パリのブルジョウ・マダムと部屋の賃貸交渉

 通勤時間の過ぎた午前中の地下鉄構内は、行き交う人の姿もなく
穏やかな静寂に包まれている。
 自動改札口にチケットを滑り込ませて無人の改札を通り抜け、
コンクリートの階段を、パリに着いてからの一週間部屋探しの為パリ市内を歩き回り、
慣れない石畳に靴擦れをおこしてしまい、
踵の辺りの皮膚が擦りむけて歩くたびに痛みの伴う右足をかばうようにしながら、
透明で穏やかな真夏の日差しが差し込んでくる階上へとゆっくりと昇っていく。
 地下鉄<プレザンス駅>階段入り口まで昇りきると、ゆっくりと立ち止まり
眩しい真夏の陽射しを手のひらでかざしながら、透明なコバルトブルーの大空を見上げ、
街路樹のマロニエの大木が光輝いてそよ風にそよぎ、新緑の薫りに包まれている。
 夜明け前に雨が降り、しっとりと水分を含んだ石畳が午前中の眩い太陽の陽射しに照らされて、
立ち昇る水蒸気が陽炎のように、かすかに揺れて見える。
 目の前の<クレディ・リヨネ銀行>のキャッシュディスペンサーには、
お揃いの白い木綿の帽子を被った小柄な老婦人が二人、連れ添って現金を下ろしているようだ。
 その後ろには、距離をとってスーパー<モノプリ>の白いビニール袋からフランスパンを覗かせ、
ピンク色のシャツを着た青年が静かに順番を待ちながら立っている。
 腕時計で時間を見ると約束の午前十時半には、まだ十五分以上の余裕がある。
 カバンの中から昨夜公衆電話でマダム・パナシェに告げられた住所を走り書きしてあるメモを取り出し
通りの名前を左手の薬屋の脇に掲げられているブルーの道路標示プレートを見て確認する。
 <14区Raymonnd Losserand通り100番地>は、ここから左手に向って
1・2分行った場所になるはずと、電話口でマダム・パナシェは言っていた。
 ゆっくりと石畳を歩き出し、街並みを観察する。
 通りにゴミなどが捨てられていることもなく、掃除が行き届き清潔感があふれ、
通りをゆっくりと歩く人達も近所の生活者らしく、Tシャツにジーンズ姿でスーパーの買い物を提げ、
気楽なゆっくりとした雰囲気だ。
 左岸の14区は庶民的な生活地区とされ治安も安定していて、
生活用品を買うにも物価も高くなく、手頃な値段で買い物出来る店が多いとされている。
 <ショコラティエ チョコレート専門店>、<クリーニング店>や<お惣菜専門店>
一方通行の通りの向こうには、店頭で歩道にせり出し何十羽もの香ばしい鶏の丸焼きが
ステンレスの串に通されてゆっくりと回転されながらロティされている
<ロティスリィ ロースト焼肉店>や、買い物客で混み合っているパン屋が軒を並べている。
 左手の建物に掲げられている番地を示すプレートを確認しながら、
靴擦れで痛む足を引きずるようにしてゆっくりと通りを進んでいくと、
真正面で、こちらの様子を見つめている貫禄のある女性の視線に気がついた。
 <マダム・パナシェに違いない。>
 と直感があったのと同時に、彼女の姿を見て
 <今日は、部屋の交渉は上手く行かないだろうな。こんな格好してくるんじゃなかった。>
 と、後悔の感情が身体中の神経細胞を瞬時に走った。
 眼光鋭く、真っ直ぐに観察している女性は、
真夏だというのに淡いクリーム色の上質のジャケット・スーツを着こなし、
ウェーブの緩やかに掛かったショート・ヘアを金髪に染め
大きな威圧感のある金のイヤリングに、同じく太い金のネックレスと
幾つもの金の大振りな指輪をした四十代後半から五十代の、
フランスによくいる典型的な女性管理職タイプのブルジョワ・キャリアマダムの装いと雰囲気だ。
 相手の服装や持ち物・訓練された身のこなし、醸しだす雰囲気で相手の財力とバックボーン、
実力を査定するヨーロッパ文化を頭で理解はしているが、
身体で染み込んでいない私の今日の装いは、初対面の相手との部屋の賃貸交渉だと言うのに
文化ルール違反のようなものだ。
 スーパー<モノプリ>で買った、木綿の裏地のない一枚布の細い肩紐がついただけの
安くてお気に入りの真っ赤なワンピースに、カルチェラタンの靴屋で買ったバーゲンの
華奢な編み上げサンダルを合わせ、アクセサリーは真珠のピアス以外に着けず
マニュキュアもペティキュアもせず、その上化粧までしていない。
 この一週間、灼熱の太陽に照らされながら部屋探しをしていた為、肌はまだらに土肩焼けし
いつもは初対面の相手に好印象を与えるよう、きちんとした身なりを心掛けて
洋服を選んでいたのに、一週間の疲れが出たのか部屋探しに対するやる気のなさが服装に出てしまい、
今日に限って、こんな気楽な格好を選んでしまった。
 歩道で仁王立ちしている女性に急いで駆け寄り
 「こんにちは。初めまして、マダム・パナシェでしょうか?」
 無言でこちらを見つめたままの女性に声を掛ける。
 黙っているのも無理はない。昨夜の電話では、<ホテルリッツの料理学校に入学する学生>と
言っていたのに、<ホテルリッツ>という単語が醸しだすお金持ちのイメージから全く掛け離れた
全くお金を持っていなさそうなアジア人が登場したのだから、
彼女の部屋の賃貸予定者に対する希望を打ち壊したようなものだ。
 「あなたが、昨日私に電話をくれたマドモヮゼル・キクカワなの?」
 訝しそうな表情で、足元から頭の先までゆっくりと見回す。
 今更、服装の事で後悔してもしかたがない。
 これで今日の交渉が上手くいかないとしても、相手にきちんと部屋代を払える資金がある事と、
信頼感を与えられなかったアプローチの責任は自分にあるのだ。
 私が彼女の立場でも、きちんと毎月の部屋代が払えるのか判らないような格好をした
見ず知らずの外国人には自分の部屋を貸したくはない。
 「はい、そうです。今日の午前十時半に約束したマドモヮゼル・キクカワです。」
 ニッコリと微笑みながら、彼女の期待とは明らかに見込み違いの
落胆の表情を見せているマダム・パナシェに明るく答える。
 しばらく無言で何か考えたまま、私の様子を伺っているマダムは
 「あなた、私の部屋を見たい?」
 仕方がないと、投げやりな表情で短く尋ねる。
 「そのつもりです。マダム。」
 私も短く答える。
 「いいわよ。見せてあげるわ。でも、仕事にいかなくてはならないから時間がないの。
時間が掛けられないから、それでもいいわよね。」
 彼女の最後の<いいわよね。>は、私に同意を求めるものでなく、
彼女の決定の意思を表していた。
 彼女は私には時間も掛けたくないし、彼女の部屋を貸す気持ちがないのだと、
彼女のあからさまな表情と対応で見て取れるが、
今回は自分にも初対面の相手に対する礼儀がなっていなかったと反省するしかなく、
彼女の失礼な態度にも、プライドが傷つけられたり腹も立たなかった。
 マダム・パナシェは、左腕に掛けた年季の入ったベージュのケリーバッグから、
何十もの鍵のついた束を取り出し、パリの古い町並みには珍しく、
古い石の建造物の表面を新たに美しく削り、内装は近代的に改装されたシックな建物の
ガラス張りの重厚で大きな玄関の右側、ベージュの大理石の壁に取り付けられた
玄関ロックボタンに暗証コードを打ち込み、
玄関の大きなガラス張りの扉が痺れるような低音の唸りを上げると、
素早く一枚目の玄関扉の中に入り、それに私も続いて入る。
 重そうな鍵の束から再び鍵を選び、二枚目の大きな重厚なガラスのドアを内側に大きく開き
建物の内部に入ると、二十畳ほどの広さのロビーには淡いベージュとローズピンクが入り混じった
一枚板の大理石が敷かれ、全ての壁は目地のない磨きこまれた大きな鏡で覆われている。
 天井は白く塗り込められ、温かく優しい印象を与える柔らかな光と色の幾つものスポット・ライトが
仕込まれ、明るくて近代的な印象の内装に仕上げられている。
 ロビーには天井まで届く一本の大きなジャスミンの観葉植物が玄関口左側に置かれているだけで
正面の天井には威嚇するように存在感のある黒い監視カメラが取り付けてある。
 マダム・パナシェは清掃の行き届いた大理石ロビーを大きな靴音を立てながら早足で真っ直ぐに進み
鏡張りのエレベーターの大きな扉の前で立ち止まると、鍵の束の中から新たな鍵を選び出し
右手にある磨きこまれたステンレス製の鍵穴に鍵を差し込み右に大きく回すと、
静かに鏡張りのエレベーターの扉が開いた。
 素早くマダム・パナシェが乗り込み、彼女に遅れを取らないように急いでエレベーターに乗り込むと
扉が静かにゆっくりと閉まり、扉上には大きな監視カメラが取り付けられている。
前方右手のパネルに5階が選択され、全面を鏡で覆われたエレベーターが静かに昇り始めた。
 エレベーターの磨きこまれた扉に映りこんだ、私達二人の姿は全く持ってチグハグで
調和がするものが何もない。
 マダム・パナシェは熟年の貫禄と威厳のある、愛想笑いなど全くした事のないような、
フランス管理職女性の典型的なスタイルで、
隙はないが女性的でエレガントでシックな上質な装いで武装し、果敢にもフランス・ビジネス界で
戦っている、途切れることのない年季の入った緊張感に包まれている。
 威圧的で高慢な雰囲気もあるが、戦い続ける大人の貫禄を持つ格好のいい女性である。
 一方、自分の姿を彼女と比べながら見ると情けない気分になる。
 真夏の暑さも物ともせず、スーツを着て美しく化粧をし働いている女性の隣で、
バカンス気分の避暑地で過ごすようなノースリーブの真っ赤なワンピースを着て
お気楽な格好をしている自分が馬鹿に見える。
 無言で私の隣に立っているマダム・パナシェも、おそらく同じ事を考えていても不思議ではない。
 それにしても高級感ある建物だ。
今まで何十件もの部屋探しで多くの建物を訪れたが、自分の部屋代の予算にあてはまる物件の中で
こんな内装の美しい近代的な建物はなかった。
<もしかしたら、ニュース・ダイジェストに載っていた賃貸条件の家賃の0の数が違っていたのか、
それとも私が見間違えたのかもしれない。>
と、不安になりカバンの中から広告を取り出して家賃を確認したい衝動に駆られるが、
仮に間違っていたとしても、既にマダム・パナシェは部屋を貸す気持ちが
薄れ去ってしまっている様子なので、そんな心配する事はない。かえって、
<パリの高級アパルトマン観光を気楽な気分で見物を楽しめる。>
 と考え方を変えて気分を持ち直した。
 静かにエレベーターが止まり扉が開くと、廊下に踏み出したマダム・パナシェに続き右手に折れ、
突き当り右手の深いボルドー色の大きな扉の前で立ち止まる。マダムが重そうな鍵の束の中から
部屋の鍵を見つけている間に周りを静かに見回してみる。
 <この5階は、扉の数が対面して4つしかなく、4戸で成り立っているらしい。>
 マダム・パナシェがゆっくりと鍵を回し、内側に大きく開き部屋の内部へと入って行く、
彼女に続き部屋の内部に急いで入りドアを静かに閉めた。
 玄関から入った踊り場のスペースは小さく一畳程だろうか、
床には明るいベージュ色の絨毯が敷詰められている。
 「ここが部屋よ。こちらが浴槽とトイレになるわ。」
 部屋に入ってすぐ左手の開いたままの白い大きなドアの向こうに、
彼女が電気のスイッチを付けて明るく照らされた四畳半程の淡いクリーム色の大理石の浴室に窓はなく、
左側の壁は大きな硝子で覆われ白い陶器の浴槽とトイレが見える。
 「この部屋は表の通りの反対側に位置するからとっても静かなの。
内装を全面改装したのも三年前で新しいのよ。」
 浴室の隣にある白い大きなドアを押し出し、彼女に後に従って部屋に入っていくと
大きなガラス窓の向こうに大きく広がる鮮やかな新緑が風にそよぐ豊かな木々が
50メートル先のレンガ造りの建物まで続いている。
 玄関ドアのスペースと同じ明るいベージュ色の絨毯が敷詰められた部屋は20畳程の大きさで
真っ白い壁に趣味のいい白い大きな棚と大きなソファ、そしてテーブルと二対の椅子が置かれている。
 「ここがキッチンよ。コンロも4つあり、下には高性能のガスオーブンが付いているの。
キッチンからも料理を作りながら窓の外に広がる豊かな緑が堪能できるわ。」
 新緑を眼下に見下ろし、全面をガラス窓となっている部屋の隣のスペースが、
白を基調とした太陽の陽射しが豊かに差し込む四畳半程のキッチンになっていて、
L字型にシンク・コンロ・オーブン・冷蔵庫などが機能的に配置されている。
 部屋の内部をマダム・パナシェは丁寧に見回して観察し
 「ああ、良かった。何の変化もないし、誰もこの部屋に入った形跡はないようね。
これが部屋の全部よ。あなた、そこに座ったら?」
 窓ガラスに面して置かれている白いテーブルの脇の椅子を指差した。
 頷いて静かに言われたままに腰掛けると、斜め横に置かれている椅子に彼女も腰掛けた。
 「フランスに来る前は何をしていたの?」
 時間がないと言いながら、この部屋を貸す気もないのに面接だけでもしてみようかと
彼女の気持ちが変わったのだろうか?
 大きな重そうなケリーバックを絨毯の上に下ろし質問をしてくる。
 「大学を卒業してから、祖母の経営する結婚式場に務めました。」
 「そこで、何をしてたのよ?」
 矢継ぎ早に、尋ねてくる。
 「本部組織で経営事務と、営業を並行しておりました。」
 「じゃあ、日本に帰ったら、その結婚式場を継ぐのね。」
 「わかりません。祖母もそのような話に関しては一切話した事がないのです。」
 私の顔を真っ直ぐに見つめ、しばらくの沈黙があり
 「まぁ、いいわ。お家が結婚式場を経営しているのなら、
フランスのレストラン業を勉強するのは論理的に脈絡があるわね。
今はブルゴーニュのディジョン市にいるのよね。滞在ビザは学生で取っているの?」
 「はい。」
 「パリのその<ホテルリッツの料理学校>はいつから通うのよ。
それにその学校に通うまでは何をするつもり?料理の勉強は今までにした事があるの?」
 相手が部屋を貸す気もないのに、面接を受けるのは時間の無駄だと感じる。
 その上、広告の料金を私が見間違えたのか、それとも広告の料金表示が間違えているのか
こんな立派なお部屋は私の予算の範囲を超えているので、
彼女の興味本位に感じられる質問に気持ちが入らない。
 「ちょっと待ってください。料理学校の登校開始日を確認しますから。」
 使い込んだ皮のカバンの中から、ホテルリッツの金色の紋章の印刷された
ブルーの上質の厚紙で出来た見開きのファイルをテーブルの上に置いて中を開き、
在学証明書と登録証明書を取り出した。
 「ホテルリッツには、再来週の金曜日からワイン講座が始まるので通いはじめます。」
 書類に記載された講座の日にちを確認しながら答える。
 ブルーの紋章入りのファイルと上質紙の書類を見て、明らかに彼女の様子が変わった。
 「ちょっと、その書類みせてくれる?」
 「いいですよ。」
 彼女にファイルごと書類を手渡す。
 ホテルリッツの料理学校に入金した金額が記された入金証明書などの
人目に触れると困る書類はカルチェラタンのホテルの部屋に置いてきてあるので、
ファイルに入っているものは、差しさわりのない書類ばかりだ。
 マダム・パナシェはじっくりと丁寧に書類に目を通し
 「あなた、本当にホテルリッツの料理学校に一年以上も通うのね。」
 「はい。」
 書類をテーブルに静かに置くと、書類の下のサインを指差した。
 「あなた、マダム・マルヴィーヌを知っているの?」
 「ホテルリッツの彼女のオフィスを訪れ、マダム・マルヴィーヌからこの書類を渡して頂きました。」
 しばらく、黙ったままマダム・パナシェは私の顔を見つめ
 「マルヴィーヌ夫妻は私の家の隣に住んでいるのよ。」
 上質の厚紙で出来たファイルに書類を入れて、私に手渡してくれる。
 「あなたの身元がしっかりしている事は分かったわ。あなたこの部屋気に入った?」
 どうやらこの部屋を貸す気になったらしい。しかし、こんな高額そうな部屋は借りられそうにない。
 「素晴らしいお部屋ですね。」
 そう答えると、マダム・パナシェは黙って頷き
床に置いたケリーバックの中から書類を取り出して私の前に差し出した。
 「これが、この部屋の賃貸契約書よ。」
 書類には広告に記載されてあったのと同じ金額の部屋代が書かれている。
 「でも、フランスでの保証人がいないのです。」
 「別にいなくてもいいわよ。留学生なんだから。
その代わりに5ヶ月分の部屋代を事前に入れて頂くけど、あなたが部屋を出るときにお返しするわ。」
 5カ月分をまとめて前払いとはかなりの金額になるが、保証人がいなくても貸して頂けるのなら
仕方がないのかもしれない。
 目の前に置かれた書類を手に取り条件の記載された文面にゆっくりと目を通した後、
 「分かりました。お願いします。」
 「それでは書類に必要事項を記入して。」
 ケリーバックから取り出した、黒く太いモンブランの万年筆を手渡してくれる。
 書類の必要事項を確認しながら全ての記入を終え差し出すと、
マダム・パナシェはその書類を右手に持ってゆっくりとしたようすで確認しながらながら
 「ホテルに通いだすのは再来週の金曜日からよね。この部屋にはいつから引っ越してくるの?」
 引越しの予定までは立てていなかったので、瞬間的に戸惑いはしたが、
出来るだけ早くパリに引っ越してきて、秋から本格的にホテルリッツに通いだす前に
滞在ビザなどの手続きを済ませてしまわなければならない。
 「来週の始め頃には引っ越して来れればいいのですが・・・。」
 「それならここでとりあえず、3ヶ月分の家賃を払ってくれれば今この場で部屋の鍵をお渡しします。
残りは来週この部屋に引っ越して、私が来た時に渡してくれればいいわ。」
 現金の持ち合わせはないが、小切手の用意はしてある。
 「現金がないので、小切手でいいですか?」
 「もちろんよ。何処の銀行の小切手なの?」
 「クレディ・リヨネ銀行です。」
 「それなら、ここから近いわね。歓迎よ。」
 三ヶ月分の部屋代の金額を小切手に記し、マダム・パナシェに手渡す。
 「確かに頂くわね。
 あぁ、もうこんな時間、正午をとっくに過ぎてしまっているわ。
シャンゼリゼ通りの店に急がなくては、シャンゼリゼ通りでレストランを経営しているのよ。
厨房にいる何人かの料理人はホテルリッツの厨房でも働いていたことがあるのよ。
もちろん私の店からもホテルリッツに行った料理人もいるわ。
 急がなくてわ。部屋を出ながら一つずつ鍵をあなたに渡していきましょう。」
 立ち上がり、急いで部屋を出る彼女からステンレスの鍵をわたされる。
 「いい、これがこの部屋の鍵ね。閉めてみて」
 渡された鍵で部屋のドアを閉める。
 「ちゃんと鍵がかかったかしら?」
 用心深そうにたずねられ、ドアを思い切り押して確認する。
 「大丈夫です。」
 「それならいいわ。今度はこれがエレベーターの鍵よ。」
 エレベーターに乗り込みながら二つ目の鍵を手渡される。
 「エレベーターにロビーから乗る時には、この鍵がないと扉が開かないし動かないの。
セキュリティがしっかりしていて女性が一人で住むにも安心でしょう。
 監視カメラもこの建物には沢山ついているのよ。」
 エレベーターが静かに止まり、鏡張りの扉が開き急ぎ足で無人のロビーを駆け抜ける。
 「これが玄関の内側のドアの鍵ね。外から入って来る時はこれをつかうのよ。」
 内側の硝子のドアを通り抜け。最後の硝子の扉も開いて通りに出た。
 「最後の玄関の鍵がこれになるの。玄関のオートロックボタンの暗証コードを言うから、
忘れないように手帳か何かにメモしてちょうだい。では、いいかしら?*********よ。」
 手帳をもってこなかったので、カバンの中から急いで取り出した小切手帳の裏に
暗証コードを走り書きする。
 「ちゃんと書けた?」
 「はい、書けました。」
 先程の部屋の鍵を確認した時と同じ用心深そうな表情で、
 「ならば、暗証コードを復習してみて。」
 とすぐに切り替えされる。
 「************です。」
 マダム・パナシェは確認を怠ることのない慎重な性格の持ち主であるらしい。
 「大丈夫そうね。来週の何時ここに引っ越してくるのか正確な日にちが決まったら、
すぐに私の自宅に夜の九時半以降に電話してちょうだい。
 あぁ、もういかなくてわ。さようなら、マドモヮゼル・・・・?何だったかしら、思い出せないわ。」
 マダム・パナシェは彼女の部屋の新しい入居契約者の名前に関心がないらしい。
 「マドモヮゼル・キクカワです。」
 「そう、確かそんな名前だったわね。全く日本人の名前を覚えるのは難しいこと。
さようなら、マドモヮゼル・キクカワ。来週お会いしましょう。」
 「さようなら。マダム・パナシェ。お気をつけて。」
 私がさよならの挨拶を交わすときには、もうマダムの背中は反対側へ向って
急ぎ足で5メートル先を進んでいき、段々と小さくなって行った。




ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで 戻る
 

 <OVNIオブニー 1979年よりパリで発行されているフリーペーパー>や
<ニュースダイジェスト フランス版>のパリの不動産賃貸情報のページを左手に持ち、
右手で流れ落ちる汗を拭いながら赤ボールペンを噛み、
サンミッシェル広場の電話ボックスの中で小さな溜息を付く。
 赤ボールペンでページに示されている賃貸条件を確認しながら、
これで17番目になる電話番号に望みをかけて、重いシルバーのダイヤルをゆっくりと押していく。
 受話器を通して聞こえてくるのは、機械音の無機質な呼び出しコールが
正確なリズムで鳴り続けているだけで、受話器を取り上げて答えてくれる
見知らぬ誰かの存在は感じられない。
 日が暮れてからもう二時間が経ち、目の前で行き交う自動車やバイクのライトに照らされ
空腹感を抱えながら、今掛けているこの17番目の電話が留守だったら今夜はこれで諦めて
13区の中華街に行ってベトナム料理を食べようと決心する。
 早朝から一日中メトロを乗り継ぎ、真夏の強い日差しにさらされて賃貸物件を次から次へと
休む事無く歩き回った身体は、日に焼けて肌に熱を持ち体力を消耗し疲れきっているのだが、
パリで部屋を探し始めて、もう一週間も経つというのに未だ部屋の契約が出来ていない苛立ちが募り
気持ちが急いてダイヤルを押し続けてしまう。
 だが、もう午後九時半を過ぎている。いい加減にこれでやめなくては相手の方に対して迷惑になと
判っているのになかなか受話器を置けないでいる。
<ドゥー・・・・・ドゥ・・・・・ドゥー・・・・・ドゥ・・・・・・・>
 と低く重い機械音が長い間をもって鳴り続ける。
 「Allo。アロー・・・・・・」
 突然に機械音が途切れ、電話先の向こうで女性の低い声がした。
 「こんばんは、夜分に申し訳ございません。マダム・パナフェのお宅でしょうか?」
 電話の向こうの見知らぬ女性は、何か考え込んでいるのか長い沈黙の後に短く
 「そうですよ。」
 と答えて黙っている。
 「私、マドモヮゼル・カズミ・キクカワと申します。
ただ今パリで部屋探しをしておりまして、ニュースダイジェストの不動産情報ページに載っている
賃貸物件の件でマダム・パナフェに取り次いで頂きたいのですが?」
 電話の向こうで黙って様子を伺っている雰囲気が受話器越しに伝わってくる。
 再び長い沈黙が流れた後、
 「私がマダム・パナシェよ。あなた日本人なの?」
 ニュースダイジェストに載っているマダム・パナフェの三行広告は適切で明確な日本語なので
借り手のターゲットは日本人であり、又日本人以外の人間が彼女に電話を掛けるとも考えられないの
だが、用心深い雰囲気を漂わせ確認を入れてくる。
 この三行広告に適切な日本語で載せているので、もしかしたら彼女はパリにある
<INALCO イナルコ・国立東洋言語文化学院>で日本語を習った経験のある親日家なのだろうか
と期待しながら彼女の質問に素早く答える。
 「はい、マダム。日本人です。」
 「パリで部屋を探すって、あなたパリに住んで何をするつもりなの?」
 早口のフランス語で質問が返ってくる。
 ひそかに彼女が日本語を学んでいて、日本語での返答を期待していたのだが
そう都合良くはいかないものだ。
 一日中歩き回り疲れた肉体と思考回路、その上空腹の今の状態で
電話を通して、相手の見えないフランス語会話は鈍重な思考では苦痛を伴う。
 「フランスの<レストラション・レストラン業>に関する事を、ホテルリッツ料理学校で学びます。
その為にパリで部屋探しをしているのです。」
 「そうなの。でも<ホテル・リッツ>って、あの1区のバンドーム広場にあるホテルのことよね?」
 疑い深く確認する女性の声はかなり落ち着いていて低く、年齢のいった熟年女性の声だ。
 「はい、そうです。マダム。」
 「そうなの。<ホテル・リッツ>に料理学校があるなんて今始めて聞いたわ。
じゃあ、フランスに着いたのはいつなの?」
 肝心の彼女が持っているという物件には、この調子ではいつまで経っても話が行き着きそうにない。
 「一年半前です。」
 「まぁ、それじゃあ、そんなにも長くどこで何をしていたのよ?
それにあなた、今どこから私の家に電話をしてきているのよ?」
 単刀直入な不躾な質問と電話越しに感じる雰囲気に、少し苛立つ
 「ディジョン市のブルゴーニュ大学で、ホームステイをしながら勉強していました。
今、5区のサンミッシェル広場にある公衆電話ボックスから電話しています。」
 目の前をはしるバイクや自動車の騒音が、電話先にも聞こえているはずだ。
 再びしばらくの間があり、
 「あなた本当に、その<ホテル・リッツ>の、なんて言ったかしら?その学校に通うのよね?」
 あまりの用心深さといつまで経っても肝心な本題に入ろうとしないので、
真夏の電話ボックス内の密封された熱気でもうろうとした感覚に包まれ、
いい加減にもう電話を切りたい投げやりな感情がもたげて来る。
 「そうです。マダム。」
 「わかったわ。あなた私の部屋を見たいのよね?
明日の朝、仕事に出かける前なら会って見せてあげられるわ。それでも、いいならいいわよ。」
 一方的な言いなりな言い方に、腹も立つがここまで粘ったのだから一応見ておこう。
 「それで結構です。」
 「じゃあ、今から住所を言うから書き取ってくれる?明日の午前十時半に現地で会いましょう。
 仕事があるので、もし遅れてもあなたを待っている時間はないの。
だから、時間に遅れて来ないでね。
 いい?住所を言うわよ。14区のLaymond Losserand通り100番地よ。
 メトロ13番線の<Plaisance駅>から100メートル、歩いて1・2分の場所だから直ぐに分かるわ。
 ちゃんと書き留められたかしら?」
 ニュースダイジェストの余白に赤ボールペンで早口のフランス語で伝えられた住所を
必死で書きなぐる。
 「はい、14区のLaymond Losserand通り100番地ですね。大丈夫です。」
 「じゃあ、明日午前十時半に会いましょう。あぁ、・・・お名前は何だったかしら?」
 やっと終わりを向えそうな受話器に早口で名乗る。
 「マドモヮゼル・カズミ・キクカワです。」
 「そうだったわね。マドモヮゼル・キクカワ、明日お会いしましょう。さようなら。」
 「さようなら。マダム・パナフェ、お休みなさい。」
受話器を置くと、蒸し暑い熱気に包まれた電話ボックスの大きく重いガラスのドアを大きく開いて、
堪らずに外に飛び出した。
 サンミッシェル広場は夜の10時を過ぎているといるのにいつもの夜と同じくはしゃいだ若者の声で
溢れ、活気づく街にすれ違う人々の異なる言葉、外国語が楽しそうに飛び交っている。
 目の前の赤いテントの下でくつろぐ人々であふれるカフェは、ビールやパナシェ、
冷えた白ワインを片手に語り合う、肌の色の異なる学生同士のグループや若い恋人達、
それに昔若かった恋人達で埋めつくされている。
 <疲れた。今夜はこのままホテルに戻ろう。>
 石畳のを歩き続けて靴擦れをおこし、踵の上の皮膚が擦れて出血し始めた右足を見てみると
出血して乾燥した血液が足元にこびり付いている。
 右足を軽く引きずるようにして、サンミッシェル広場から<St-Andre des Arts通り>を
ホテルに向って、足の痛みを感じながら情けない気持ちと共にゆっくりと歩き出す。
 行き交う人々は友人や恋人と楽しそうに腕を組んで通り過ぎて行くというのに、
一人で待つ人のいないホテルの部屋に戻るのは憂鬱だ。
 特に、自分と同い年の青年達で賑わう、こんな楽しい陽気な雰囲気に包まれた
カルチェラタンにいるのに、誰一人の知り合いもなく、言葉を交わす相手さえいない孤独感が、
一人でいる寂しさよりも痛切に込み上げてくる。
 通り沿いのアラブ料理レストランの店頭で、高さ1メートル横幅50センチメートル程の巨大な肉の塊を
回転させながらアラブ人の男性が焼いている。
 回転しながらローストされる巨大な肉塊が、長く細いナイフで削がれ肉汁がしたたり、
香ばしいロースト肉の薫りが鼻先をかすめ、
今夜はここで<KEBAP  ケバップ・トルコのロースト肉を挟んだサンドイッチ>を買って
ホテルの部屋で夕食にしようと、レストランの店頭に立ち止まる。
 「こんばんは、ムッシュー。ケバップ下さい。」
 浅黒い肌に彫りの深いアラブ系の顔立ちに、白目と大きな黒目が動いて、
身長の高い男性が見下ろすように尋ねてくる。
 「こんばんは、マドモヮゼル。ケバップの生地は<パンリベネ・ピザ生地を薄く焼いた物>と
フランスパンのどちらにするかい?それと中に挟む野菜やソースの種類をここから選んでくれないか。」
 アラブ系の男性はカウンターに並べられているプラスチック製の容器に下準備された数種類の野菜や
ソースに視線を落した。
 「どれも美味しそうで迷うなぁ・・・。
生地は<バンリベネ>で、レタスとトマト、玉ねぎのスライスを挟んで下さい。
ソースは粒マスタードにチリソースをたっぷりとお願いします。それと冷えた<ハイネケン>も下さい。」
 「OK。」
と言いながら、素早く慣れた手付きで肉の塊を薄く削いでいく。
 「お嬢ちゃんは、フランス語が上手にしゃべれるねぇ。日本からバカンスを過ごしに来たのかな。
ここら辺にいるのだとソルボンヌ大学か、アリアンス・フランセーズのフランス語夏期講習でも
受けに来たのかい?」
 「よく日本人だって判りますね。」
 肉の塊を削ぎながら、得意そうな表情で男性は答える。
 「ここでこうやって肉を削ぎながら、毎日朝から晩まで世界各国からやって来る、
観光客を相手にしているば、それぐらい簡単に判るようになるさ。
日本人も中国人も韓国人も皆、どこかしら骨格や微妙に表情や雰囲気が異なるのさ。
 ほら、肉をおまけしておいたよ。一杯食べてがんばって勉強するといい。」
 「ありがとう、ムッシュー。さようなら。」
 薄紙に包まれた、ずっしりと重いケバップと冷たい缶ビール<ハイネケン>を手渡してもらい、
小銭で支払いを済ませる。
 右手に持った缶ビールを引き開けて乾いた咽を冷たいビールで潤しながら、
再びゆっくりと歩き出し、思わずつぶやく。
 「パリにいながらにして、こんな風に一日の最後に飲むビールが楽しみなんて
日本にいる時とかわらないな。」
 毎日の日常になってしまえば、どこにいても変わらないのかもしれないと想いながら、
遠く日本へと続く、星の見えないパリの夜空を見上げた。
 
 

パリで一人部屋探し

8eme

ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで