パリ8区 コンコルド広場で戦闘開始


 パリの中心部に位置する84000平方メートルのコンコルド広場は観光客の姿はなく、
広場というよりも夕刻に家路を急ぐ交通渋滞の自動車やバイクで溢れてロータリーのようだ。
 キムさんの手を引きながら、急ぎ足で広場中央のオベリスクまで来ると
目の前にはライトアップされた美しい宮殿の建造物<ホテル・クリヨン>がそびえたつ。
 この<Place de la Concorde コンコルド広場>は、ルイ15世の騎馬隊用地として
18世紀後半、1755年から1775年までの20年間をかけて造成され<ルイ15世広場>と呼ばれ、
広場中央にはルイ15世の騎馬像が建てられた。
 フランス革命時には彼の騎馬像は溶かされてしまい。中央には自由の像が置かれて、
名称も<大革命広場>に変わり、この八角形の広場の各隅には、往時の8大地方都市を象徴した
8つの彫刻が建っているが、ブレストの像がある辺りに1793年から1795年にはギロチンが設置され、
このギロチンによってルイ16世や王妃マリー・アントワネット、
フランス革命の立役者ダントンやロベスピエールを含む1343名がこの広場に集まった
大勢の国民の歓喜の中で処刑されている。革命後に現在の<コンコルド(調和)広場>と
呼ばれるようになる。中央で高くそびえるオベリスクは1836年にエジプト総督ムハマンド・アリより
国王ルイ・フィリップに贈られている。
 ホテル・クリヨンの目前にある、ライトアップされ水しぶきが透明に煌いて飛び散り、
その中央には、金箔の施されたブロンズの彫刻が置かれた大きな円形の噴水まで来ると立ち止まる。
 「キムさん、化粧を直して用意しないと約束の時間に遅れるよ。」
 鼻を啜り上げている彼女の顔は、涙と鼻水で化粧崩れしてとても人前に出て行ける状態ではない。
 「別にそんなにソウルに戻って仕事を引き継ぐ重圧が嫌なのなら、
ここでどこかに逃げてしまう選択もあるのだから、トンズラするなら今がチャンスだよ。
私もこの事は誰にも内緒にしておくから。
 だって、キムさんもう40分以上も根性入れてずっとグズグズと泣いているんだもの、
やりたくないなら早期に熱意のある人へ席を譲るのも経営者としてあるべき姿だと思うよ。
嫌なら気持ちの上で既に勝負に負けているのだから、さっさと仕事に携わる事から手を引いて
熱意と情熱、根性のある人に企業を任せた方が、キムさんがやるよりももっとスピードを持って成長し
成功すると思うけどね。キムさんは家でテレビでも見ながら株の配当でも貰えばいいじゃない。
そのほうがずっと楽だよ。」
 真面目で責任感の強い彼女が、責任と仕事を投げ出してトンズラするとも考えられないが、
いつまでもグズグズした態度で泣いているのでは、仕事をする上で既に気迫負けしている。
友人を商売という戦で勝負し、見事な戦いをしてもらう為にも甘やかしは禁物だ。
 「カズミは意地悪になった。そんなに意地悪で皮肉な事言わないでよ。
私はそんなにぐうたらでも、腰抜けでもないわよ。
 だだちょっとだけ、グズグズと最後の悪あがきをしただけじゃない。
 今朝だって、早くからクリヨンに行って今夜の空港までのリムジンの予約確認をして、
接待する相手企業の宿泊費等を値切れるところはちゃんと値切って支払いを済ませ、
彼らの今日のパリ観光のガイドと事前打ち合わせし
もし今夜の約束の時間に私が遅れる事があったら、レセプションのエグゼクティブ・マネージャーから
相手先に隣の<バー・クリヨン>に席を移して待っていてもらうように伝えてもらい、
アペリティフのシャンパーニュをサービスしてもらう手筈だって事前に済ませているのよ。
 カズミが思っているほど、のろ間でも腰抜けでもないんだから。」
 白いバックから木綿の黄色いハンカチをを取り出し両目の涙を拭うと、
両手でハンカチを挟みヨーロッパ人の日常的な仕草と同じく、大きな音をたてて鼻をかんだ。
 「キムさん、男性は女性の涙に弱く、優しいと言っても、女性の鼻水には敏感で厳しいものよ。
どんなにキムさんが美人でも鼻水を垂らしていたら、誰も近づいてこないわよ。
 それにハンカチで鼻をかむ仕草はもう禁止よ。
アジアの国では、鼻をかむ時は人前から隠れてティッシュペーパーで音をたてずにかむのが
礼儀ではなかったかしら。アジア文化の美徳は謙虚さと慎み深さ、落ち着いた理性よ、
人前で音をたててハンカチで鼻なんかかんだら、仲間内で有名になってしまうかもしれないわ。
 ヨーロッパにかぶれたスタイルは、なかなか人に受け入れられないものだもの。」
 「そうだった。すっかり忘れていた。」
 夕刻のコンコルド広場に渋滞中の自動車のエンジン音やクラクション、タイヤの軋む音が響く。
 目の前の車道をヘルメットを着けていないスクーターに乗った三人の少年が、
赤信号を無視して<リボリ通り>から<シャンゼリゼ大通り>へと駆け抜けて行く。
 「さぁ、お化粧を直して行かないと約束の時間に間に合わないよ。」
 「でも、ここで化粧を直せと言われても噴水をライトアップしている光だけでは無理よ。
ホテルの玄関から入って直ぐ右手地下にトイレがあるからそこで直すわ。
それと、・・・・・・・これをあげる。」
 両腕を首の後ろに回し、彼女の白いワンピースの襟元で隠れていた
大き目の金のペンダントトップの付いたネックレスを私の首の後ろに回して着けてくれる。
 「ちょっと待って、・・・・・もしかして・・・・・・・これって、・・・。」
 まだ、彼女の肌のぬくもりの残るペンダントトップをみて驚き、
とたんに首に重力が掛かったように重くなった。
 一目で印象に残るあまりにも有名なトラの形をしたそのデザインには、
黄緑色を帯びた純金で出来たトラに黒漆で縞模様が施され、両目にはエメラルドと
首輪には7個のブリリアントカットのダイヤモンドが埋め込まれ、
両前足で大きな天然真珠を抱きしめている、超豪華で高価なものだった。
 「これ<カルティエ>だよね。この重さもしかして本物?」
 「そうよ、本物よ。給料を貯めて3年前にバンドーム広場の<カルティエ>に行って
初めて自分で買ったの。」
 泣いて化粧の剥げた鼻の頭を紅くして、飄々とした様子で答える。
 「無理だよ。こんな高価な物は貰えないよ。
だって、自動車一台首にぶらさげているくらい高価な物でしょう?」
 「そうよ、それとっても高いの。別にいいのよ、カズミが貰って悪いと思うなら、
そのうち<カルティエ>の私が欲しかった、純金をトラの形に模りダイヤモンドで覆われたタイプの物を
ソウルに持って来てくれればいいの。」
 予想も付かないとてつもない事を突然言い出したので、驚いて大笑いしてしまった。
 「それはとてつもない事だ。純金のトラの代金を稼いだ上で、
バンドーム広場の重厚で閉鎖的な<カルティエ>のドアを開けさせるには、コネクションを作るか
事前に日本でそれ相当の品を買って実績を作り、バンドーム広場の店のドアを開けてもらうしかないわね。
 うーん、・・・・・人生が終わるまでに現実可能かどうかな・・・・・銀行強盗をするか、それとも
宝くじに当たれば可能かも。」
 「別にいいのよ。返してくれても、くれなくても、どっちでもいいのよ。
ただ私はカズミの将来性の株を大口で買っただけだから、大きくなって戻ってこなかったら
株が大暴落して、自分の見る眼がなかったと諦めるだけのことだわ。
 自分自身の人生に早々と見切りをつけて諦めるのも簡単だわ。」
 キムさんは、喜んで大笑いしている。
 「キムさんは意地悪になった。そんなに意地悪で皮肉な事言わないでよ。
私はそんなに腰が引けてたり、怖気づいている訳ではないわ。
 だだちょっとだけ、他力本願な事を言っただけじゃない。
 おばあさんになる前に、ソウルに純金のトラを持っていくわよ。
お土産に沢山の<サッポロ一番味噌ラーメン>のダンボールも抱えてね。」
 「その頃までには、私もソウルの一等地に大きな本社ビルを構えて孫と一緒に待っているわ。
あぁ、もう行かなくては、待ち合わせに遅れてしまう。」
 「そうね。もう行かないといけないね。」
 二人で軽く抱き合い、両頬を合わせてフランス式の別れの挨拶を交わす。
 「キムさんが、最後にとてつもない大きな野望をプレゼントしてくれたから、
モタモタしてはいられなくなってしまったわ。
早くソウルに行けるように甲斐性のある大人にならなくてはね。」
 「そうよ、野望という山は大きければ大きいほど良いのよ。
前と上を見て真っ直ぐに進むのが精一杯で、後ろを振り返って立ち止まる余裕なんて出来ないもの。
振る帰る余裕が出来るのは、頂に昇り切って一息付く事が出来た時なのだから。」
 「まったく同感だわ。じゃあ、ここから戦闘開始ね。」
 広場中央のライトアップで照らされたオベリスクを見上げ、キムさんもそれを見上げる。
 「戦闘終了後、撤収の合図があるまでは気を抜いてはダメよ。集合地はソウルで。
それまで、じゃあね。バイバイ!」
 ひらりと軽やかに身体をひるがえして、左手斜め前にそびえたつ豪奢で荘厳な<ホテル・クリヨン>に
向かって足早に真っ直ぐに歩き、車道の青信号を小走りして小さく狭い閉鎖的な正面玄関の
金の回転扉まで辿り着くと、扉の左手前で控えている濃紺のスーツに身を包んだ
背が高く屈強なセキュリティーの男性に導かれてホテルの中へと消えて行った。
 彼女は一度も振り返らなかった。
 突然に別れの悲しみが込み上げてきて涙が零れ落ちるが、すぐに掌でぬぐって泣くのをこらえ
痩せ我慢をすることにする。なぜならば、大人は痩せ我慢の味を知っている人の事だと思うから。
 彼女のぬくもりの残るペンダントを強盗に盗まれないように、しっかりとシャツの襟元のボタンを閉め、
歩く人のいない夜のコンコルド広場を足早にセーヌ河に向かって一人歩き始めた。



ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで 戻る

「驚いた。チェリンとは、彼女が赤ちゃんの頃から付き合いだが、そんな彼女を私は知らないよ。
出会いの不思議って本当にあるんだね。久しぶりに楽しいひと時だ。
 あぁ、・・・どうも料理が出来たらしい、チェリン、君の恩人に本場韓国の味を食べてもらおう。
熱々の料理をテーブルまで運ぶのを手伝ってくれないか?」
 鍋とコンロが触れる音や包丁使いのリズムが響く活気ある奥の厨房から、
ハングル語の女性の声が聞こえると、ソンさんは立ち上がってキムさんに手伝いを促し
二人はビールで顔をほんのりと紅く染めて楽しそうに厨房へ出来上がった料理を取りに行った。
 満員に込み合った店内で、6人掛けのテーブルに一人座ってチャンジャをつまみながら、
キムさんと過ごした去年の夏を思い出す。
 二人で<サッポロ一番味噌ラーメン>を夜中に啜った日から、
気が付くとキムさんは毎回食事時になると、嬉しそうな笑顔で私の部屋に現れた。
 私の部屋のあった大学寮の最上階は、医学部・法学部に在籍するフランス海外県・海外領土
大西洋カリブ海アンティル諸島の中心に位置するマルティニィーク島やインド洋のレユニオン島、
カナダ沖に位置するサン・ピェール・エ・ミクロン等の出身者が多く、
夏のバカンスの間も実家に帰宅せずに、一日中部屋に閉じこもって論文を書いていたり
国家試験に向けて勉強に励む学部生や大学院生しかいなかった。
 皆、大学に出かける意外は一日中パジャマか寝巻き兼用のスゥエットで過ごし、
たまにキッチンで居合わせても挨拶を交わすぐらいで、寮に友達のいなかった私にとって
この風変わりな美人の訪問が段々と楽しみになっていった。
 驚くような美人は、私よりも3歳年上の27歳だと言うのに、驚くほど何も出来なくて
話を聞けば九月からイギリスで自活し博士号取得に行くと言っている。
 包丁を持てば指を切るし、フライパンで炒めれば火傷をするしで、料理がまったく出来ない。
<これではまたイギリスで栄養失調になってしまう。>と心配した私は
この風変わりな美人が渡英するまでに、料理を教え込む決心をした。
 でも、日本の家庭料理しか知らないので<親子丼><味噌汁><玉子焼き><お好み焼き>
<野菜入りインスタントラーメン><ハンバーグ><ハウスバーモンドカレー>などを
毎日教え込み、夏の間に何とか料理が作れるまでに上達していった。
 彼女はいつも私の部屋に入り浸っていて、TVを見たり、ワインを飲んだり昼寝をしたり
二人でいる居心地の良さを楽しみ特別な事は何もしなかった。
 そして、特に語り合うこともなくひと夏の間、私以外の誰とも付き合いがないままに過ごし、
秋が来てイギリスに旅立っていった。
 彼女が旅立った次の日、大学のカフェテリアで一人でピザを食べていると
今まで話すこともなかった韓国から留学している青年が、コーヒーを片手に私の隣に座り
私の知らなかった彼女の素性を突然熱心に話し出したのだった。
 彼女は韓国人なら誰でも知っている有名企業の社長令嬢で、
1886年アメリカ人女性伝道師B・スクラントンによって創設された百年以上の歴史を誇る
韓国一の名門女子大学<梨花女子大学>の大学院を主席で卒業し、
 その光り輝くような知性と美しい容貌で有名な美人コンテストでグランプリに輝いた経歴を持ち、
たびたび韓国の雑誌に取り上げられているというのだ。
 <だからどうだというのだ?そんな事が私に関係あるとでもいうのか?>
隣に座った青年を無視して、あまり美味しいとはいえないケッチャップ味のピザに食らいつく。
 クーラー設備のない暑くて込み合ったカフェテリアで、突然名前も名乗らず挨拶もなく
カフェテーブルの隣の椅子に座り込みハングル語訛りのフランス語で一方的に
話続ける男性の話よりも、今食べている味のバランスの悪いピザの
フォッカチャのような生地の厚さと、その生地の厚さに対するオーブン温度と
焼成時間の関係の方が興味がある。
 「ねぇ!君、僕の話聞いているの!」
 突然やって来て、自己紹介もなく一方的に話し出し
最後には<話を聞いてるの!>とは、我がままで自己中心的なお坊ちゃまだ。
 自分の要求が絶対通ると信じている、自惚れの強く
対人コミュニケーションの心理と訓練に通じていない、甘やかされて育った大人は
大嫌いなのだ。
 指に付いたピザのソースを紙ナプキンで拭いながら、ゆっくりと横を向いて青年を
見てみると、上品な微かな匂いのする整髪剤で手入れの行き届いた短髪に、
クリーニングのきちんと掛かった淡いピンクの木綿のバーバリーのシャツに
使い込んだロレックスをして、お金の匂いを醸しだしている。
 上品で爽やかな風貌だが、この甘やかされた性格と的確な躾のなされていない
傲慢な態度が気に入らない。
 「僕達は、いつも話していったんだ。どうしてチェリンさんは日本人の君といて
僕達韓国人グループには、近づこうともしないのかって。
 君とチェリンさんとは、一体どうゆう関係なの?」
 <一体どうゆう関係とは、失礼な。>
 無礼な態度の青年を無視して再びピザに食らいついていると、
段々と台湾人や日本人、シンガポール人や韓国人らの東洋系の男子学生が集まって来て、
小さなカフェテーブルを取り囲んでしまった。 
 「君がいつもチェリンさんを独り占めしていたから、僕達が少しも彼女と話すことが
出来なかったんだぞ。なぁ、みんなそうだよな?」
 黒髪を長髪にした青年が日本語で苦情を言い、
なぜか最後の<なぁ、みんなそうだよな?>だけ大きな声を出し、
フランス語で周りに同意を求めると、日本語の意味も解っていないようなのに
皆大きく身を乗り出して<そうだ、まったくだ!>と口々に同意している。
 どうして儒教の文化の流れを受け継ぐアジアの国々は、
<皆、皆>と集団意識を前面に押し出すのか?
 そんな事だから同意を取り付け根回しをしている間に、ターゲットを取り逃がすのだ。
 その上、どうも男性は同性同士で集団化するとお互いに気が緩むのか<グズ>になる。
その<グズ>が集団化するから性質が悪い。
 ようするに、自分達ががキムさんに声も掛けられず、相手にされなかった
体たらくなグズぶりを集団で私に責任転嫁したいらしい。
 21世紀のアジア社会を背負って立つ、アジア各国の男性諸君が
お互いに牽制しあっている内に、憧れの美しいターゲットをかすめる事さえ
出来ずに取り逃がすとは、まず自分自身に対する自己弁護に向かっている
彼らの精神的弱さが嘆かわしい。
 そんな事に時間を取られているから、フットワークの軽い押しの強いアメリカ人や、
赤ちゃんの時から訓練され、女性とみたら挨拶代わりに口説きだす
百選練磨のラテン男に先を越されるのだ。だが、スタートダッシュが素早いからといって
彼らがグズではないとは、言い切れないのだが・・・・・。
 でも、そんな事ここで彼らに行ったら、百年先まで根に持たれて闇討ちされそうなので
黙っている事にする。

 「さぁ、熱くて美味しいところを沢山食べてもらおう。
<プルコギ>の鉄板が焼けているから火傷しないように気をつけて、
<ミヨック ワカメスープ>も熱々でおいしいよ。
<キムチポックム キムチと豚肉の炒め物>に<ユッケジャン>、
<蜂の巣のフェ>に<トッポッキ うるち米で出来たお餅を炒める料理>、
<真鯛の冷菜ナッツ風味>と<スッケ 牛肉のたたき>、キムチも沢山の種類があるよ。
 チェリン、熱い内にカズミのお皿に料理を盛ってあげてくれないか?]
 ビールを飲みながら、ほろ酔いかげんで懐かしく昨年の夏を思い出していると
ソンさんとキムさんが大きなお盆にのせて持って来てくれた美味しそうな料理の数々を
一つ一つ料理の説明を添えてテーブル一杯に並べていった。
 ソンさんは笑顔で、白い陶器で出来たぐい飲みを私に勧めた。
 「韓国の伝統酒、<マッコリ>を飲んだ事をあるかな?マドモヮゼル。」
 ソンさんに手渡されたぐい飲みを右手に持つと、
<農酒>と中央に大きく書かれた大きな徳利から、
爽やかで清々しい発酵の豊かな薫りと共に、乳白色の濁り酒を静かに注いでくれた。
 「初めてです。爽やかな発酵の薫りが豊かなお酒ですね。ありがとうございます。」
 「この<マッコリ>はね、韓国伝統の歴史の古いお酒で、
もち米とうるち米を蒸して乾燥させた後、麹と水を配合し発酵させたものなんだ。
アルコール度は7度程度で<甘さ・酸味・辛さ・苦さ・渋さ>がバランスよく調和されている。
韓国料理との相性ももちろん最高だ。<マッコリ>を飲みながら料理を頂くと
相乗効果でより美味しさが増していくよ。さぁ、二度目の乾杯だ!」
 テーブルに所狭しと置かれた沢山の料理を挟み、三人で二度目の乾杯をした。
 
 

韓国ソウル 梨花女子大学の才色兼備な彼女

コンコルド広場で韓国ソウルに旅立つ友との別れ

7eme



ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで

 ひんやりとした空気に満たされている空調の効いた韓国料理の店内から、
気持ち良さそうにほろ酔い加減で頬を赤らめながら、満面の笑顔のソンさんに優しく見送られ、
真夏の輝く夕陽に照らされ乾燥した熱気に包まれた広場中央に位置する、大きな噴水の縁に腰掛け
缶ビールやペットボトルのミネラルウォーターを片手に、友人達や恋人同士で夕涼みを楽しむ人々で賑わう
<コントレカルプ広場>を、心地よい感覚の酔いに身を任せ、キムさんと二人並んでゆっくりと歩き出す。
 「本場の韓国料理はどうだった?気に入って貰えたかしら。」
 「もちろんよ、ありがとうキムさん。どのお料理もとっても美味しくて感動したわ。」
 ソンさんからお土産に頂いた徳利型の青磁に詰められた<マッコリ 農酒>を大切に左手に持って
思い思いにゆっくりと散策を楽しむ人々で混み合う<デカルト通り>を、歩いて行く。
 腕時計を見ると、もう午後6時を回っている。
 「パリでの部屋探しは上手く行っているの?」
 「それが全くダメ。もう何件も不動産屋を訪ねてみたり、
部屋探しの為の賃貸情報誌を見ながら、幾つもの物件に連絡をしているのだけれど、
フランスで正規滞在のビザを持ち、生計を立てている保障人がいないとダメね
話も聞いてもらえない。全く相手にしてもらえないわ。
 祖母の知人がパリに住んでいて、日本を発つ前から部屋を借りる際の保証人をお願いしてあるのだけど、
出来るならご迷惑かけたくないので、保証人なしで借りられる物件を見つけ出したいのよ。」
 うまく事の運ばないパリでの部屋探しを思い大きく溜息をつきながら、隣を歩くキムさんの横顔を見つめる。
 「保証人なしで、労働ビザを持たない外国人が一般のフランス人と同じルートで不動産屋や
賃貸物件情報雑誌を片手に大家さんに連絡をとっても、借りられる可能性は極めて低いと思うの。
 だって相手の立場に立って考えて見れば、家賃をきちんと払ってくれる信頼性や
物件の破損などの問題、いつ予告なしに姿をくらましてしまうか保証もないでしょう?
 国際都市でのテロリスト潜伏問題だってあるのだから、身元保証のしっかりしない外国人には
貸したくはないもの。」
 「そうね。その通りだわ。」
 ゆっくりと<サン・ジャック通り>をセーヌ河に向かって歩いて行きながら、小さく頷く。
 「考え方を変えればいいのよ。
正規の方法で物件を探す事に拘らなければ、選択の幅が急に広がるものよ。
 アジア人に部屋を貸したい大家さんも結構多いのよ。
一般にアジア人は部屋の中で靴を脱いで生活するので、土足で歩かない分だけ部屋が汚れないからとか、
騒がずに静かに生活するスタイルの特徴があるし、その中でも日本人は有利なのよ
中国人の食文化は油を多く調理に使うので油が跳ねてキッチン周りが汚れるとか、
韓国人の食文化には、キムチが欠かせないので部屋にキムチの匂いが付くけど、
日本人の食文化は、あっさりしていて汚れたり匂いが付くような事がないから、
特に日本人を選びたがる大家さんもいるのよ。
 カズミは日本人なのだから、それを活かして部屋探しをすればいいのではないかしら。
日本人の持つ生活スタイルの長所を知っていて、日本人に自分の物件を貸している大家さんもいるわ。
日本人を希望する大家さん達は、パリで日本人達の多く集まるレストランやお店に無料で置いてある
フリーペーパーに賃貸の広告を出したり、<ジュンク堂書店>などの日本の書籍専門の本屋さんの掲示板に
小さな手書きの広告を貼り付けたりしているから、そこから探してみるのも一つの方法よ。
 もちろんインターネットで検索してみる事もできるわね。」
 「考え方を変えてアプローチの方法を変えてみれば、いい結果が出るかもね。
いい情報をありがとう、今後は日本人を対象とした物件にあたってみるわ。」
 ソンさんと楽しく酌み交わした<マッコリ>のアルコールが身体中の神経細胞を活発に流動して駆け巡り、
心地よい酔いが身体を無重力な感覚で包み込んで足取りも軽く、視界の先できらめきを増したパリの風景に、
紅く強い夕陽に照らされた琥珀色の水面が穏やかな小波に輝くセーヌ河が見えてきた。
 <サンジャック通り>をセーヌ河に面した河岸通りまで行き着くと、
<RER線サンミッシェル・ノートルダム駅 郊外まで行く高速地下鉄線>を左手に折れ、
セーヌ河に沿ってゆっくりと二人並んで歩いて行く。
 「パリ最後の今晩は、私のホテルの部屋に泊まっていくって約束だったでしょう?
シャルル・ドゴール空港からソウルに発つ便が夕方だってこの前の電話で言っていたから、
キムさんの旅立ちを祝う為のワインをちゃんと部屋で冷やして用意してあるの。
ブルゴーニュ地方の白ワイン<コルトン・シャルルマーニュ>とシャンパーニュ<ルイーズ・ポメリー>、
なかなか良い選択でしょう。おいしいチーズを沢山置いてあるチーズ屋もホテルの近くにあるから、
そこで何種類か選んで、隣の八百屋で新鮮な果物を買いましょう。
 ホテルは設備も古くて快適とは言い難いけど、窓一面に大きく広がるパリの景色は絶品なの、
シャンパーニュを飲みながら見るパリの夜景は最高だから、キムさんもきっと気に入るはずよ。
 夕食はカルチェラタンのビストロか、それともオペラ座辺りのお寿司屋かラーメン屋に行ってみる?
まだ時間はあるし、キムさんの行きたいところがあったら行きましょう。
 ソウルに帰る前にお土産は全部買い終わったの?」
 白い美しいビーズ刺繍の施されたバッグを大きく振りながらゆっくりと歩くキムさんは何も言わない。
 右側に流れるセーヌ河には、世界中から真夏のパリでバカンスを過ごすためにやって来た
はしゃいで楽しそうな歓声を上げている大勢の観光客を乗せた遊覧船
<バトー・ムーシュ>や<バトー・パリジャン>が交差し、
 セーヌ河岸通りに沿ってずらりと並んだ<Bouquiniste 古本屋>のこげ茶色にペンキで塗らて
雨風にさらされ風化した年季の入った鉄板製の簡易スタンドが立ち並び、
一つ一つビニール掛けされた古本や版画、パンフレットやポストカードを冷やかしながら
二人並んで無言でゆっくりと歩いていく。
 「<Pont des Arts 芸術橋>を通りたいの。
ソウルでみたピョン・ヒョク監督の映画<インタビュー>のイメージポスターで
主人公の二人が木製ベンチに座っていた橋を渡ってみたい。」
 パリの夕陽を見つめながら真っ直ぐに顔を上げて歩くキムさんの横顔を見ながら、大きく頷く。
<Pont Neuf ポン・ヌフ橋>を横切る青信号の交差点を急いで渡り、
右手前方のセーヌ河に掛かる、夕陽に照らされ黄金色に光り輝く<Pont des Arts 芸術橋>を目指す。
この右岸1区と左岸6区を結ぶ、パリで最初に鉄骨と木材で建造された歩行者専用のシンプルな橋は
1804年にルーブル宮殿とフランス学士院をつなぐ橋として造られ、
名前の由来は、ルーブル宮殿の別称・芸術宮殿からだとされている。
 河岸通りから石段を数段昇り、何百枚もの木材が横に並べられ右岸へと掛かる芸術橋へと
踏み込んで行くと、間隔をとって整然と置かれている木製の6対のベンチが置いてあり、
橋の中間辺りでパントマイムを演じている大道芸人やセーヌ河に寄り添うような軽やかで穏やかな
フルートの音色を奏でる黒髪の少年が立っている。
 橋を形作る乾いた木材に、靴音が鳴り響き橋の中間を渡った辺りのルーブル宮殿側から3番目の
木製のベンチの前でキムさんはゆっくりと立ち止まり、セーヌ河上流を見つめながらベンチに腰掛けた。
 「映画のヒロインが腰掛けたベンチはここだったのよ。
正面に鉄製の街灯があって、セーヌ河上流の右手にルーブル美術館が見える。
そうよ、ここからの景色だったのね。」
 感慨深い表情を浮かべてセーヌ河上流で大きく丸い光り輝くオレンジ色の夕陽を見つめるキムさんの隣に
<見たことのない韓国映画のヒロインはここからこんな風に夕陽を見つめたのだろうか?>
と想いながら、黙って腰掛ける。
 後方で黒髪の少年のフルートが、少年らしい力強さと軽快さで<パッヘルベルのカノン>を奏で始めた。
フルートの音色に、パントマイムを演じている大道芸人のラジカセから音が割れて流れるジャズ
<ジョンコルトレーンのバラード>が不思議に交じり合う。
 「今夜パリを発つの、パリからドイツに入り一週間の企業視察をしてからソウルに帰る。
今朝ソウルの兄から電話があって、取引先の企業が視察でパリにいるから合流してそのままドイツへ
行ってからソウルに帰ってくるようにと突然に連絡が入ったわ。
 相手先の方々はコンコルド広場のホテル・クリヨンに宿泊していて、
午後7時半にホテルのロビーで待ち合わせをしているので、彼らと合流してそれから直ぐにドイツに向かう。」
 左腕の腕時計に視線を落すと午後6時35分を指そうとしている。
 「もう現実の世界へと戻らなくてはならない扉が開いてしまった。
覚悟は出来ているけど、父の残した企業を速やかに再生させる為に持てる全ての手段を使って、
全力を尽くす毎日が始まったら、こんな風に穏やかに、ただぼんやりと何かを見つめる気持ちの余裕なんて
当然無くなるだろうな。
 リスクを負っても打てる全ての方法で結果を出していかなくては、全てを失ってしまう。
失うどころならまだいい、マイナスを背負って生きていかなくてはならなくなってしまうかもしれないのだから。」
 夕陽を全身にうけてベンチの右隣に座るキムさんの横顔には、バカンスを過ごした気負わない
くだけた雰囲気は既に消え去り、人生で逃げる事の出来ない仕事に取り込む覚悟を決めた、
精悍さと緊張感を感じさせる。
 彼女の現在の境遇と背負っている物の大きさを私は知らない。
そんな事は知る必要もないし、今まで興味も湧かなかったから。
でもこれからの彼女の人生の行く手に、乗り越える事さえ不可能な程の大きな打撃となる何かが
起こらない事を祈る。
 「あぁ、・・・怖いなぁ、ちゃんとこれから全てを乗り切って行ける力があるかなぁ。
これから、・・・・・・怖いなぁ・・・・。」
 セーヌ河上流で沈み行く夕陽を見つめ、小さく呟きながらキムさんは泣いていた。
それは映画のヒロインの様に美しく心を捉える様な、儚げで弱々しい観られる事を十分に計算し意識した
格好良い姿では決してなくて、男性が見たら興ざめするような小刻みに鼻を啜りながら、鼻水を垂らし
大きな両目から涙がこぼれて、これから立ち向かう見えない未来の恐怖を目前にし
無心に泣く事に専念している。
 彼女は本当に怖いからここで泣いているのだろう。
そして、今ここでなくては、これから泣けないから形振り構わずに泣いているのだ。
 大人が人前で泣くには、その事によりプラスの要因もマイナスの要因も引き起こす。
泣くべき時に、絶妙なタイミングで他者の感情と同情を惹き付けるように
客観的で冷静な、人の感情を揺すぶる演出的効果を計算した視点を持ち合わせていなければ、
自分の持つ現実社会に支障をきたす。それが出来なければ大人は利害関係が複雑に交わる社会の中で
泣くべきではないのだ。
 それに人前で泣くという行為は、人前で弱みをさらけ出す程にある意味その人の持つ
強さの証明と過去への決別を意味する行為だから、鬱積する感情を溜め込まない為にも
泣きたくなったら泣けばいいのだ。容量が一杯では新たな物は取り込めない
どんどん泣いて感情を放出し、新たな感情を取り込む為のスペースを空けて行くのだ。
 特に女性は泣くことによって利益を損なうような物がなければ、物陰に隠れて一人で泣いてはいけない。
せっかく<女性は泣く生き物だ。>と文化と歴史の中で定説されているのだから、
おおらかに、絶妙にタイミングを計って人前で泣くべきだ。女性は人前で泣いて、弱みを見せられる程の
度量の大きさとしぶとさが必要だ。しかし、どのタイミングでどのように泣くべきか微妙な頃合と人間の機微を
しっかりと掴んでおくことが絶対条件で、それに鼻水を垂らして、みっともなく延々と泣き崩れては興ざめだ。
 美しく可憐に涙が流せるように、日頃から練習を重ねる努力も必要になる。
 ただし、突然に絶望の淵に叩き落され、なりふりかまわず悲鳴を上げるように泣き叫ぶ事は
人間の本能で、これと<泣く>と言う行為は全く別物だと思っている。
 鼻水と涙が混ざり合い滴って頬を伝わり、キムさんの白いワンピースに零れ落ちているが、
そんなことは放って置いて、このままコンコルド広場へ向かうまでのタイムリミットの約束の時間まで、
思う存分泣きたいだけ泣かせて、心の整理を着かせようと決心した。
 芸術橋の上にパリの景色を堪能しながら行き交う人々は、泣きじゃくる女性に好奇の眼を向けたりはしない。
人が泣くのは当然なことだから、そんな彼女の姿もパリの風景の一部に自然に溶け込んで同化して行く。
このパリの持つ歴史に培われた懐の深さと温かさが人間を自然な姿に戻し、湧き出る感情のままに
気負いのない自然な涙が零れ落ちて、心をより軽くしてくれるのかもしれない。
 だから、世界中の人々がこの不思議な魔力を持つパリに集まり、心の何かを軽くした分、
不思議なエネルギーを持つ新たな何かで満たし、それぞれの現実が待つ母国へと戻って行くのだろうか。
 「マドモヮゼル。あなたのお友達は、そんなに彼女の心を締め付ける程に涙を流して、
大切な男性との別れでもあったのかい?」
 サッカーボール程の小さなチワワを大切に抱えた90歳過ぎに見える老人の男性が優しそうな微笑で
ベンチの隣に立っていた。
 「そうですね。ムッシュー、多分彼女の大切な何かとの別れがあるのでしょう。」
老人は首輪を着けていないチワワを足元に降ろし、老人の周りを嬉しそうに駆け回る仔犬を見ながら、
 「あぁ、別れはねぇ、泣けると時に泣けるだけ泣けばいいのさ、泣いた分だけ新しく漲るパワーが湧いてくる。
お嬢さん達はアジアから来たんだろう?運が良い、泣き終わって周りを見渡してごらん、
見るもの全てが美しく光り輝いている、歴史を掛けて人々が創り上げたこんなにも美しい街は
世界中の何処にもないよ。あなたたちはパリにいるんだ、人生を美しく創り上げていくパワーを授ける
パリにいるんだよ。」
 足元で駆け回る仔犬に<モベットおいで、そんなにはしゃいじゃダメだ。>と優しい声を掛けながら
仔犬を腕に抱きかかえる。
 「過ぎ去った男性や過去をいつまでも抱え込んでいてはダメだ。マドモヮゼル。
去っていったものは、現在と未来にに居場所がないから自然淘汰されただけなんだ。
過ぎ去ったものに捕らわれていたら次のチャンスを逃がしてしまう。
神様は準備のしていない者には微笑まないのだから、いつでも準備をして幸運を逃してはいけないよ。」
 フランス学士院の橋のたもとで、こちらに手を振りながら呼んでいる老婦人がいる。
 「あぁ、もう行かなくてはならない。私の王女さまが橋のたもとで手を振って呼んでいるからね。
最後にあなた達にこの言葉をプレゼントするよ。
フランスでは<Tourner la page ページをめくりなさい。>とよく言うんだ。
人生は一冊の書籍と一緒で、今日の歓びも悲しみも、出会いや別れさえも明日へと続く
物語の1ページに過ぎないのだから、足踏みをして過去に捕らわれる事無く
人生の新たなページをめくりなさいと言うことなんだ。」
 腕に抱きしめられている仔犬の濡れた大きな黒い瞳が夕陽に反射して煌いている。
 「わかりました。ありがとうございます。ムッシュー」
 老人は微笑みながら大きく頷き、腕に抱えた仔犬を足元に降ろして右手を差し出した。
 「お別れの挨拶をしよう。マドモヮゼル。素晴らしい人生をあなたが切り開けるように。」
 ベンチから急いで立ち上がり、差し出された大きな右手を握り返した。
 「さようなら。ムッシュー。」
 彼は微笑みながら右目でウインクをすると、ゆっくりと左岸に向かいはしゃいで駆け回る仔犬と一緒に
彼を待つ老婦人のもとへと歩いて行った。
 腕時計で時間を確認するともうすぐ午後の7時を指している。急がなければ約束の時間までに
コンコルド広場にあるホテル・クリヨンに辿り着けなくなってしまう。
 「キムさん、もう行くよ。約束の時間に遅れてしまう。」
 泣き止まないキムさんに右手を差し出し、彼女の手をとってコンコルド広場に向かって急いで歩き出した。

PONT DES ARTS 芸術橋

「皆さんお食事中ごめんなさい。ちょっとよろしいかしら?」
 五十代中頃の黒髪をシニョンにまとめ、ブルーのタイトなワンピースを着こなした
女性が頭を少し下げて挨拶をしながら、厨房から出て来た。
「どうした、何があったんだ?お前も厨房の方が落ち着いて手が離れたなら、
ここで一緒に飲まないか?。」
 ソンさんは、隣の空いている席を彼女に勧める。
「カズミ、こちらがソンさんの奥様のヘリョンさんよ。へリョンさん、こちらが私の友人のカズミです。」
 キムさんが箸を休め、立ち上がってヘリョンさんと私に紹介してくれた後、
へリョンさんは優しい微笑みを浮かべて、壁を背にして座っている私の席までゆっくりと歩み寄り
私も箸を置き、挨拶をする為に急いで立ち上がった。
「韓国料理はお口に合いますか?マドモヮゼル。チェリンからお話は良く伺っています。」
 そう言いながら、両腕を広げて私を軽く抱きしめ、両頬を合わせてフランス式の挨拶を交わす。
「素晴らしく美味しいお料理の数々ありがとうございます。マダム。」
「ありがとう。そう言って頂けると、厨房で腕を奮っている料理人の皆も大変歓ぶわ。
さぁ、お掛けになってお料理の続きをどうぞ。」
 右手をゆっくりと椅子に差し向けて着席を勧め、ソンさんの背中に触れながら、
「今、奥でね。お義母さんが足が悪くて歩けないから、チェリンがいるのになら連れて来いっていうのよ。
帰国する前にどうしても話したい事があるって聞かないの。
 お食事中悪いのだけれど、彼女をお借りしていいかしら?」
 へリョンさんは、キムさんに眼で同意を取り付ける合図を送る。
「もちろんよ、伺います。お食事中ごめんなさい、直ぐ戻りますね。」
 キムさんは、直ぐに立ち上がりへリョンさんの後に続いて厨房の奥へと歩いていった。
「今日の<マッコリ>の味は格別だ。さぁ、お替りはどうだい?」
「ありがとうございます。頂きます。」
 ソンさんは、私のぐい飲みになみなみと<マッコリ>を注ぎ、空になった自分のそれにも注ぐと
美味しそうに一気に飲干した。
「今日チェリンに会って本当に安心した。あれなら、もう大丈夫だ。
以前の彼女には持ち合わせていなかった、穏やかさや他者に対する優しさ、逞しささえ感じられる。
この一年が彼女にもたらした転機となったのだろう。
 もしかしたら、君との出会いが再起に向かう転機への足がかりになったのかもしれないね。」
 ソンさんの話し出した、話の流れが全く掴めぬままに彼の安心した表情の横顔を見詰めたまま
話の先を黙って待つ。
「彼女のお父さんが早くに一代で築き上げた企業が大成功し、
彼女は生まれた時から何もかも恵まれていた。両親から受け継いだ、美しい容姿はもちろん
知性・財力・社会的地位、最初から用意されていた素晴らしい環境の中で育ってきたんだ。
 幼い頃から選りすぐりの学友に囲まれて、その中でも常に主席の位置を保っていた。
 彼女はとってもいい娘だ。がんばりやだし、野心家で努力家だ。それは彼女の素晴らしい資質だと思う。
だけど、その恵まれ過ぎた環境ゆえに、他者への優しさや配慮、相手への想像力に欠け、
プライドが高く、他人に対して気を許すと言うことが出来なかった。
 良くも悪くもただのプライドの高い、お金持ちのお嬢様でしかなかった。
それでも、そのままでいけるならそれでも良かったのだ。・・・・・・だけれども。」
 ソンさんは、黙って空になった私のぐい飲みに<マッコリ>を注いでくれる。
「誰の人生も簡単には行かないものだね。神様は、すんなりと人生の階段を昇らせてはくれない。
彼女の場合は目的地に向かってノンストップで進む人生の高速エレベーターに
乗っていたようなもので、突然止まってしまったようなものだった。
 一昨年前の秋、突然彼女のお父さんが癌で亡くなってしまった。
 学生の頃からスポーツマンで丈夫で健康な人だったから、自分が病気になるなんて
思っても見なかったのだろう。気が付いた時には既に手遅れで癌が全身に転移し、
三ヶ月後には亡くなってしまった。」
 私の知っている、いつも穏やかで飄々とした中に、どこか浮世離れしているキムさんからは、
想像も付かない事を ソンさんは<マッコリ>を片手にしみじみと語っている。
 誰を見るともなしに、ぼんやりと正面を向いて語っていたソンさんがふいに横を向き、
私の眼を覗き込む。
 「この話は知っていたかい。」
 「いいえ。全く想像もしませんでした。」
 ソンさんは小さく頷き、
 「そうだろうね。こんな話は、彼女はしないだろう。それが彼女の良い所なのかもしれないな。
だから、私の話す事を聞いていて欲しいんだ。
 あぁ、悪いね食事が中断してしまった。食事をしながら私の独り言を聞いててくれればいいんだ。」
 取り皿に沢山の種類の料理を盛り付けてくれた。
 <マッコリ>の心地よい酔いが全身の血管をゆっくりと駆け巡り
何に視線を合わせる事無くぼんやりと正面を見つめ、ソンさんと肩を並べて酒を酌み交わす。
 「お父さんが亡くなって、チェリンを廻る状況は急変していった。
生前彼は自分が亡くなるなんて全く想像もしていなかったし、もしその日が来るとしても
それはずっと先の事で、チェリンの二歳年上の兄が企業内で十分な経験と実績を積んだ後に
全ての実権を譲るその日だと信じていたから、彼が生きている内に自分の不在を考えた場合の
企業編制を全くしていなかった。
 突然に創業社長の彼が鬼籍に入ってしまい、彼の企業の株価は暴落した。
 30歳にも満たない彼女の兄が大きな企業を率いるのには、
まだ経験と実績がなく不安材料が多すぎる。
 それに商売に対するセンスや勘は父親似のチェリンの方が兄よりも優れている。
 それは彼女が経済学修士を取った後に、
父の企業に入ってからの短期間の内で実績を上げるという快挙をなしているということからも
彼女の商売の才能は、兄よりも確実に将来性があると、周りの人間も認めている。
 だから、彼女の父が創った企業を業界内で以前の位置にまで再生させるには、
彼女が中核となって動いていかなければならなくなってしまった。
 しかし、その時彼女には中学時代から付き合っていて結婚式の日取りまで決まっていた
婚約者がおり、婚約者の父親は大臣経験まである有力な政治家でそれを引き継ぐ息子の妻は
息子をサポートすることを一身に引き受けるために仕事をしない事が条件だった。
 彼女は考え決断し、結婚を白紙に戻す事にした。
 そして、婚約者は結婚式の日取りそのままに、招待状の花嫁の名前だけを変更して
チェリンの小学校からの同級生と、結婚を白紙に戻した日から半年後に結婚したのさ。」
 ソンさんの空になったぐい飲みに酒を満たす。
 「状況が急変する時は、悪化する時であっても又、その反対に上昇気流に乗る時であっても
スパイラル状に一つ一つの要因が相乗効果を引き起こし、人の手には負えなくなってしまう事もある。
 逆境や失敗を恐れる事はない。人生の内に付き物だと思えば、必要以上に恐れをなして
人生の大切な時間を無駄遣いすることもない。大切なのは、必要以上に恐れをなして
心の闇に飲み込まれてしまうことだ。
 チェリンの場合もそうだ、人生の内で経験し得ない事が一変に振りかかってきてしまった。
心理的に対応しきれないことで混乱していた。
 時が解決してくれるというが、時間を掛けていられないということは彼女自身も良く解っている。
 混乱は凶事を招く。心が平静で冷静でなければ客観的な判断も、実りある成果など望めないと
いう事も彼女は良く解っていた。彼女の心の混乱から開放し、平静を取り戻すために
一年間という最大の猶予・タイムリミットを設けてこのヨーロッパにやって来たのだった。」
 満員だった店内もランチタイムが過ぎてお客の姿も疎らになった店内に
テーブルの上に残されたお皿やグラスを黒いタブリエを腰に巻いたサービスの青年が
手際よく手馴れた順序で片付けていき、一通りの客席が整然と清潔にテーブルセッティングがなされると
青年は落ち着いた低い声でソンさんにハングル語で何か指示を仰ぎ、
ソンさんがそれに短く答えると青年は小さく頷き、店の外に昼の営業が終了した事を示す
白い看板を出した。
 「私はね、こう思うのだよ。チェリンはね、もう大丈夫だ。
彼女は彼女の父が残した企業を以前よりも、もっと素晴らしく成長させる事ができる。
 一時の逆境と停滞があったとしても、
それはより大きく昇るために担わなければならない負荷が掛かっただけの事なんだとね。
 現実の雑多な日常を振り返る事無く、全力で走り出してしまえば、
いずれ何時の日か感情を伴はない青春の思い出として、笑って過ごせる日が来るのだから
心配する事など何もないのだ。
 ただ大切なのは、雑多な日常で山積される問題と現実を冷静に複合的に分析して、
押すべき所と距離を持つべき所の的確な判断と
素早く行動出来るのに必要不可欠な、みなぎるパワーとしなやかな精神力が必要だ。
 それを、彼女はこの一年間のバカンスで人生を整理し、パワーを充電したのだからもう大丈夫さ。」
 ソンさんは私の空になったぐい飲みに酒を注ぎ、私も彼の空いたぐい飲みにゆっくりと静かに酌を返す。
 「出来ればマドモヮゼル、あなたに望むことがある。
あなたもあなたの人生を充実したものにする為に全力で取り組んで行くと思うが、
彼女が現実の中でふと振り向いた時に、彼女の事を忘れないでほんの少し受け入れて欲しいんだ。
 彼女はあなたの人生を手間取らせるような事はしない。
 ただ一時気持ちを割いてくれれば、
彼女はより大きく加速を付けてもっとスムーズに成長できるはずだ。」
 ソンさんはぼんよりと前を見つめたまま、ゆっくりと<マッコリ>を味わっている。
 「ソンさん、買被り過ぎですよ。私はそんなに大した人物じゃない。」
 私も心地よく酔いながら、ぼんやりと前を見つめたまま答える。
 「いいんだよ。それでいいのさ。
そのままで、ありのままでぼんやりとした時間を共有出来るのが、友情だろう。」
 ソンさんと私は横並びに肩を並べて、ぼんやりと前を見つめたままゆっくりと酒を酌み交わした。
 

沈黙の転機