二杯目のひんやりと冷たいキールの心地よい咽越しを楽しみながら、
リベラシオン広場を見つめて思い浮かぶのは、ディジョンで過ごした過ぎ去った日々の事ばかり。
 あさってにはブルゴーニュを旅立ち、パリに向わなくてはならない。
<パリのホテルリッツで学ぶ事。>それが、この留学の真義であるにも関わらず、
この場を立ち去らなくてはならない日が現実に目前に迫り、パリで過ごす未来への期待や希望よりも
ここで過ごした人々との出会いや時間に捕らわれて、感情が足踏みし実行力が機能停止しているようだ。
 パリでの新しい生活に不安はない。大きすぎる過大な期待も持っていない。
それよりも出来るならもう少しだけ、ここでの幸せな生活に浸っていたい。
 ピッチオ夫妻やロレンヌとの心安らかな生活、ふりそそがれる優しい感情、
友人達との駆け引きのない、自由で気楽な学生生活。
ここで私を受け入れてくれる人たちがいるのに、
その幸せを手放してまでパリに行くほどの理由があるのか?
 こんな私を人は、甘えた無責任な現実逃避・人生の時間つぶしと言うだろう。
日本では同僚達が不景気の中、日々利益を求め続けて自分を犠牲にして働いている。
留守にしている日本を支え、牽引していくために頑張り続けているのだ。
 私だって手を抜く事無く勉強は真面目に取り組んできた。
しかし、成人した大人が働く事無く、勉強をする事くらい贅沢な事なのだと身にしみている。
大人の留学くらい贅沢な高級品はない。
 それにまだ、幸せな過去のノスタルジーに浸って時間つぶしをしているような歳でもない。
それはまだまだずっと先、歳をとって身体の自由が利かなくなり
やり残す事無く全ての仕事を全うし、人生の終盤戦で海でも見ながら過ごせる時が来た時までお預けだ。
 <成功や幸せの想い出や記憶ほど、次なる成功や幸せを妨げるものはない
   Rien nempeche le bonheur comme le souvenir du bonheur >と、
格言を残したのは確かギッデ<Gide>だっただろうか?定かではない。
 どうしたことだろう、今日は過去ばかり振り返っている。
新たなる未来への挑戦や出会いより、過ぎ去った想い出にばかり引きずり込まれてしまう。
 キールを飲みながら、乾燥した空気のそよ風に身を任せてみる。
 でも、こんな日もあるだろう。
 ならば、今しばらく鮮やかな想い出に浸っていたい。


 初めて見た時は、新鮮な衝撃だった。
 金色の肩にかかる巻き毛が太陽の光にすけて、微かなそよ風に揺れている。
人間の肌はこんなにも透き通る程に白く、深い乳白色を帯びているのかと息を呑む。
その肌を透明なヴェールで包み込むような光を放つのは、金色の体毛が太陽に反射して光り輝くからだ。
 190センチメートルはありそうな脂肪のない筋肉質の身体は、
その筋肉の筋の流れがオブジェのように見事なラインを描く。
しっかりとした太い首から厚い筋肉質の胸幅、硬そうな筋肉で引き締まった腹、
引き締まったウエストに尻、その下に続く長い足はそれだけで1メートル以上はあるはずだ。
 あまりにも整いすぎた精悍で美しすぎる顔立ちは、
人間の顔と言うよりは美術館に展示してあるギリシャ彫刻そのままだ。
 揺れる長髪の金色の巻き髪がかかる、広い額から延びた長い鼻筋。
端正で繊細な鼻の下には、透明でパール・ピンクの口元が開いては閉じ、
遠すぎる異国北欧の言葉、音楽のように滑らかなリズムのスウェーデン語を操っている。
 彫りの深い顔立ちは陰影を落し、長い金色のまつ毛が風にそよぐ二重の大きな目には、
エーゲ海を想わせる深いブルーの大きな瞳。
 <溜息をついて見つめてしまうほど美しい、人間の形をした生き物。>
人間離れした、生身のギリシャ彫刻の芸術作品が動いているのではないかと錯覚してしまいそうだ。
 <カッコいい>とか<ハンサム>だとか、そんな平凡な言葉の持つ意味を彼らは超越していた。
触れてはいけない、繊細な美の芸術作品だ。
 初夏の太陽がふりそそぐ大学寮の中庭で、
青々とした芝生に小さなショート・パンツ以外には何も身に着けず、
日光浴を楽しむ裸のスウェーデン青年達の中心に、一人のアジア人の青年がいた。
彼は、他のスウェーデン青年とは全く異質の圧倒的な存在感と魅力を放っている。
 その時の圧倒的な彼の存在感に対して、私が感じた新鮮な衝撃は、
美しいギリシャ彫刻のような青年達に囲まれてさえ、それは彼にとって
彼の生命力と存在感を際立たせる為の、一連の動く美しい背景に過ぎないかのように思えたからだ。
 彼だけが一人、艶やかな黒髪を長髪にしたアジア系人種でありながら、
どこの国籍や文化を感じさせない無国籍で洗練された華やかな雰囲気をまとっている。
 切れ長の黒い瞳、繊細にのびた鼻筋、意思的な唇。
180センチメートル程のバランスの良い、引き締まった筋肉質の肉体も
スウェーデン人と並ぶと華奢で小さな印象を与える。
 しかし、彼の存在感は圧倒的でその印象は際立っていた。
これが中庭に面したカフェテリアのテラスで読書をしていた私が、
中庭で日光浴を楽しむ彼を初めて見た時の印象だった。
 その日を境にして、たびたび深夜のカフェテリアで彼の姿を見かけた。
彼の姿を見つけるのは簡単だ。賑やかで人目を惹くスウェーデン人美形集団の中にいてさえ、
その影に埋もれる事無く、異なる印象で圧倒的な存在感を放っているからだ。
 大学寮の最上階に住んでいた私は、この時まだフランスに来て半年にも満たない程で
異国の生活にも慣れておらず、大学の慣れない授業について行くのがやっとの状態で、
友人を作ったり遊んだりする余裕は全くなかった。
 行動範囲は異常にに狭く、寮の六畳ほどの小さな個室とキッチン、シャワールームとトイレ、
それに大学の行き帰りだけが全てだった。たまに寮の廊下で挨拶を交わすことはあっても
友人はいなかったが気にもしなかったし、一日中誰とも口をきかなくても平気だった。
 それよりも毎日の勉強をこなしていくことで精一杯で、
落ちこぼれて授業に出られなくなってしまう恐怖感が絶える事無く、私の心を占めていたからだ。
 そんな私にも唯一の楽しみと気晴らしがあった。
深夜の1時過ぎ勉強が終わってから寝る前に、
中古で買った小さな冷蔵庫から取り出した缶ビールを一本持ち、
夜の11時以降は電源が落とされ、電気が消されて暗い一階のカフェテリアに降りて行き、
中庭に面したテラスに出て、真っ暗な夜空に輝く星を見上げ冷たいビールを飲むのが楽しみだった。
 カフェテラスには、非常時の出入り口を指し示すぼんやりとしたオレンジ色の非常灯と、
部屋の隅に置かれたジュースの大型自動販売機が白い光を放ち、
低音の規則正しく途切れる事のないラジエーターが鳴り響いている。
 深夜の1時を過ぎていても、カフェテラスにはロウソクを灯し、
グループで楽しそうに歌を歌いながら賑やかに騒いでいたり、ゲームやチェスをしていたり、
ワインを片手に語り合っている学生達がいて、全く人の姿が見えないと言う事はなかった。
 あの初夏の深夜もカフェテラスのホールには何組かの学生達がロウソクを灯し、
思い思いの静かな時間を楽しんでいた。
 誰もいないテラスに出て、プラスチックの白いデッキチェアーに腰掛け
投げ出すように足を組んで夜空を見上げると、
寮のどこかの部屋から、せつない響きのピアノのバラードが微かに流れてくることに気づく。
 頭上にある星を見つめ、ゆっくりと冷たいビールを飲みながら、ぼんやりと疲れた頭を癒すように
何処からか流れてくる微かなバラードに耳を傾けていると
真っ白な星が一つ、流れ星をとなって南西の方角に流れていった。
 「***************。」
 誰かが、隣に座ったようだ。男性が話す低音のゆっくりとした心地よい中国語の響きが聞こえてきた。
 そして、その声の持ち主は美しい響きで静かにフランス語で話し出す。
 「美しい、白い透明な光線を放つ流れ星だったね。あんなにも美しい流れ星を見たのは久しぶりだ。」
 低音の、滑らかで音楽のような響きを持つフランス語。
学生が使う俗語や言い回しではなく、シンプルで丁寧な言い回しだ。
 「ユーラシア大陸や古代ギリシャでは、流れ星は宇宙の向こうにある天国に住んでいる神様が、
地球の様子を伺う為に、天国からの「天の扉」をほんの少し開いた時に漏れた光だと
言い伝えられている。だから、星が流れている瞬間は、天国にいる神様が私達の方を見ているので
願い事を想えば叶うと信じられている。」
 <流れ星は、天国にいる神様が「天の扉」を開いている時だったのか・・・・。>
 小さく頷きながら、ビールを口に運ぶ。
 「僕らがこうやって同じ流れ星を見つめている時、
同じ夜空を共有する世界のどこかにいる人も、流れ星を見ながら願い事を想っている。
とても不思議だと思いませんか?君は流れ星に何を願ったの?」
 もしかして、隣から聞こえてくる男性の声は私に向けられているのだろうか?
頭上にある夜空を見上げていた視線を、静かに声が聞こえてきた左側へ移してみる。
 「中国人じゃなかったみたいだね。」
 カフェテリアから漏れてくる、自動販売機の微かな白い光に照らされて
優しい笑顔を浮かべているのは、スウェーデン人学生といつも一緒にいるアジア人の青年だった。
 「日本人です。」
 少し驚きながら答える。
 「中国人だと思ってたから、中国語で話しかけて見ても無反応でフランス語に切り替えてみたんだ。」
 微かな光に照らし出され、夜空を見上げる青年の横顔。
時たま遠くから見かけるだけでは分からなかった、
骨格のしっかりした彫りの深い、シャープで涼しげな顔立ちに
真っ直ぐな長髪の黒髪と漆のような深く光る黒い瞳。
こんなにも整った顔立ちの、美しいアジア人男性は今まで見たことはなかった。
 そして、この伝わってくる不思議な雰囲気は、一体彼のどこから来るのだろうか?
彼から語らずして発せられる、溢れる若々しいスピード感と力強い脈動感、その雰囲気は納得が行く。
それに、自分に自信があり、成功している人が持つポジティブな自信と余裕も漂わせているが、
若さ特有の傲慢さ、自己中心的なものは微塵も感じさせない。
とても老成していて、どこか人生を達観している、既に完成された大人のような安定感さえ感じられる。
 「一瞬の流れ星に願いをかける。シンプルだけど難しいことだよね。
今の自分自身が本当は何を望んでいるのか、真実の願いは何なのか。理解する事は簡単ではない。
だから、常に自分自身の願いを言えるように自己認識することが大切だと、
神様は流れ星を通して教えてくれるのかもしれない。僕はそう感じているのだけれど・・・。」
 夜空を見上げていた青年の黒い瞳が、ゆっくりと私を見つめている。
 「一瞬の願い。君は何を思ったの?」
 突然の質問に、事前から用意しておいた気の利いた答えは持ち合わせていない。
<流れ星に願いをかける>と、このポピュラーでロマンチックな言い伝えは知ってはいたが、
今までに星に願いをかけたことはない。私にとって星とは、夜空に輝く美しい煌きでしかなかったのだ。
 ビールを口に含みながら、質問の答えを考える。
 <願いや望みはいつでも持っている。授業に落ちこぼれず出席し続けること。
私のフランス語がすんなりと現地の人に理解してもらえる事。これらは目下な切実な願いである。
 だけれども、果たしてこれらが本来の私の望みなのだろうか・・・・・。>
 残り少なくなったビールを飲みながら、夜空を見上げ考えた。
 「人に恵まれること。人生を切り拓き続ける実行力とひるむ事のない気力。」
 無数の星を見上げながら、つぶやいてみる。そして、自分の言った事にうんざりした。
<質実剛健・リアリストの私が考えそうなことだ。
 ロマンチシズムのかけらもない。
 あぁ、こんなにも現実離れした美形の男性が隣で答えを待っているというのに、
何かもう少し、可愛げのあるような気の利いたセリフが言えなかったものか。
 こんなにも若くて美形なのだから、女性にも口説かれ慣れているはず。
妙な事を言っても、上手にかわしてくれるだろう。練習も兼ねて、何か言ってみれば良かった・・・。>
 「ずいぶんと哲学的な事を言うんだね?」
 「では、あなたが流れ星に想う事は何ですか?」
 これ以上、チャンスを活かせない自分に幻滅しないように質問に質問で答える。
 「漠然とした、抽象的な答えになってしまうけど、
目には見えない輝きを見つけ出し、それを探し出し続けること。」
 そう言いながら、青年は静かに笑った。しかし、その言葉の真意は解らない。
 「ずいぶんと哲学的ですね。」
 笑いながら静かに頷く彼の後ろで、揺れるロウソクの光りが近づいてきて、
 「***********。」とスウェーデン語が聞こえ、
長身の青年が彼を呼んでいるようだ。
 「友人が呼んでいる。君と話せてとても楽しかった。
毎晩、深夜に君がここに降りてくる事は知っているよ。また話そう、さようなら、おやすみなさい。」
 彼は右手を差し出し別れの握手を交わすと、
友人の持つロウソクの明かりと共に、暗いカフェテラスの奥へと消えていった。
 その夜以降、彼の姿を見かけたスウェーデン人学生の中に彼の姿を見つけることはなかった。


 大学の後期試験も終わると,学生達は夏のバカンスを家族と過ごす為にフランス各地や
母国に帰って行き、寮に残る生徒はほとんどいない。
 静かになった寮に残り、バカンスだからといって特別に旅行やどこかに遊びにいく計画は立てず
夏期講習に登録し、大学と寮を往復するだけの変わりのない普段通りの生活を続けている。
 カフェテラスでスウェーデン語を操るアジア人の彼を見かける事はなくなった。
 流れ星をみて彼と話した夜以降、深夜一時にカフェテリアに降りていくと、
暗いホールに彼の姿を見つけようと辺りを見回す事もあったが、今では彼がいないことの方が自然で、
あの夜は流れ星を見せてくれた神様からの、
一生懸命に勉強をがんばっている私への特別なプレゼントだと思っている。
 今夜もカフェテラスの微かに心地よい乾いた夜風がそよぐ、誰もいないテラスに出て
白いプラスチックのデッキ・チェアーに深く腰掛け、夜空を見上げる。
真っ暗な夜空に無数に瞬く星を見つめ、冷たいビールを楽しみながらぼんやりと考える。
 <星が流れる時は、神様が地上にいる私達を見てくれている時、
その時に神様が「ちゃんと手を抜かずに一生懸命がんばっているな。」と思ってくれるほど
がんばらないと願い事も叶わないよね。・・・>
 「今夜は、星が動かないですね。」
 聞き覚えのある、低音で滑らかな音楽のような男性の声。
 ゆっくりと後ろを振り返ると、無精ひげを生やし褐色に日焼けした彼が静かに微笑みながら立っていた。
 「あの夜から、流れ星ありましたか?」
 使い込んだ大きなグレーの汚れたバッグ・パックを背負い、
何日も洗濯していないようなブルーの皺だらけのシャツと、
所々穴の開いたすすけたようなジーンズを穿いている。
あの夜よりも精悍で逞しい雰囲気だがとても汚れていて、疲れているようにも感じられる
 「いいえ、ありませんでした。」
 「そうですか。今夜も沢山の素敵な星が輝いていますね。
僕も仕事から帰って来たばかりで疲れているけど、
寝る前に少しビールを飲みながら夜空を楽しみたいな。
良かったらビールを飲む少しの時間、僕とつきあってもらえないですか?」
 誰もいない中庭に向こうから、静かな虫の音が微かに響いている。
 「喜んで。今夜の星空も素敵ですよ。」
 「ありがとう。ちょっと待っていてください。部屋に荷物を置いて軽くシャワーを浴びてきます。
それまで流れ星がないか、見ていてください。」
静かに微笑むと、バカンス中の誰もいないカフェテラスのホールへと消えていった。
 15分程して、シャワーをあびたばかりの水気の残る濡れた髪に、
清潔なTシャツとジーンズに着替えた彼が、小さな黒いカバンを肩に提げ、
両手に数本の缶ビールとロウソクを持って戻ってきた。
 私の隣に置いてある白いデッキ・チェアーに腰掛けて、
数本のビールとロウソクを脇にある小さなカフェ・テーブルの上に置き、その内の一本を手渡してくれる。
 「ひさしぶりですね。乾杯しましょう。」
 冷蔵庫から出してきたばかりの、冷たい缶ビールを手に持ちプル・トップを引きながら彼が行った。
 「何に乾杯しますか?」
 「僕らの星空の下での再会に・・・・。
そして、とりあえず仕事が終わり無事に僕が帰ってきたことに対して。」
 <さすが、フランス語やスウェーデン語を流暢に操るほどヨーロッパ文化が身に染みている男性は違う。
さりげなく自然に「星空の下での再会に。」なんてロマンチックな言葉は、
普通のアジア人男性はいえないよね。>と、感心しながら大きく彼に頷き、静かに缶ビールをかさねた。
 二人で無数に瞬く星を見上げ、ゆっくりとモルトの香ばしい味と薫りがする冷たいドイツビールを楽しむ。
 「夜空を見上げながらのゆっくりとしたこんな時間。ここしばらく仕事に追われて持てなかったな。」
学生寮に住み、大学に席を置いている彼は、どうやら仕事をもっているらしい。
 「大学に通いながら、お仕事を持っているのですか?」
 好奇心が前面に出ないように、落ち着いた様子を装い出来るだけさりげく聞いてみる。
 「僕はプロのカメラマンなのですよ。
 ここ数年はフランスを中心としたヨーロッパを撮影していて、ディジョンでの撮影で宿泊場所が見つからず
偶然ここに滞在する事になり、居心地の良さにしばらく居ついてしまったのです。
 ここは大学の学生寮で大学に籍がないと入れないでしょう。
僕は既にスウェーデンの大学を卒業し、台湾の大学院を出ているから大学院に籍だけ置き、
 ここを基点として写真を撮っているのです。発表の活動の場は、今は台湾なんですけどね。」
 <プロのカメラマン>意外な感じがした。
何処の企業にも組織にも所属しない自由業は彼に似合っている。でも、もっと別な仕事
たとえば、カメラで撮るよりは撮られる側のモデルや俳優の方が似合うような気がする。
 「本当にカメラマンなのですか?あなたほどの美しい男性なら、
むしろ人に見られるモデルや俳優のほうが信じられます。」
 「僕がモデル?あぁ、時々はグラビア写真を撮られる側にまわる事もありますけどね。
本当ですよ。君を撮ってあげましょう。」そう言うと、黒い小さなカバンの中から精巧なカメラを持ち出し
慣れた仕草で素早く数回シャッターを切った。
 「疲れているせいかアルコールの廻りが良くて、ちょっと酔っているから
上手く撮れたか解らないけれど、今度会った時に写真をお渡ししますよ。」
 カフェ・テーブルに置いてあるカバンの中にカメラをしまいながら、
数枚の写真を取り出して手渡してくれる。
 「お土産です。」
 明るい、透き通るようなエメラルド・ブルーの大空と海が遠い水平線で交じり合い、
灼熱の太陽の透明な光に反射した真っ白な石造りの街並み。今まで見たこともない異国の街並みだ。
 「今回の撮影で撮ったチュニジアの風景です。突き抜けるような爽快感があって素晴らしいでしょう?」
ロウソクの明かり越しに二本目の缶ビールを飲みながら、くつろいだ雰囲気で尋ねてくる。
写真から強く伝わってくる精神的な開放感やポジティブな高揚感。
ストレスが溶け出していくような、心地よい気持ちの良い写真だ。
 「こんなにも開放された、日常のストレスを溶かしてしまうような場所が地球上にはあるのですね。
この写真から強く伝わるチュニジアの土地が持つ生命力に、心が開放され、
エネルギーが満たされるようです。」
 「そう行ってもらえると、カメラマン冥利に尽きますね。
君に見てもらって、感想をもらい自信が湧いてきました。明日からまた再び急いで台湾に戻り、
今回の撮影した写真の個展と写真集の準備に取り掛からなければならない。
成功しそうな予感がします。ありがとう。」
 ビールを飲みながら、ロウソク越しに眺める写真は一枚の紙ではなかった。
写された風景は生命力を感じさせるエネルギーがやどり、彼のエスプリが見事に投影されている。
 「地球上には目には見えない大切な輝く何か、理屈では理解できない神秘的なエネルギーがある。
それは例えば、人間の子供の中だったり、静かにたたずむ老女の中にだったり。
又は、空や海、建造物や街角の風景。人によってエスプリを込められた洋服などの物の中にも
宿っている。時代時代の<今>に息づく輝きを探し出し続けて、表現して行きたいんだ。」
 <あの夜、流れ星に想う彼の願いはこの事だったのか。>と彼の言葉を聞きながら理解した。
 夜空の星を見上げて、子供の頃に読んだサン・テグジュペリの星の王子様の一説を思い出す。
 <一番大切なことは、目には見えない。心の目で見なければ見えない。>
多分、彼が探し求めて表現し続けて行きたいのは、この言葉のようなことかもしれない。
 軽い静かな寝息が聞こえて来て、隣を見てみると疲れた様子の彼は軽く腕を組んで
椅子の背もたれを倒し、気持ち良さそうに寝込んでしまっている。
 今夜の夜風も心地よい。
それにテーブルの上にはまだ、香ばしいドイツビールも残っている。
このまましばらく、星空を見上げながら彼が起きるのを待つのも悪くない。




ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで 
 

星に願いを 流れ星の伝説

Kir キール・カクテル

 灼熱の太陽のせいか、リベルテ通りをカメラを片手に散策する観光客の姿は少なくなっている。
 すれ違うブルーのサマー・ドレスを涼しげに着こなした女性の
石畳の上に残していった微かな香水の残り香が、フランスの乾燥した真夏の空気と心地よく融合する
雅やかな瞬間を楽しみながら、人通りの少ないリベルテ通りを足早に歩いていく。
 旧ブルゴーニュ公宮殿前にあるリベラシォン広場のバス停の前に立ち止まり、
シュビニー・サンソーバー行きのバスの時間確認をすると、あと三十分ほどここで待つ事になりそうだ。
 <カフェのテラスでゆっくりと時間つぶしでもしよう。>
リベラシオン広場の右手にある赤いテラスの張り出したカフェに向って、真っ直ぐに歩いていく。
 午後三時過ぎのカフェは客の姿もまばらで、
店の置くのカウンターでサービスの男性達が楽しそうに談笑しているのが見える。
 石畳の歩道の上にせりだした、リベラシオン広場を一望できる席に座り
人差指を立てて右手を挙げ、サービスの男性に合図を送る。
 「こんにちは、マダム。お一人ですか?」
 黒いタブリエに白のトーションをさげた、サービスの青年がカフェ・テーブルを縫う様にして近づいて来た。
 「はい、ムッシュー。」
 前に座っていた客が残していった飲みかけのワイングラスを片付け、
素早くカフェ・テーブルを拭きながら尋ねてくる。
 「今日は暑いですね。何になさいますか?マダム。」
 メニュー・リストも差し出さずに聞いてくる。
 「そうですね。こんな暑い日には冷たくきりりと冷えた<ブルゴーニュ・アリゴテ 白ワイン>で合わせた
<キール・ド・ブルゴーニュ>が良いですね。冷たい<キール>お願いできますか?」
 あえて<冷たいキール>と確認を取るのも、平気で生暖かいキールを出してくるカフェも多いからだ。
 「お任せ下さい。マダム。ここは<キール>の発祥地ディジョンですよ。
ご存知でしょう?今直ぐ、お気に召すような素晴らしい<キール>をお持ちします。」
 機嫌の良い笑顔を浮かべ、サービスの青年は店内へと足早に消えていく。
 ガラス戸の開け放たれた店内から、エアコンの冷気がテラスへと緩やかに流れてきて
心地よく火照った身体を鎮めてくれる。
 リベラシヨン広場の前方、旧ブルゴーニュ公宮殿の右翼<ディジョン美術館>の前で
大きな真っ白なパラソルを立てた3人のストリート・ミュージシャン達が演奏を奏で始め
チェロ、アーコスティック・ギター、バイオリンの奏者達が、歴史ある建造物のそびえたつ
古都の街に流れる優雅な時間を演出してくれる。
 「お待たせしました。<きりりと冷えたキール>です。マダム。」
 先程のサービスの青年が自信に溢れてテーブルに置かれたグラスを見て驚いた。
 「わぁ、本当に<きりりと冷えたキール>ですね。素晴らしい。
冷凍庫で冷やしたフロスティの繊細なフルートグラスに見事な色合いのキール。
 三ツ星高級レストランでも、なかなか出てこないような素晴らしいサービスですね。」
 自信を持った、まるで子供のような誇らしげな表情を浮かべて微笑んでいる。
 「そうでしょう?あなたにだけ特別ですよ。試飲してみて下さい。僕の自慢の配合です。」
 繊細なフルート・グラスの足元を指で持つだけで、その冷ややかな感覚が心地よい。
 薄いクリスタルの口元から、静かに咽元を流れるキールは、
 <ブルゴーニュ・アリゴテ>のフルーティな美しい酸味とミネラルが、
甘味を抑えた上品な<クレーム・ド・カシス カシスのリキュール>の果実の自然な甘味と
見事にブレンドされ、相乗効果を醸しだしている。
 「素晴らしい。ブラボー、ムッシュー。これは繊細さとエレガンスをもつスタイルですね。」
 驚きを持って賛美の言葉と共に青年を見つめる。
 <キールの本場>といっても、こんなにも印象に残るキールに出会える事はない。
 あまりにも一般的過ぎて、いい加減に作られた甘すぎるキールが多すぎるのだ。
 「あなたには解るのですね。そうです。
これはこのブルゴーニュの土地が持つ繊細さとエレガンスが育てたワインとクレーム・ド・カシスの
<マリヤージュ 美しい融合>です。
 一般的なキールのレシピはワイン4/5に対して、クレーム・ド・カシスが1/5ですが、
僕の配合は<アリゴテ>のもつ軽やかな果実感を十分に堪能して頂く為に
ワイン6/7に対してクレーム・ド・カシスを1/7でブレンドしています。」
 「心の印象に残る素晴らしいバランスです。
こんな事を言ったら笑われてしまうかもしれないけれど、私の愛しい想い出のそのほとんどが
私に感動を与えてくれた味覚にまつわるものです。味覚が教えてくれた心振るわせるような感動、
その心に刻み付けられた感動に突き動かされて、
今、私がこの美食文化の息づくフランスにいるのだと思います。
 お笑いになりますか?ムッシュー。」
 カフェ・テーブルの横に立った青年は優しい微笑でフルート・グラスを見つめる。
 「僕はあなたに共感しますよ。美食も又感動を宿す一つの芸術です。
あなたの今の言葉を僕の父に伝えたら歓ぶことでしょう。この<ブルゴーニュ・アリゴテ>は
醸造家の父が実家のドメーヌ<Domaine 葡萄畑所有地>で品種改良を重ね続け
創り上げられたBIO製法のものです。
 そのワインはブルゴーニュの「神に祝福された大地」と言われるほどの風土と土壌、
栽培醸造家である父の揺らぐ事のない自信と真摯な情熱の三位一体が生み出した芸術だと思います。
 そして、このワインを理解し愛しそうに飲んでくださるあなたと出合った。
素敵なことですね。」
 このグラスに注がれた魅惑の液体には、彼の父親が愛情を込めた情熱と人生が注がれている。
そう想うと、キールを口に運ぶたびにまろやかな感慨にふけってしまう。
 「よろしかったら、もう一杯いかがですか?」
 私の様子を黙って見つめていた青年が、残り少なくなったグラスを見て尋ねてくる。
 「素晴らしいバランスにグラスが進み過ぎてしまいそうですね。
でも、この幸せな瞬間を手放せそうにありません。お願いします、ムッシュー。」
 「ええ、何杯でも結構ですよ。だけどオーダーは僕にお願いします。
他の奴だと、平気で生暖かい甘ったるいカシスジュースのようなキールを
平気でお出しするかもしれませんからね。マダム。」
 そう言うと優しい微笑と共に、軽やかな足取りで二杯目のグラスを取りに店内へと消えていった。

ブルゴーニュ ディジョン

過ぎ去る想い出 中世の街並み ディジョン

 頭に微かな痛みを感じるのは、二日酔いのせいだ。
 シュビニー・サンソーバーのバス停から路線バスに乗り、
いつものように車両を二連結した最後尾の右側のシートに座り、ディジョン市街地に向う。
 全てが順調に進んでいる。
料理学校の手続きは完了した、パリの下宿先も無事に見つける事も出来た。
アクシデントもトラブルもなく全てが予想どうりに進んでいるのに
気持ちだけが、この真夏の太陽に光り輝くフランスのコバルト・ブルーの大空のように
すみやかな気分にはなれない。
 理由は判っている。
 真夏の太陽に照らされて熱を持ったガラス窓に、額を押し付け車窓をながめ、
車内に染み付いた様々な人々が残していった体臭の残り香を嗅ぎながら、
この路線バスに乗るのも、もう一年半だ。
 初めてディジョン市に着いた真冬のあの日、不安な気持ちを抱いて切符の買い方さえ分からずに
このバスに乗った。そして<パクレット Paquerette ひな菊>咲き乱れる春も、
真夏のバカンス中も早朝から夏期講習に通う為にこのバスにのり、
マロニエの色づく秋もこのバスに揺られた。
 このバスで揺られて過ごした二度の冬と二度の春、そして夏。
 友人達と交わした言葉、笑顔からこぼれた笑い声。
 路線バスが青々とした広大な田園地帯を走り抜けていく。
<目の前にある交差点で止まると、次の教会で右手に大きく曲がり、そして角の薬局で左に曲がる。>
 ぼんやりと窓の風景を見つめながら、バスの振動からそのゆく手を身体が覚えている。
そっと目蓋を閉じてさえシートから伝わる振動で、バスが何処を走っているのかが分かる。
小刻みな微かな振動が伝わるのは、アスファルトで舗装された車道から
中世フランスのたたずまいを今も残すディジョン市街地に入り、石畳の上を走っているからだ。
 正午過ぎの市街地、バカンス中の観光客が強い日差しの中、
帽子をかぶり観光マップやカメラを片手にゆっくりと散策している。カフェやレストランの陽射しを伸ばし、
歩道にせりだしたテラスの下でパナシェやビール、ミント水のグラスを片手に友人達と語り合いながら、
ゆるやかに時間を過ごす人々の姿が、車窓越しに現れては流れていく。
 右手に見えるサンミッシェル教会<Eglise St-Michel>,
15世紀と17世紀の建築様式が融和したルネッサンス様式の教会だ。.
あのフランボワイアンとルネッサンスが融合した見事なフラサードの
聖書を題材にした装飾彫刻を施した大きな門をくぐったのは、
初めてフランスに滞在した6年前の冬、19歳の時だ。
ディジョン市内には他にも幾つかの教会があるのに、なぜかこの教会が大好きだった。
 静謐に包まれた改装工事中の無人の聖堂に、語学学校の帰り何度となく無断で入り込んだ真冬の夕方、
埃を被った大きな透明なビニールのかけられた祭壇の前に立ち、吐息が白く立ち昇る寒さの中で
自己流に両手を合わせ、祈ることはいつも同じだった。
 <神様、もう一度フランスに戻れるようにして下さい。お願いします。>
と何度祈ったことだろう?100回だっただろうか、いや200回だっただろうか。確かそのぐらいだ。
<あの何百回もの祈りは神様に届いたのだろうか?
だから6年後の今、祈りを捧げた教会を通り過ぎようとしているのだろうか?>と、
不思議な感覚があの冬の日の感情と共に込み上げてくる。
 バスが花屋の角を左折し、身体が左へと大きく揺れ、
ゆっくりと減速したバスがリベラシオン広場<Place de la Liberation>で静かに停車した。
 エアコンの効いた車両から石畳の上に降り立つと、激しい太陽の照り返しと乾燥した真夏の熱気に
二日酔いの身体が揺らぎそうだ。
 正面にそびえる荘厳な旧ブルゴーニュ公宮殿<Palais des Ducs>は、
14世紀から15世紀に建造され、17世紀から改修が繰り返さて現在の宮殿が完成したのは
1786年の事だと文明史の授業で習った。宮殿の右翼、東側を占めているのはディジョン美術館
<Musee des Beaux-Arts>、左翼がディジョン市庁舎の建物だ。
 石畳のリベルテ通り<Rue de la Liberte>には、中世の面影を今も残す石造りの建築物と
古都の風情ある木組みの家々が軒を並べ、数キロ先のダルシー広場まで続いている。
 リベルテ通りから、灼熱の太陽に照らされながらブルゴーニュ公宮殿内の石畳の大きな中庭を横切り、
人通りの少ない静かな通りにある、小さな中華食品雑貨店の古びたガラス戸を押し開く。
 「ボンジュール。こんにちわ。」
 人の姿の見えない八畳程の狭い店内は、棚に様々な中華雑貨や乾物を中心とした食材が
乱雑に並べられ、中華食材から発せられる薫りや香辛料の匂いが入り混じった
不思議な薫りで充満している。昼だというのに蛍光灯の点けられた薄暗い店内には、
低く鳴り響く入り口の横に置かれた古い業務用冷凍庫のラジエーターの音しか聞こえてこない。
 「こんにちは、誰かいらっしゃいませんか?」
 古びた木製レジカウンターの奥の薄暗い通路へ向って、再び大きな声をかけてみると
店の奥の方から、女性が話す中国語が聞こえてきた。
 「こんにちは、マドモヮゼル。何にいたしましょうか?」
 真っ直ぐな黒髪を肩のあたりで揃え、クリーム色のシャツを着た高校生ぐらいの女の子が出て来た。
 「こんにちは、今日ここに伺ったのはパリまでの引越しの運送をお願いしにいたのですが・・・。」
 「ご希望は何時辺りですか?マドモヮゼル。」
 女の子は、レジの脇に置かれた黒い使い込まれたバインダーを開きページを手繰った。
 「出来れば来週中までにお願いしたいのです。」
 右手にボールペンを持った女の子は、ページの上をキャップをしたままのボールペンで
何かを確認するように滑らせている。
 「うーん、来週中までにですかぁ・・・。ちょっと待って下さい。今、父に確認を取って見ます。」
 ボールペンを持ったまま、身体を薄暗い通路の方を向け中国語で何か叫ぶと
奥から40代後半位の白いTシャツを着た小太りの男性が出て来て、女の子が持っている
バインダーを確認してから、私の方に振り向いた。
 「こんにちは、マドモヮゼル。パリまでの引越しかい・・・・来週ねぇ、来月じゃだめかい?」
 男性は困ったような表情で、バインダーを覗き込む。
 「今月末にはパリでの学校の授業が始まってしまうので、出来るだけ早くがいいのです。」
 「そうかい。でもねぇ、来週はパリの中華市場が休みだからパリにいかないんだよ。
再来週もその次も既に引越しの予約で一杯でねぇ。」
 バインダーを手繰りながら男性がつぶやく。
 この中華雑貨店では、パリの中華市場に仕入れに行く時、
ディジョンからトラックの空きのスペースを利用してパリまでの引越しを請け負っている。
他の引越し手段より安いので、ブルゴーニュ大学に在学しているアジア系の学生が口コミで利用するのだ。
 <今日突然来て、来週引越しをお願いしても急過ぎて無理かもしれないな。>
 男性の隣で一緒にバインダーを覗き込んでいた女の子が、何かを思い出したよう男性に話しかけた
 「ねぇ、お父さん。あさっての引越しを急にキャンセルしてきた人がいたじゃない。
あさってなら空いてるはずよ。」
 バインダーで日にちを確認し、男性がゆっくりとこちらに振りむく。
 「あさってなら空いているが、今月はあいにく全て予約済みなんだよ。どうするかい?マドモヮゼル。」
 急な日取りだが、他に選択肢がないのならしかたがない。
 「お願いします。ムッシュー。」
 「じゃあ、その日は他に台湾人の学生が学生寮から引越しするから、
その後にマドモヮゼルの下宿先に十時頃行くのでいいかな?」
 「結構です。それでお願いします。」
 頭のなかで、引越しの準備が間に合うか心配がよぎるが、やらない訳にはいかない。
 「では、ここに名前、下宿先の住所と電話番号。引越し先の住所を書いてください。」
 女の子がレジカウンターの上に置かれたバインダーの余白を指し、ボールペンを差し出してくれる。
ディジョンでの住所はすぐに書けるが、パリでの住所がうろ覚えなのでメモ帳を見ながら書き込み
女の子の方にバインダーを差し出すと、それを覗き込んだ男性が話しかけてくる。
 「シュビニー・サンソーバーの<Le bois de Roi>なんて、随分いいところに下宿しているんだねぇ。
あそこは高級住宅地だろ。運がいいね。」
 「そうですね、私もそう思います。」
 女の子に礼を言いながらボールペンを返す。
 「中国人じゃないね?マドモヮゼル。」
 バインダーに書き込んだ名前と住所を確認しながら男性が尋ねてくる。
 「はい、日本人です。」
 「日本人がここの引越しを利用するなんて珍しいね。
ここを利用するのは中国人や台湾人、韓国人が多いんだ。」
 興味深そうな表情を浮かべている。
 「えぇ、こちらの引越しを教えてくれたのは、台湾人のウォンさんからです。」
 「台湾人のウォン?さて、だれだったかな?」
 男性は記憶を手繰るように表情を軽くしかめた。
 「一年ほど前の夏まで大学の学生寮にいた男性で、写真家の・・・」
 そこまで言うと男性は突然笑顔のこぼれる、明るい表情を向けた。
 「あぁ、あの写真家のウォンだね。懐かしいなぁ、彼は今NYだろ?」
 「そうみたいですね。春頃、私の日本の実家にNYからポストカードが届いていたそうです。」
 「ここにも、昨年のクリスマスにカードが届いたきりだ。便りがないのは元気な証拠かな?
あいつのことだ、NYでもがんばっているんだろう。
うちに良く来ていて子供達と前の公園で遊んでくれたり、食事をしていったりしてたんだ。
まだ若いのに、あれでもウォンは台湾では有名で成功している写真家なんだ。」
 <僕はこれでも母国では有名な写真家なんだよ。>と、笑いながら写真を撮ってくれた
ウォンさんの優しい笑顔が思い浮かんでくる。
 「君もあいつに写真を撮ってもらったのかい?」
 「はい、一枚だけですけど。」
 男性は笑顔で頷いている。
 「君には何か輝くような魅力を持っているんだね。
ウォンはその輝きをカメラのファインダーを通して見せてくれる。
だから、輝きを持つものだけを探し出し、輝きを持たないものは撮らないんだ。
それが、芸術家としてのあいつのポリシーだからね。君の撮ってもらった写真は大切にするといい。
これからも彼は、もっともっと成功する偉大な写真家になるよ。それは私が保証する。」
 そう言いながら嬉しそうに右目でウィンクをした。
 「お父さん、ウォンのお友達なら料金をおまけしてあげましょうよ。」
 私の様子を笑顔で見ていた女の子が男性に話しかける。
 「あぁ、そうだね。もちろんだ。引越しの二日前になるので前払いになるがいいかな?」
 男性はTGVでパリに行くチケット代程の代金を提示した。
 「そんなにお安くして頂いていいのですか?ムッシュー。」
 あまりの安さに驚いて尋ねる。
 「ええ、いいのよ、マドモヮゼル。あなたをウォンは撮ったのでしょう?
あなたには何か輝く魅力があるのよ。
ならば、いずれあなたが何かしらで成功した時に、このお店を沢山宣伝してくれればいいわ。
 それにね、ウォンは私も撮ってくれたのよ。このレジで店番をしながら勉強している姿をね。
 精悍で、緊張感があるとっても素敵な写真なの。」
 「おやおや、いつからウォンが写真をとった人物は成功すると縁起を担ぐような
ジンクスが出来たんだい?」
 男性はからかうような調子で女の子に尋ねる。
 「直観よ。私には解るの。ウォンはシャープ・アイズ<炯眼>を持っているの。絶対そうよ。
だからあなたは成功するわ!それに私もね!
 お父さん、私一生懸命に勉強して会計士になってから、いずれは貿易の事業を起こして成功するわ。
そうしたら、家族の皆を楽に幸せにしてあげるの。」
 「ありがとう。一生懸命に勉強してそうしておくれ。」
 女の子の瞳には力強い光がやどっている。
そして自分の人生を自分で切り開く、自信に満ちている。
彼女自身にも真実を曇る事のない、ありのままで見透す炯眼を持っているような
力強いマン・パワーを感じた。
 「ありがとうございます。ムッシュー。では、あさっての十時にお願いします。」
 引越しの代金を現金で渡しながら男性にお願いする。
 「あぁ、マドモヮゼル。あさっての十時に迎えにいくよ。」
 男性は微笑みながら、握手をする為の右手を差し出してきてくれる。
 「さようなら。ムッシュー、マドモヮゼル。あなたの成功を祈っています。」
 「さようなら。ディジョンでの最後の時間を楽しみなさい。」
 笑顔で握手を交わし、薄暗い店内の古びたガラス戸を押し開き通りへと一歩踏み出した時、
背中に男性の声が飛んできた。
 「ねぇ、君はウォンのガールフレンドだったのかい?」
 <私が?・・・ウォンさんのガールフレンド?>
 予想もしない質問に驚き、あわてて振り返って答える。
 「いいえ、とんでもない。残念ながら違います。ムッシュー。」
 振り向きざまに見た男性は笑っていた。
そして、私はこの小さな中華雑貨店のガラス戸を静かに閉めた。
 

ココ・シャネルに会いにパリのホテル・リッツまで