フランス グランゼコールのエリート予備軍と飲み会

 デッキチェアーで夜風を感じながら、ブラディー・マリーを楽しむ優雅なひととき。
夜風にそよぐ木々の微かなざわめきの中、静寂が破られ自動車のエンジン音が重なる。
 ヘッドライトの光が庭の芝生を大きく照らし出し、小石の敷き詰められた駐車スペースに
見覚えのない磨き込まれた濃紺の大型シトロエンが走り込んで来て、
タイヤが小石を蹴散らし乱暴に停止した。
 <誰だろう?予定外のお客様だろうか?それとも、強盗か?>
 デッキチェアーから身をのりだし、猜疑心から体中の血管が緊張し身体が硬くなるのを感じる。
 急いで、家の中に入ろうとするのと同時に、背中越しに自動車のドアが次々と開き、
大声で笑いあう若い男性達の声の中に、聞き覚えのある声を発見した。
 確認の為、素早く自動車へと視線を向けると、3人の若い男性の中にオリックがいた。
 <まずい!オリックが帰ってきた。一人で酒盛りしてたのにどうしよう?>
 急いでテーブルの上のグラスを片付けるには、時間がない。
 その上、風呂上りで髪はボサボサ、好き勝手な方を向いてはねている。
 着古して、よれた白いTシャツに黒の短パン姿で、こんなみすぼらしい格好の時に
不意打ちの来客とは、非常に間が悪い。
 3人はオレンジ色の街灯の光に照らされて、大声で笑いながらテラスに向って歩いてくる。
オリックもロレンヌも、家に誰かが居る時は玄関から入る事はない。このテラスからキッチンへと続く
ガラス戸から出入りしている。
 私が3人の様子をテラスから見ていることを, 夜の闇で辺りが暗いとはいえ、
15メートル先の彼らが、気が付いていないということはないだろう。ここは開き直って、
テラスで落ち着いた様子を装い、彼らを出迎えるしかないようだ。
 「あれ?カズミがいるぞ。パリにいるんじゃなかったっけ、どうしたんだい?」
 テラスに立ったオリックが、デッキチェアーに座っている私を見下ろしながら、陽気に笑顔を浮かべ
大声で話しかけてきた。普段とは様子が明らかに違う。普段、家で彼が話すことはあまりない。
彼から、下宿人である私に話しかけることは、これが初めてだ。
 オリックがグランゼコール<フランスの大学とは別組織の高等教育機関。
厳しい選抜課程を経て入学が許可されるエリート中のエリートを養成する機関でもある。
自動車メーカー(日産)社長のカルロス・ゴーン氏もグランゼコール出身である。>の、
海外研修先の東京から戻ってきたのは二週間前、ピッチオ夫妻と3人で早朝4時から車に乗り込み
パリのシャルル・ドゴール空港に迎えにいったのが、彼との初めての対面だった。
 帰国ゲートから現れたオリックを出迎えたピッチオ夫妻の後ろで、その様子を窺いながら立っていた
私を見た彼の表情に怪訝な感情が表れたのを見逃さなかった。
 <何で、そんな風に嫌そうな顔して見るのかな?機嫌悪そうだな。>と思いはしたが、
尋ねることもなく、形式的に<ボンジュール こんにちは>と言いながら握手を交わしたきり、
話すことはなかった。
 ムッシュー・ピッチオの運転するシルバー・グレイのメルセデス・ベンツに乗り込んでからも、
オリックは<ソニーのMDウォークマン>を耳にかけると、パリからディジョン市郊外の自宅に帰るまで
黙ったまま、自宅に到着し荷物を置くとタイミングよく電話の掛かってきた友人宅に出かけてしまい、
その後、家に帰ることもなく友人達の家を泊まり歩いていた。
 私はパリへと下宿探しに出てしまった.ので、彼とは面識がないのも同様だ。
 「下宿先が決まったので帰ってきたの。」
 身長190センチメートル程のオリックを見上げるようにして短く答えながら、
表情や様子を伺うと、頬がほんのりとピンク色に上気していて、微かなアルコールの薫りが漂う。
 <なんだ、飲んでて酔って機嫌がいいのか。東京から帰国した日の仏頂面とは大違いだな。>
 「そうなんだ。よかったな。」
 オリックは私の方を見ずに、テーブルの上にある
クリスタルのボールに入ったガスパッチョを見ながら答える。
 「なぁ、これママが作ったガスパッチョだろ、俺好きなんだよな。」
 そう言いながら、ボールに入っているルーシュを取り上げ、ガスパッチョを一気飲みした。
 <あぁ、やめろ!酒が入っているのがばれる!>
 心で叫んだが、心の悲鳴が聞こえるはずもない。
 「げっ!なんだよこれ、酒が入ってるじゃないか。・・・なんだよこれ・・・そうだ、ウオッカだ!
ウオッカが入っているぞ!これじゃあ、ブラディ・マリーじゃないか。」
 一瞬の気まずい空気が流れるが、ばれてしまってはしかたがない。
 ここは、開き直る戦術しかなさそうだ。
 「そう、ちょっぴりウオッカを入れてみたの。」
 さらりと、すまして答えてみる。
 「これは、<ちょっぴり>なんてもんじゃないだろ。
こんなにウオッカ入れて、・・・・・まぁ、これは酒としては旨いけどね。」
 既に酔っ払っているだけのことはある。さすが、話がよくわかる。
 「どうしたんだよ。オリック、そんなところに立ったままで、・・・・・」
 白い<Carrefour フランスの大手スーパーマーケット>の大きなビニール袋を提げた二人の青年が、
テラスに上がってきた。
 「俺達がテラスで酒を飲もうとしたら、コイツが先に一人で酒盛りしててさ、・・・」
 オリックが右手の人差指で私を指差している。
 <コイツって、もしかして、私のこと?>
 腕を組んで、首をかしげてみる。
 「あぁ、コイツさぁ、俺の家の下宿人でカズミ。俺の家で小犬の<モベット>飼っていただろ、
昨年死んじゃって、ママが悲しんでさぁ、小犬の代わりに下宿人入れることにしたの。
ママがコイツのこと可愛がっているんだよなぁ、不思議なことにさ。」
 <また、小犬のモベットか。>
確かに私は小犬の代わりの下宿人だ。マダム・ピッチオも大変可愛がってくれているのは本当だ。
 友人達は手に提げたスーパーのビニール袋を円卓の上に置くと、右手を差し出して握手を求めてきた。
 「カズミ、この二人は俺の幼なじみ。コイツはジュリアン、ブルゴーニュ大学の医学生。」
 アイロンの掛かった高価そうな白いポロシャツの襟の内側に茶色のチェック地が見える。
どうも<バーバリー>のものらしい。長い足にブラック・ジーンズが似合う金髪碧眼の上品な好青年に
オリックが視線を向けながら紹介し、軽く握手を交わす。
 「こんばんは、はじめまして。」
 「それと、こっちがエミリオ。俺と同じグランゼコールの同級生。」
 イタリア人のような艶やかな黒髪に、大きな黒い瞳の親しみやすい笑顔を浮かべた青年に
視線を移した。
 「こんばんは、はじめまして、カズミ。僕は少し日本語が話せるんだ。ちょっと、待ってて、・・・・えぇと、
 <ワタシノ、ナマエハ、エミリオ、デス。フランスノ、グランゼコールデ、ケイザイヲ、マナンデイマス。>
 僕の日本語上手でしょう?」
 エミリオは白地に<東京>と大きく漢字で印刷されたTシャツを着ている。
オリックと滞在した三ヶ月の東京研修で東京にかぶれたらしい。でも、人のことは言えない。
私も極度のフランスかぶれだ。
 「日本語がお上手ですね。初めまして。
 <ワタシノ、ナマエハ、カズミ・キクカワデス。ハジメマシテ、エミリオサン。>」
 握手を交わしながら、日本語で挨拶を返す。
 二人と一通りの軽い挨拶が終わり、オリックの方に視線を移すとスーパーの袋から、
大きな袋に入ったポテトチップスと<パスティス >のボトルばかり5・6本取り出して
円卓に並べている。
 「ジュリアン、冷蔵庫の中の氷と水差しに水入れて持ってきてくれよ。
エミリオは、キッチンの戸棚からグラスを頼む。」
 テラスの右端にまとめて置いてある椅子を円卓にセッティングしながら、オリックは友人達に声を掛ける。
 そんな彼らの様子を所在無さげにしばらく見ていたが、ここにこれ以上いる意味もないので
二階の部屋に戻ることにし、キッチンのガラス戸を通って家の中に入ろうとすると、
 「どこにいくんだよ。カズミ。」
 セッティングをしているオリックに声を掛けられた。
 「どこにって、部屋に戻ろうと思って。」
 「先に、ここで酒盛りしてたんだろ、俺たちも今から飲むから一緒に飲もうぜ。」
 酒盛りの準備を手伝うように、右手で指示だししている。
 断る理由はないが、彼ら3人はきちんとした服装と髪型で格好がいいのに、
私一人だけ、風呂上りのボサボサ頭で着古してよれたTシャツなのが非常に気に掛かる。
 たかが外見、服装のことでと思うかもしれないが、自分の服装が自分自身に与える
心理的自己イメージの影響は大きいのだ。特に彼ら3人のように、
<外国人がイメージする、想像どうりのカッコいいヨーロッパ人>を体現しているルックスに対して、
美意識の上で外見的に見劣りのする高級感に欠けたルックスの私。そのうえ、
このよれた服装では、気持ちが位負けしてしまう。
 別に精神的にヨーロッパ人に対して劣等感を持ち合わせているのでは全くないが、
客観的に見て、外見上のインパクトが明らかに優越付いてしまっているのだからしかたがない。
 「日本人特有の表面的な遠慮だったら、そんな必要はないぜ。
ワールド・ワイドに経済活動を展開する為に、俺たちは各国別のメンタル面に対しても
分析・学習しているんだ。
 歴史的な武士道精神の流れをくむ<日本は遠慮と慎み深さが美徳>なんだろ。表向きはさ。
でも、それは今の日本には形式的に残るだけで、精神の真髄は絶滅してしまった過去のものだ。
 俺は今回の東京滞在で、そう悟ったね。
 酒は沢山あるんだ、遠慮はいらない。それより準備を手伝ってくれよ。」
 遠慮などしていない。オリックが想像しているような、日本的な感情などからではないのだ。
しかし、誘われたら基本的に危険なことでない限り、断らないことを身上としている私としては、
ここで参加することが自然である。
 オリックの手伝いをし、椅子を並べると、手ぶらで参加する訳にはいかないので、
キッチンの戸棚の中に隠して置いた、友人に頼んで日本から空輸してもらった
秘蔵の<柿の種>を持ってきて円卓に並べた。
 「用意は出来たな。はじめようぜ。みんなグラスを持って乾杯だ!」
 オリックが飲み会の音頭を取る。
 「今回は、一体何に乾杯するんだよ?」
 ジュリアンがパスティスの注がれたグラスを皆の前に置きながら、軽い突っ込みを入れる。
 「そうだなぁ、エミリオと俺が一年に渡るNY・東京・東南アジアの海外研修を無事に終了し、
ジュリアンの兵役免除の<Cooperation 海外派遣企業研修>が決まったこと。
 そして、カズミのパリでの下宿先が決まったことに、乾杯!」
 3人はグラスのパスティスをおいしそうに一気飲みしたが、私はグラスを持ち上げ口元まで
近づけると、そのパスティスから漂う虫除け殺虫剤のような、又は歯磨き粉のような独特な薫りに
動作が止まった。
 <Pastis パスティス>は南フランスのお酒で、
昔、アブサンという68度の度数の高いリキュールがあったが、
フランスで高い度数の酒の販売が禁止された為、アブサンに代わって風味を似せた味わいの
<Se pastiser  似せて作る>の意味の<パスティス>というお酒が創られた。
 飲み方はこの<パスティス>に水で割って飲むのが一般的で、
色は透明な黄色い液体だが、原材料に甘草が入っている為に、水を注ぐと
白濁色に変化する。味は主成分であるスターアニスの薫りが強く、
どことなく、飲み慣れないと歯磨き粉を水で割って飲んでいるような、独特で不思議な味である。
 「どうして飲まないんだよ、カズミ。」
 エミリオが、3人の空いたグラスにパスティスを注ぎながら尋ねてくる。
 「いや、飲まないのではなくて、この独特のパスティスの味と匂いが、何ていうか・・嫌いなんだよね。」
 「それは、飲まず嫌いだ。僕だって東京で初めて<味噌汁>を飲んだとき、
<何て海藻と魚の生臭い、しょっぱい飲み物だ。>と思って大嫌いだったけど、
日本文化を体得する為に、がまんして飲み続けたら、今では大好きになったんだ。
 人間、新しい物や異文化に対する好奇心を失ったら、老化の始まった年寄りだ。
 僕だって挑戦したんだから、君も挑戦しろ!さぁ、飲め!」
 「俺だって、納豆なんか大嫌いだったんだ。なのにグランゼコール東京校の教官が、
<日本で商売がしたかったら、納豆や海苔を日本人と食いながら、
畳のひかれた居酒屋で愚痴の一つも言い合うまで、日本文化を体得しなくては商売にならない。
 俺なんて、韓国滞在の時なんてキムチとチャンジャまで食えるように克服したんだ。>って、
訳の解らないこと言いやがって、毎食納豆と海苔を押し付けてくるものだから
食えるようになってしまったんだ。だから、お前も飲め!」
 オリックも<リカール パスティスのメーカー名>のボトルを押し付けてくる。
 どうも、東京の教官に押し付けられた恨みをここで晴らそうというつもりなのか?
 確かに彼らの言う事は正しいのだ、異国の食文化を真の意味で体得する為には、
その食品の持つ本来の旨みを身体で感じる為には、まずその食品を食べ続け慣れることが先決だ。
 グラスをしっかり左手に持ち、覚悟を決めて一気に飲み込む。
 「不味い!」
 間違って歯磨き粉を飲み込んだような、ざらざらしたような感覚が咽に残る。
空腹に一気にアルコールが入り込み、右足の靴擦れが心臓の鼓動のように脈を打っているような
感覚を覚えだした。
 「良くやった。飲めば飲めるじゃないか、いいぞ!その調子。」
 こうして大嫌いなパスティスを飲みながらの飲み会は、深夜まで続いて行くのであった。
 



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ブラディ・マリー をめぐる思い出

 久しぶりの浴槽で手足を思いっきり伸ばし、気分良く日本語でデタラメな歌を作って歌いながら
筋肉痛で痛む身体をゆっくりと揉みほぐし、白いTシャツに黒のコットンの短パンで出てくると
キッチンに掛かった時計はもうすぐ8時を指そうとしている。
 誰もいないキッチンの広々とした庭に面した大きなガラス戸を開き、
微かな夜風にさざめき、木々の葉が触れ合う音を聞きながら、
冷蔵庫から冷たく冷えた<ガスパッチョ スペイン南部アンダルシア生まれのトマトベースの冷製スープ>
を取り出す。
 幸いにも今夜は誰もいない。
 ガスパッチョに食前酒用のキャビネからウォッカを少し失敬して
カクテルの<Bloody Mary ブラディ・マリー>風にして、一人の晩餐を楽しもう。
 <Bloody Mary ブラディ・マリー>の名前の由来は、
16世紀イングランド女王<メアリー・チューダー>がピューリタンを迫害し、
多くの指導者を絞首刑台に送り込み、<血まみれのメアリー>と恐れられていた。
このカクテルが出来たとき、ベースのトマトジュースの赤い色から、
鮮血の赤を連想され、この名前が付いたと言われている。
 始めにガスパッチョを一口味見をして味を確認。酸味が足りないようなので、
冷蔵庫に入っているレモンをペティナイフで半分に切り、種を除いて汁をたっぷりと加える。
 タバスコも1・2滴加えたほうが味が引き締まる。
 ここで、アメリカ人ならすりおろしたフォース・ラディッシュとウスターソースを
加えるであろうが、私の味の趣味ではないのでこのままにする。
ウォッカを心もち多く加えて完成だ。
 フランスパンを厚さ5ミリに数枚切り、にんにくを擦りつけ軽く塩・胡椒し、オリーブオイルを
ふりそそぎ高温のオーブンで軽くトーストする。食器棚の中で断面がとろけている食べ頃の
ブリーチーズをたっぷりとトーストにのせて木製のトレーに乗せ、
クリスタルのボールに入ったガスパッチョとグラスを持ちキッチンから出たテラスにある
木製の大きな円卓に載せた。
 風呂上りの肌に乾燥した微かな夜風が心地よく、静かに木々がそよぐ音が聞こえ音楽は必要もない。
 透明感があり、蒼みがかった夜空に星が瞬く静かで贅沢な空間。
 デッキチェアーに腰掛け手足を伸ばし、クリスタルボールからルーシュで冷えたガスパッチョを
グラスに注ぎ、ゆっくりと乾いた咽に特性ブラディ・マリーを楽しみながら
ある夏の日の懐かしい場面を思い出す。
 そう、ガスパッチョのブラディ・マリー風を教えてくれたのは、
17歳の夏、オーストラリアのケアンズにホームステイしたお宅のマダムが教えてくれたのだが、
今となっては名前も思い出せない。
 今思えば彼女は全く不思議な女性だった。
 15歳と18歳の父親違いの娘を持ったシングル・マザーで、
二人の娘のルックスは体型も顔かたちも全く似ていなかった。
 こじんまりとしたシンプルな彼女の家には、玄関にドアが取り付けてなく
夜中も玄関は開放されたままなのに驚き、
黒く艶やかな毛並みの大きな二匹のドーベルマンが家の中や庭を自由に徘徊していた。
 家には、彼女と同年齢のボーイフレンドも一緒に住んでいたが、二人の娘も<ママの恋人>として
客観的な距離をとりつつ、平常に静かに共同生活を送っているのに
17歳の日本人の私は軽いカルチャーショックを感じたのを覚えている。
 彼女の正確な年齢は当時も知らなかったが、多分30代後半、38か39歳ぐらいだったのだろうか。
いつも家にいて執筆業のような仕事をしていたはずだ。
 子育てや仕事・家計のやりくりに追われている様子など全く感じさせず、
時間の流れに追われる事のないような自由な生活ぶりで、
特別、優雅な暮らしぶりではなかったようにも感じられたが、
彼女のお宅に滞在中、留学生である私の歓迎ガーデンパーティーを開く為に
庭に石垣を積み上げ滝が流れ込むスタイルのプールを急いで造ったと聞かされた時には驚いた。
 オーストラリア北部にあるケアンズは、
広大な珊瑚礁のグレートバリアリーフが広がり、神秘的なエメラルド・ブルーの海に
世界文化遺産のグリーンアイランドが浮かぶ、海辺の美しい田舎街だった。
クルージング・トローリング・ダイビングなどのメッカでもある。
 彼女はそのヨットハーバーに全長15メートル程の白い大型クルーザーを
持っていた。週末にはクルーザーに乗せてもらい醤油とチューブ入りのワサビを持って
エメラルド・ブルーの大海原に釣り糸を垂れフィッシングを楽しんだ。
 昼食にはオーストラリア産のワイン片手に、釣りたての魚をさばき、醤油をつけて
口の中に入れると、直前まで生きていたその体温が感じられ生暖かく複雑な感じだ。
<釣りたての魚は、さばいても体温が感じられてちょっと不気味で、おいしくない。>
という事を教えてくれたのも、そういえば彼女だった。
 普段の食事は冷凍食品をオーブンで温めたり、テイクアウトのピザで済ませてしまう家庭だったが
食事を作ることのなかった彼女が、一度だけ作ってくれたのが
この<ブラディ・マリー風 ガスパッチョ>だった。
 二杯目のブラディ・マリーを飲みながら、星の輝く夜空を見ながら考える。
 <彼女は今でも、自由に暮らしているのだろうか?>

    ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで

          9eme

       フランス グランゼコールのエリート予備軍と飲み会


 パリから東南に約310キロメートル、パリ・リヨン駅からスイス方面に向う超特急TGVで
一時間40分,ブルゴーニュ地方ディジョン駅のプラットホームに降りたのは
夕方の6時をもう少しで回る頃だった。
 この一週間パリ市内を部屋探しの為に何十件もの物件を探しては一日中夜遅くまで歩き回り、
やっと14区にある部屋の契約を交わす事が出来たのは今日の正午過ぎ、
急いで5区のカルチェラタンに戻りホテルの部屋を解約し、
大きな荷物を背負ってたどり着いた、右岸12区の<リヨン駅>から
発車寸前のTGVに飛び乗ったのは午後の3時過ぎだ。
 一週間ぶりのディジョン駅のプラットホームが懐かしく感じられ、右足の靴擦れと両足の筋肉痛で
思うように足が進まないが階段をゆっくりと昇り、足を引きずるようにして
駅の正面玄関ホールを横切る。
 駅構内から外に出てすぐのロータリーには、客待ちのタクシーが列をなしているが、
パリの一週間の滞在で散財してしまったので節約の為、
駅から街の中心部にある<ギャラリーラファイエット デパート>正面のバス停まで、
15分程かけて歩いて行くことにする。
 右足の踵の上の皮膚が靴で擦れるたびに出血しているようで、何の手当てもしていないので
鮮血が滲み出て滴っているが、痛さよりも朝から何かを食べる時間もなく、昼食を取り損ね空腹で
めまいがするようだ。
 ロータリーを足を引きずりながら、空腹感でもうろうとしながら歩道を歩いていると
隣の車道を後ろから来た見慣れた赤いプジョーが私の隣で止まった。
 「ちょっと血が出ているじゃない。どうしたのよ?カズミ。」
 ウィンドーを開いてロレンヌが、驚いている。
 「まったくもうこれだから、みんなが心配するのよ。
 ママが心配して六時頃にカズミが駅に着くはずだから、迎えに行くように言われて
駅のロータリーで待っていれば、私がクラクションを鳴らして合図しているのも無視して
大きな荷物を抱えてヨロヨロ歩いて行くじゃない。もうちょっと、周りも見なくちゃだめよ。
 さぁ、早く車に乗って!家に帰るわよ。」
 後ろのシートに荷物を載せ、助手席のドアを開け席に腰掛けようと足を曲げると
極度の筋肉痛から激痛が背骨から頭へと稲妻のように走った。
 「痛いっ!いて!」
 と、思わず日本語が飛び出す。
 「何言ってるのよ?早く車に乗りなさいよ。後ろで車が渋滞するじゃない。」
 ロレンヌに急かされて、痛みでうめきながら車に乗り込む。
 「パリから戻って来たと思ったら、足から血を流しながら歩いているしどうしたのよ。
ちゃんと私に話さないとダメよ。どうしたの?」
 ハンドルを握り真っ直ぐ前を向いて、中世の建築物が並ぶ街並みをスピードを出してプジョーを
走らせながら、いつもの調子で聞いてくる。
 彼女の家でホームステイを始めてこの一年間、いつもこんな感じで彼女が質問し、
それに私が正直に答えなくてはならない。
 裁判官を目指している彼女に嘘や黙秘権は通用しない。
 昨年ブリュゴーニュ大学法学部を主席で卒業した私より2歳年下のロレンヌは、
現在ボルドー大学で裁判官選抜試験を突破する為に司法を学んでいる。
今期十月からは、パリ5区<パンテオン 聖ジュヌビエーブ聖堂>正面口の左向かいにある
司法学部で学ぶそうだ。
 いや、多分そうだ。
 なぜ正確に解らないかというと、彼女と彼女の父ムッシュー・ピッチオは
ブルゴーニュ大学の法学部の教授、母マダム・ピッチオはIUT技術系大学の英語教授で
博識な三人がロレンヌの進路に関して話し合っている場所に、いつも私も同席しているのだが、
私の持っているフランス語のボギャブラリーが多くない上に、法関係の仏単語が多くて、
難解すぎて私には理解できないのだ。
 その上、フランスの司法制度やどこでどのように学び、
どのようにすれば司法に関係する資格が取れ、仕事が出来るようになるのか知識もなく、
非常に関心はあるのだが、複雑過ぎて未だに良くわからない。
 面倒見が良く、正義感の塊のような彼女は、言葉の良く話せない世に疎い下宿人の私を、
ほっとく事が出来ずに心配して、子供の面倒を見るように色々世話してくれるのだ。
 「ちゃんと部屋は、見つかったの?」
 お腹が空きすぎてめまいを感じながら、質問に答える。
 「見つかった。」
 「見つかっただけじゃ解らないでしょ。何処の地区で周りの治安はいいか、
どれくらいの大きさのどんな部屋か、大家さんはどんな職業のどうゆう人で家賃と諸経費はいくらか、
色々とあるでしょ?ちゃんと最後まで話さないとダメよ。」
 短い返答では、やはり納得がいかないらしい。
 「・・・・でも、・・・だめロレンヌ、今はお腹が空き過ぎて話せない。
だって、朝から何も食べる暇がなかったから、空腹で目が回りそう。」
 空腹で気分が悪くなって来た。
 「まぁ、食いしん坊で人並み以上に食べるカズミが、一日中ごはんも食べないで
部屋探しをしていたの、それは凄い事だわ。それじゃあ、しかたがないわね。
後ろのシートの私のカバンの中にチョコレートが入っているから食べていいわよ。」
 左手でハンドルを握りながら、右手で後ろのシートを指し示す。
 「ありがとう、ロレンヌ」
 と言いながら身体をよじって後ろを振り向こうとすると、余程身体が疲れているのか
肩と腰まで痛い。
 ロレンヌの小振りの皮のカバンの中から、ナッツ・ヌガー入りのブラックチョコレートを取り出して
包装紙をむいて食べ始める。
 「これから家に着いたら私は直ぐにクレオの家に出かけてホーロン達と一緒に夕食を取りながら
論文の準備をするの。だから、私は今夜家にいないの。
 カズミも覚えているでしょう?ホーロンやクレオのこと。」
 「覚えてる。ロレンヌの法学部の時の友人で二人とも弁護士志望でしょ。
冬にブルゴーニュ大学の近所のホーロンの下宿アパートでクレオ達と
<ラクレット じゃがいもとチーズを焼いたフランスのポピュラーな家庭料理>を
食べたりしたから覚えている。」
 「そう、さすが料理が絡むと素晴らしい記憶力を発揮するわね。
カズミも連れて行きたいのだけど、今夜は司法論文の資料製作を皆で手分けして
遅くまでかかると思うから、今度ゆっくり出来る時に一緒に行きましょう。」
 彼女は自分の友人を紹介してくれたり、一緒に遊びにつれていってくれるのだ。
 「わかった。今夜は家で待ってる。」
 「それとね。ママとJ・Pは同僚のシャンダルナック教授夫妻のお宅に
アペリティフに呼ばれて出かけているからいないの。
 弟のオリックは友達の家に昨日から泊まりに出かけているから、今夜は一人で夕飯を食べてね。
 冷蔵庫の中にパテとハム・ヨーグルト・ガスパッチョが入っていて、食器棚にチーズがあるから
それを食べるようにママが行ってた。わかった?」
 ロレンヌがJ・Pと呼んでいるのいは、父親のムッシュー・ピッチオのことである。
ムッシュー・ピッチオの名前はジャン・ピエールといい、
彼女が子供の頃にジャン・ピエールと言えずにJ・Pとなったそうだ。
弟のオリックもJ・Pと呼んでいるが、なぜ単純な単語のパパと呼ばないのか理由は分からない。
 しかし、二人はムッシュー・ピッチオの実の親子である事は一目でわかるほど良く似ている。
 「さみしい?」
 やっと一週間も一人で食事をしていて、皆と夕飯が食べられると思っていたのに
今夜も寂しい一人の晩餐だ。私は一人で食事をするのが本当は大嫌いなのだ。
 「うん、とってもさみしい。」
 本当は、一人でいるのも好きではない。
 スピードを出して走って来たプジョーが、ディジョン市郊外の邸宅街<シュビニー・サンソーバー>に
入った。この閑静な邸宅街の区画は一軒300坪以上で大きな屋敷の周りには、
豊かな緑が茂り、まるで高級別荘地のような趣を持っている。
 大学の下宿相談オフィスに下宿先をお願いしに行った時、
下宿先のファイルをめくった女性が、
 「あら、あなた運が良いわね。ちょうど新しく<シュビニー・サンソーバー>で
下宿人を探している人がいるわ。それに希望は日本人の女性よ。あなたにぴったりじゃない。
 あそこは高級住宅街で大きなお家がたくさんあるのよ。」
 と言っていた事を思い出す。
 ピッチオ夫妻のお宅で下宿を始めて一年以上がたち、つい最近知った事だが
特別な親日家でもないピッチオ夫妻が日本人の女性の下宿人を大学にお願いしたのは、
息子のオリックは4年前から家を出て、パリの16区にある私立のグランゼコールに入学し
パリに下宿をしていているが夏のバカンスの時にしか帰えらず、
 娘のロレンヌもブルゴーニュ大学を卒業し、ボルドー大学にいってしまうことになり
おまけに永年可愛がっていた小犬の<モベット>も死んでしまったので、
大きな家に夫婦二人だけになってしまい、急に静かに寂しくなってしまうので
どうしようかと考えていた時に、ムッシュー・ピッチオのお姉さんが
 「下宿人を入れればいいのよ。日本人がいいわ、それも女の子ね。
ヨーロッパ圏の学生はフランス語や英語の語学は達者でも騒ぐし、自分勝手な行動を取るでしょ。
その点、日本人は言葉は上手にはなせないけど騒がないし、理性的で品行方正なの。
 だから、あなた達日本人の女の子の下宿人をとりなさい。
 子供も出て行って、その上、犬まで死んじゃったのだから。」
 とアドバイスされたからだそうだ。
 その時、ロレンヌは喜んでこうも言っていた。
 「モベットが死んじゃって、モベットの変わりに家に来たのよね。
モベットもママの後を良くついて回っていたけど、今度はカズミがママの後をついて回っているのよ。」
 確かに私は、マダム・ピッチオの後ろをいつもついて回っている。
 しかし、小犬が死んだ変わりで下宿をさせてもらっているとは、想像もしなかった。
世の中、全く不思議な縁である。
 「さぁ、家に着いたわ。足から血が出ていて足元ふら付いているから、
私がカズミの荷物を家まで持っていってあげるわね。」
 400坪程の大きな敷地の庭の車を停める小石を敷いたスペースにプジョーを停めると、
運転席から降りながらロレンヌが声を掛けてくれる。
 「ありがとう。身体中が筋肉痛で物凄く痛いのよ。
先に玄関に行って、玄関のセキュリティ・コードを解除して玄関開けて待ってるね。」
 車から痛みを堪えながら降り、ゆっくりと玄関に向ってレンガの敷かれた小道を歩いていくと
隣の家の鉄柵によじ登ろうと前足を振り上げて、荒い息を吐きながら吠え始めた
犬のファルコの濡れた大きな褐色の瞳と目が合った。
 「バカ犬、ファルコ!たまにはイイ子にしろ!」
 日本語で叱り付けるが、フランス生まれのフランス国籍の犬には通用しないのか
嬉しそうに、大量の涎を垂らしながら吠えつずける。
 ファルコに油断をしてはいけない。
一ヶ月前に鉄柵に近づいて、頭を撫でてあげようと近づいた時、
喜んで興奮したファルコにおしっこを引っかけられたのだ。
 「黙れ!バカ犬ファルコ!あっち行け!。」
 日本語なら、例え隣人のレオタール夫妻に聞こえても関係ない。
大声で、怒鳴りつけるがファルコはより一層嬉しそうに甲高い声を張り上げるだけだ。
 ファルコは大人の腰の高さまである大型のゴールデンリトルリバーで、
もう2・3年生きているらしい立派な大人の犬なのだが、
いまだに自分が小さな可愛らしい子犬だと思い込んでいるらしい。
 5カ月前にこの立派な鉄柵が隣家との間に出来たのもファルコが原因だ。
 郵便配達にピッチオ家を訪れた若い女性郵便局員に隣家のファルコが全力疾走でやって来て
彼女に跳びつきレンガ敷きの小道に押し倒され、利き腕の右腕を複雑骨折してしまった。
 飼い主のレオタール夫妻は大慌てで、事故の起こった場所が法学部教授であり、
又弁護士でもあるムッシュー・ピッチオの敷地内であったので訴訟問題にはならなっかたが、
これに懲りたレオタール夫妻は、大急ぎでファルコもよじ登れない頑丈な鉄柵を
敷地の周りに張り巡らせてしまった。
 それまでは、両家の庭を我が物顔で走り回り人の気配を感じると走ってじゃれつき、
お出迎えのつもりらしいが、突然に大型犬に遭遇した当事者にとっては
襲われているのと同じだ。
 しかし、ファルコにとっては生まれたばかりの子犬の頃から
人間にじゃれついては頭を優しく撫でられ<可愛い。良い子の犬ね。>と可愛がられていたのに
本人の知らない間に勝手に身体が40キロを超え大型犬に成長して声変わりをし、
心は子犬のままなのに、いつの頃からか<狂犬ファルコ>になってしまったのか
全く気づかず解らないのだ。
 まるで成長期のアイドル歌手が2・3年の間で、本人の気づかない間に成長して大人になり
周りの見る眼が変わってしまったのに、当の本人の心は若いままの自分であり続ける
喜悲劇に似ている。
 しかし、濡れた褐色の瞳には<私は可愛い子犬のファルコ>といまだに迷いのない
強い思い込みが感じられ、格言にもあるように<願えば叶う>のかもしれないと
考えさせられてしまう。
 なぜならば、人に飛び掛り怪我をさせもう少しで訴訟事件になりそうだったのに
誰一人としてファルコを処分し、ここから追い出そうとは言わなかった。
 玄関に辿り着き、セキュリティー・コードを解除して、一週間ぶりに家の中にはいる。
白い大理石張りの玄関ホールから、正面の庭にめんした左手の十畳程のキッチンに入り
大きなガラス戸を開き、荷物を持ってきてくれたロレンヌがいつものようにここから入ってくる。
 「荷物はこのまま二階のカズミの部屋に置いてくるわね。
足が血だらけだから、このままお風呂に入ったほうがいいわ。
清潔にして、乾燥させると傷口も早くなおるものよ。
さぁ、早くお風呂にはいりなさい。」
 私のピッチオ家での行動は、マダム・ピッチオとロレンヌの正しく教育的な方針に基づいている。
常識的で間違いのない正しい方針に、私はまだ一度も<Non ノン いいえ>と行った事がない。
フランスの家庭の中で、フランスの常識と日常生活を実地に学ぶのが留学の真義だからだ。
 彼女達も、要領を得ていない外国人留学生に正しいフランスの日常生活を過ごすように
心を砕いている。
 「お風呂に入るには、そのカバンに入っている着替えが必要。
それに洗濯物も出さなくちゃ。」
 「あぁ、そうね。パリでホテル生活していたのだから洗濯物もたまるわよね。」
 床に置かれたカバンの中から、着替えと洗濯物を取り出すと、再び重いカバンを持った
ロレンヌが二階に向いながら、念押しする。
 「早くお風呂に入っちゃうのよ。清潔にしないとケガが直らないのだから、分かった?」
 やっぱりパリで独りより、馴染んだロレンヌの声がするここがいい。
 「Oui,ウィ-イ。 はぁーい。」
 と長く返事しながら、浴室に歩いていく。