくて、
ロンドンでも、NYでも、東京でも<留学して勉強中だ。>って言いながら、勉強もしないで
学校にも通わず、カフェやレストランでバイトして適当に時間潰しして、帰国する奴ら。」
 「カズミは、人の部屋に転がり込まなくてもお金には不自由してないし、
パリで羽目を外したり、散財するタイプでもないでしょ。
 それに、ママがちゃんと毎日、きちんとしたフランス語を教えているのだから、
素行の悪い男の人なんて関係ないわよね。」
 IUT技術系短期大学の英語教授であるマダムが自信を持って、私に笑いかけた。
 「そうよ、それにカズミは男の人にモテないから大丈夫よねっ!」
<えぇ!確かに私はモテないが、そんなに自信を持って言い切るなんて、一体どういうこと?>
 オリックに向ってロレンヌは、自信をもって太鼓判を押している。
 「そんなことないかも知れないぞ。
先週、若い男からカズミのところに電話が掛かって来ていたじゃないか?」
 家族のやりとりを黙って聞いていた、ムッシューが口を開いた。
 「あぁ、それ?それはね、あなた。
カズミは毎週土曜日に大学の図書館で日本語を専攻している男の子と
日本語とフランス語の交換レッスンをしているのよ。
ディジョン郊外のタロンに住んでいる男の子からよ、その電話は。」
 なぜか、先週私に掛かってきた電話の事さえ、マダムが説明し始めた。
この家で、私が秘密に出来る事はないのだ。
マダムとロレンヌの管理下に置かれているのだが、それはそれで大変居心地が良い。
 「カズミ、男には気をつけるのよ。分かった?」
 目の前で右指を大きく振りながらロレンヌが迫力を出して言うので、私も大きく頷いてしまう。
 「そうだよ、リッツなんて金が唸っていそうな場所に毎日通うのだから、
金目当ての男につけ回されるかもな。」
 オリックがロレンヌの後に続いて、たたみ込んで来た。
 「こらこら、二人ともカズミをそんなに脅かしちゃダメだぞ。
冷蔵庫からデザートのヨーグルトを出してくれないか?」
 ムッシューは二人をたしなめてから、マダムにヨーグルトを頼むと
マダムはゆっくりと立ち上がり冷蔵庫の扉を開いて
六種類のヨーグルトがビニール・パックされた物を取り出してから席に着いた。
 「あなたはプレーンでいいわよね。」
 そう言いながらプレーン・ヨーグルトのカップをムッシューの前に置いた。
 「カズミは、チェリーのヨーグルトが大好きなのよね。はい、どうぞ。」
 チェリーのヨーグルトを手渡してくれる。
 「えぇー、何でママはチェリーのヨーグルトをカズミに渡すの?
それはいつも俺が食ってたじゃない!あぁ、家中の食い物が全部カズミに集まっていく!」
 「ママずるいわよ。その六種類のヨーグルトの中でチェリーが一番美味しいじゃない。
ママはいつでも、カズミに一番に渡しちゃうんだから、そんなのずるいわよ。」
 いっせいに二人が、大きい声で不満を言い始めた。
その二人の勢いに思わず遠慮をして、チェリー・ヨーグルトをオリックとロレンヌの前に押し出した。
 「どうしたんだよ?食わないのか?」
 「可哀想に、二人が大騒ぎするから食べられなくなったのよね。遠慮しないで食べなさい。」
 マダムは勧めてくれるが、たかがヨーグルトで根に持たれては堪らない。
 「今日はいいです。」
 「どうしたんだよ。それじゃ、食いたくないのかよ?」
 オリックが、怪訝そうな表情で尋ねてくる。
 「いいえ、食べたいです。」
 「本当は食いたいくせに、まどろっこしい<遠慮>の演技なんかするなよ。さぁ、喰え!」
 チェリー・ヨーグルトの蓋をめくって、オリックはテーブルの上にあったスプーンと一緒に
私の前にそれを押し出してきた。
 「いいわよ、食べちゃいなさいよ。」
ロレンヌまで急に態度が軟化し、食べていいと言い始めた。
<きょうだい揃って、結構あまのじゃくな性格かも?二人の気が変わらないうちに、
早く食べてしまおう。>
 目の前に押し出されたチェリー・ヨーグルトを食べ始めながら、
<こんな楽しく、賑やかなピッチオ家の食卓も、明日の晩でお別れだ・・・。>
そう想うと、甘酸っぱいチェリー・ヨーグルトが、少し切なく寂しい味がした。

ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで


パリに向かいブルゴーニュを旅立つ日

 「マダム?」
 ひんやりと気温を落し始めた夕暮れの風の中に、優しい響きを持った男性の声が重なる。
ゆっくりとその声を探すように、右肩越しに視線を上げていく。
 「随分と長い間、空のグラスを見つめて物思いにふけていらっしゃいましたね。」
 そこには、キールを運んでくれたサービスの青年が、透明な真紅の夕陽に包まれながら
穏やかで優しい笑顔を浮かべて立っていた。
 「長く深い物思い、それは鮮やかな想い出の記憶ですか?」
左手にステンレスの丸いトレーを持ち、カフェ・テーブルの上に置いてあるグラスを片付け、
流れ落ちた滴をトーションできれいに拭き去る。
 目の前に広がる石畳のリベラシオン広場にも、真夏の夕陽に照らされ
透き通るような真紅の光に包まれていた。
 「ムッシュー、あなたの仰るとおりです。
二日後、私はこの街からパリに向かい旅立ちます。
多分、そのせいでしょう、センチメンタルな気分になっているのですね。
 あなたに作って頂いた、ディジョンでの想い出深い<キール>が、
ここで過ごした私の青春の時へと、誘ってくれたのでしょうか?
青春というのも、おかしいのかもしれません、
私はもう25歳で、本当ならあなたのように一生懸命に仕事をしていなくてはならない歳なのに。」
 自分の言った事に少し照れながら、風に飛ばされて仕舞わないように
小さな白い灰皿の下に置かれているレシートを手に取った。
 「<青春の時は、その人が未来に向って輝く情熱や勇気、行動を止めなければ、
どこまでも青春の時は続いていく。未来に向ってひるんだり、怖気付いたりして
過去ばかりを振り返りだしたら、それは老人だ。>と
98歳の未だに青春の時を生きている祖父は言っています。
彼は昨年、恋に落ちて再婚までしているのですよ。素晴らしいでしょう?」
 「<衰える事のない情熱の継続>、素晴らしいですね。」
 カフェ・テーブルにキールの代金と一緒に、多めのチップを置いた。
 サービスの青年は丁寧に代金を確認し、レシートを支払済みの印の為に半分に破る。
 「ありがとうございます。パリでは何をなさるのですか?」
 席から立ち上がろうとしている私に笑顔で尋ねながら、後ろからゆったりとした動作で
静かに椅子を引いてくれる。
 「ありがとう、ムッシュー。ヴァンドーム広場のホテルリッツで<美食の殿堂フランス>の真骨頂、
<美食学とそのエスプリ>を学びます。あなたのような心からのサービスの真髄を学ぶ為に。」
 大げさな言い回しの表現で両肩をすぼめて、笑いながら答える。
 「あぁ、・・・・・やはりそうでしたか。」
 青年は、小さく頷き納得したような表情を浮かべた。
そして、黒いタブリエのポケットからワインのラベルを取り出した。
 「やはり、僕が最初に感じた通りでした。
あなたがグラスを持ち、ゆっくりと様子を眺めてから口に含んだ時の表情、真剣な眼差しに
僕は<この人は、食に関わっている人かな。>と感じたのです。
 これは先程お出しした僕の実家のワインのラベルです。裏に住所とメール・アドレスが書いてあります。
よかったら、ブルゴーニュに戻って来た時にでも立ち寄ってください。」
 青年が差し出したラベルを受け取り、カバンから取り出したハンカチでそれを丁寧に包み
カバンの中に仕舞った。そして、別れの挨拶を交わすための右手を差し出した。
 「ありがとうございます。ぜひ、日本へ帰国する前には寄らせてもらいます。
さようなら、ムッシュー。」
 「さようなら、マダム。あなたのパリでの毎日が出会いと感動に満ちたものでありますように。」
 大きな彼の右手はしっかりとした骨太な感覚と同時に繊細さを感じさせた。
しっかりと握手を交わす二人の間に、真夏の夕陽が運んできた温かな突風が走り抜けていく。