深夜のパリ夜明け前


部屋を占拠しているような広さのダブルベットに、
慣れない新しい皮靴で一日中石畳を歩き回り、痺れるような痛みと気だるい重力間を伴った両足
真夏の強い日差しに日焼けした肌と疲れたきった身体を投げ出して、
ブルーの大きなクッションと枕を背に壁にもたれながら、
目の前で大きく開け放たれた扉の向こう、眼下に広がる深夜三時半の黒く壮大な大海原のような
パリの街並みに、どこか儚げで幻想的な淡いオレンジ色の光を放つの街灯が
行く筋も真っ直ぐに放たれ放射線のように連なっている以外光の存在しないような暗い街並みを、
日の出までの一時の静けさ中でぼんやりと見つめる。
 時おり、遠くの方から石畳を走り抜けるバイクの音や、
酒に酔った学生達のはしゃいだような叫び声が聞こえてくるが、それ以外音の存在しない
静寂さが流れている。
 <四日目のパリの深夜、今夜は星が一つも見えないな。>
 微かに流れ込んでくる乾燥した心地よい夜風に吹かれて、小さなため息を付く。
 ベットサイドに置かれた小さな古びた木製のローテーブルには、残り少なくなった赤ワインのボトルと
<モノプリ フランス大手チェーンスーパーマーケット>で買った
ブルゴーニュ型の大きな厚手の安いワイングラスに腕時計
そして一日中持ち歩いて綻び縁の折れた三冊の部屋探しの為の不動産情報誌と赤ボールペン、
地下鉄の数枚の回数券と使いかけの2枚のテレホンカードが投げ出されている。
 左腕を伸ばして、ベットサイドのローテーブルから残り少なくなったワインボトルとグラスを手に持ち、
大きなワイングラスにゆっくりと注ぎながら、豊かに立ち昇る
<Cote-Rotie Cote Blonde コート・ロティ・コート・ブロンド>の芳香。
 逞しく骨格のしかっりした野性味の溢れる薫りの中に
黒胡椒やジロール・ナツメッグなどのスパイシーな薫りが、
果実味の凝縮感と樽熟成による樽香が複雑に相俟って、奥深い味わいと薫りを織り成している。
 <もうすぐ、陽がまた昇る。太陽が、再び輝きだす。>
 黒く深い穏やかな大海原のような、明け方を待とうとしている深夜のパリの夜景を見つめながら、
右手に持ったワイングラスを円を描くように小さく回し、グラスの縁で揺らめきながら
空気と触れ合いより豊かな薫りを増していく<コート・ロティ>の芳香と味を楽しむ。
 身体全体が気だるく疲れきって睡眠を欲しているのに、神経だけが高ぶって眠れない。
 グラスに入ったワインをゆったりとと味わいながら飲干し、
グラスを再びベットサイドのローテーブルへ戻す。
 <少し眠ろう。再び活力ある明日が来る前に。明日も意義ある大切な一日になるように。>
 ベットに深く身体を横たえ、心地よい微かな夜風を感じながら静かに目蓋を閉じた。



                        パリ5区 サンミッシェル


 湧き上がってくる街の喧騒、幾本もの通りが交差し行き交う大勢の人々の話し声や石畳を歩く靴音、
店に運び込まれる硝子のボトルが木箱の中で揺れてぶつかり合う音や
通りを行き交い走り去っていく自転車のベルの音が響きわたる。
 生き生きとした生命力溢れるパリの街の息吹が
両面開きの硝子の扉を大きく外に向かって開かれているバルコニーから、部屋一杯にこだましている。
 「暑い!。」
 真夏の真っ白な輝きの直射日光が、部屋を占拠しているような広いダブルベット全体に差込み、
突き刺すような強い日差しが全身に降り注がれて、肌を焼かれるような暑さと
眩むような太陽の強い光線に突然目が覚めた。
 ベットに身体を横たえたまま、左腕を大きく伸ばしベットサイドのローテーブルにのせてある腕時計を
手にとって見てみると、もう午前十時半を回っていた。
 驚いて、ベットから飛び起き、右手にあるシャワールームに急いで駆け込む。
パジャマ代わりの白いTシャツを脱ぎ捨て、白いタイルの壁に取り付けられた
大型のステンレスのシャワーの蛇口を右へ大きく捻ると、二メートル近く高い所に取り付けられている
直径20センチ程の大きなシャワーから勢い良く生ぬるい水が噴出され、
あまりの水圧の強さと肌を刺すような痛さで寝起きのぼやけた神経が一気に目が覚めた。
 シャワーの水温は出だし始めは緩やかな温度の生ぬるさだったが、徐々に温度が落ち始め
五分もシャワーを浴びたところで身体を引き締めるような冷たさの冷水に変化していった。
 寝ている間太陽の強い日差しに照らされ続け、火照った身体に強い水圧のシャワーから噴出される
冷水が心地よく、身体全体の火照りを鎮めるとシャワールームから出て、
ベットの脇に置いてある古びたクラシックな布張りの椅子の背に掛けておいた、
大きな白い木綿のバスタオルで全身の水気を拭い取り、
頭髪を勢い良くバスタオルで擦り合わせるようにして、
後はドライヤーがないので、自然乾燥にまかせる事にする。
 部屋にはクローゼットがなく、代わりに壁の高い位置にフックが5つ取り付けてあり、
細い鉄製のハンガーが吊る下がってあるので、そこに掛けた木綿のシャツと黒い皮のベルト、
濃紺のスラックスをハンガーから取り外して急いで身に着ける。
 昨日左岸の<File a File Paris>で買った、
今初めて袖を通す木綿の淡いローズ・ピンクの包みボタンのピンタックが施されたシャツの
肌に触れる滑らかな風合いに、丁寧に作られた上質の製法に感動させられる。さらりとした滑らかさの中に
折り目のきちんと付いた硬質な風格、どこかクラシックなヨーロピアンテイストの感じられる
このシャツを選んだのも、先日ホテルリッツを訪れたときにお会いした
<リッツ・エスコフィエ料理学校>のディレクター、マダム・マリィ・ソフィ・マルヴィーヌの
シックな英国風の装いで、濃紺色のテイラードジャケットの下に着ていらした
上質の風合いの淡いローズ・ピンクのシャツが印象的で素敵だったからだ。
このローズ・ピンクのシャツの他にも、上質でエレガントな雰囲気の
それぞれ襟や袖口のデザインなどの異なる物を淡い黄色やブルー、白やワインレッドと色違いで
買い揃えた。
 素足に通す光沢のあるシルエットの美しい細身の黒のスラックスは色違いで紺色の物と、
同じく昨日右岸の<ギャラリーラファイエット>で買ったものだ。
 ベットサイドのローテーブルに置いてある腕時計とピアス、一粒の大きな真珠のネックレスを身に着け、
急いで再びシャワールームに駆け込むと、右手の白いタイルに取り付けられた洗面台の上にある
楕円形の大きな鏡を見ながらブラシで髪型を簡単に整え、透明感のある紅い口紅とマスカラを丁寧に着け
外出の用意が完了した。
 真鍮製の大きな鍵を持ち、部屋から出てしっかりと鍵を掛けた事を確認すると
19世紀に建造された建物の、磨り減った木製の螺旋階段を6階下のフロントまで一気に駆け下りた。
 「おはようございます。ムッシュー。今日もいい天気ですね。」
 年代物の黒光りするカウンターの向こうで、
いつもと変わりなくステンレスのパイプ椅子に腰掛けゆっくりと<ゴロワーズ 煙草>をふかしながら、
<ル・モンド 新聞>を読んでいる初老の男性に挨拶をしながら真鍮の鍵を渡す。
 「あぁ。おはよう。古びた階段に靴音を高らかに鳴り響かせて一気に駆け下りると転げ落ちるぞ!
マドモヮゼル。今日も部屋探しかい?頑張ってくるんだな。」
 煙草をふかしたまま、新聞から視線だけをこちらに向ける。
 「はい、気をつけます。ムッシュー。また夕方戻るまで、さようなら。]
 薄暗いホテルのフロントロビーから駆け出し、眩い太陽の輝きと通りを行き交う人々の活気に満ちた
交差点<Carref de Buci>から、沢山の古本屋やポストカードやリトグラフを扱う画商が軒を連ねる
<St.Andre des Arts通り>をサンミッシェル広場に面した赤いテラスのカフェを目指して、
通りをゆっくりと楽しみながら散策している人々で活気付いている通りを、
前を歩く人々の間を縫う様にして、すり抜けながら全速力で駆け抜けて行く。
 左腕の<オメガ>をみると、もう待ち合わせの午前11時を回っている。
 約束のサンミッシェル広場に面したセーヌ川の辺にあるカフエに辿り着くまで、
全速力で走ってあと2・3分だ。
 三角形の形をした<サンミッシェル広場>は、いつものように人待ち顔の若者達や、
多くの様々な言語が楽しそうに飛び交う外国人観光客で、広くはないこの広場のスペースを占領している。
 広場の横を走り過ぎ、<サンミッシェル大通り>に架かる赤信号で立ち止まりながら、
通りを挟んで三メートル先の目の前にある待ち合わせのカフェの店先で
石畳の舗道にせりだし、小さなテーブルを挟みエスプレッソを片手にくつろぐ人々で混み合う
赤いテントの下を丁寧に見回してみたが、約束している友人の姿はなかった。
 信号機が赤から青に代わり、急いで石畳の歩道を走りぬけ、
セーヌ川に面した赤いテラスの一つだけ空いている、客が去ったばかりでまだ片付けの済んでいない
小さなカフェテーブルに腰をおろした。
ここなら<サンミッシェル広場>も<セーヌ河岸通り>も見渡せ、
遅れてくる友人を簡単に見つける事が出来る。
 後ろに大きく振り返ると、カフェの店内はひしめく客のおしゃべりで途切れる事無くざわめき、
フランス語が飛び交っている。混み合った広い店内のいくつも置かれたテーブルの狭い間を 
アイロンの折り目の着いた真っ白いシャツに、黒いベストと足元までの長いタブリエを腰にぴったりと
身に着けたサービスの男性が何人か、忙しそうに銀色のトレーに飲み物を乗せて歩き回っている。
その内の金髪の男性に狙いを定め、右手を大きく振り上げて人差指を大きくかざしながら、
その男性を振り向かせる為、全身の精神を集中し眼力を込めて見つめる。
 <物言わずして、眼力で相手を振り向かせる。>視線の国、フランスでは
意識を集中させた眼力の向上研鑽が必要不可欠であり、
子供であっても気合の入った視線の強さに驚く事がある。
 アイコンタクトで相手と無言に語り合い、
<見つめる>という行為は相手に対しての賞賛と賛美を意味する。
フランスという国は日本以上に物言わぬ<以心伝心>の文化が息づいている。
 おかげで使い慣れない目の周りの神経が疲れて痛むし、使う表情筋も日本に居た時のそれとは
大きく異なるので、自然と顔の今まで使わなかった表情筋が極度に発達され
日々表情まで徐々に自然と変化してくるのも、愛するフランス文化の洗礼を受けたということなのだろうか。
 視線に気がついて振り返った青年の視線があったその瞬間に、間髪入れず素早く
 「こんにちは。ムッシュー。お願いします。」
 と、眼力を込めたまま引き寄せるように、口元は笑っているのに冷静な視線のフレンチスタイルの笑顔で
お願いをするというフランス文化を世襲する。
 「こんにちわ。マドモヮゼル。お待ち合わせですか?」
 視線に引き寄せられるように、金髪に鳶色の瞳をしたサービスの青年が近づいてきた。
 「はい、遅れて友人が一人来ます。」
 カフェテーブルの左横に立った、身長175センチメートル程の男性を見上げる。
 「お飲み物はいかがされますか?こちらがメニューになります。」
 男性は無表情で事務的に平坦な調子で受け答えながら、
細長いプラスチックで覆われた一枚のメニュー表を手渡してくれるが、
一応それに視線を落しただけで直ぐに
 「ミネラルウォターの炭酸ガス入りでお願いします。ムッシュー。」
 真夏の強い日差しに照らされて顔の金色の産毛が輝いている男性を
真っ直ぐに冷静な視線で見つめる。
 「銘柄はいかがされますか?マドモヮゼル。」
 「ペリエでお願いします。」
 左手に持ったメニュー表を返しながらお願いをする。
 「わかりました。今おもちします。」
 テーブルの上に置かれたままになっていた微かな紅い口紅あとの残されたエスプレッソカップと
灰皿、破られたレシートを素早く片付け、男性はするりと軽やかに身を翻し、
沢山のお客で混み合っている店内の奥へと消えていった。
 腕時計を見返すともう午前11時10分を過ぎている。
 <時間厳守に正確なのに遅刻とは、めずらしい。>
 自分も時間に遅れて来たことをすっかり棚に上げて、河岸通りや広場の人波に友人の姿を見つけようと
見回していると、濃紺のジャケットを腕に真っ白なタイトなワンピースを身に着けた女性がこちらに向かって
駆けてくる。肩までの真っ直ぐな黒髪が風に揺れて、彼女が走りすぎると多くの男性たちが振り向いて
彼女の後姿を一心に見つめ、その行く先を確認しているかのようだ。
 信号を挟んだ、広場で立ち止まっている彼女にテーブルで座ったまま大きく右手を上げて挨拶すると、
それに気がついた彼女も手を振って応える。彼女の視線の先にいる私に、先程から彼女の行く手を
見つめていた男性陣の視線が一気に集まり、彼女の待ち合わせの相手が男性ではないことに安堵し
又、彼女と待ち合わせをしているという光栄に授かった私に、
羨望と嫉妬の複雑に入り混じった視線が飛んできた。
 「アンニョウハセヨ!」
 下手な発音のハングル語で挨拶をしながら、軽く息を切らせている彼女に椅子を勧める。
 「アンニョウハセヨ。」
 と、母国語の自然な美しい発音で微笑みながら彼女が微笑む。
 「キムさん、お久しぶりね。元気だった?」
 ハングル語は、<アンニョウハセヨ>しか知らないので、
ここからは二人の共通語であるフランス語で話す。
 しなやかな無駄な贅肉のついていない見事なプロポーションの彼女が、
籐を編んだ椅子に優雅な仕草で腰を下ろすと、店内にいる男性客の視線が彼女に集中する。
 「遅れてごめんなさい。友人の部屋を出る時に丁度ソウルの兄から電話がかかってきてしまって。
随分待ったでしょう?」
 「実は、私も今着いたばかりだから気にしないで。キムさん。」
 店内から急ぎ足で先程のサービスの青年が心からの満面の笑みを浮かべながら、
銀色のトレーにペリエと氷の沢山入ったコリンズ・グラスをのせてやって来た。
 「まぁ!なんてお美しいマダムだ。パリの陽射しは強いですからお気をつけください。
まるで東洋の高貴な真珠のように貴女の白く滑らかな素肌が焼けてしまいますよ。
パリには旅行でいらしたのですか?」
 彼女の横で同席している私のことは全く彼の眼中に入っていない。
私のオーダーを取った時の平坦で事務的な調子とは全く異なり、
嬉しそうに微笑みながら熱心に私に背を向けて彼女に意識を集中させて語っている。
 頼んだペリエが直射日光で温まり、コリンズ・グラスの中の氷が溶けようと彼には全く関係ないのだ。、
カフェの仕事などすっかり無視して、本能の赴くままに情熱的に彼女に話しつずける。
 「貴女のように美しい女性がこのパリにまた一人増えたという幸せ。
そしてこのカフェを訪れ僕の担当するテーブルにいらしたという素晴らしい運命のめぐりあわせ。
パリには初めていらしたのですか?マダム。」
 キムさんは、迷惑そうに彼を見る事無く
 「いいえ。」
 とそっけなく短く答え、隣に座っている私との話を続けようとするが、またもやそんな様子は御構い無しに
青年は意識の中で忘却の彼方へ置いてきてしまったペリエを銀色のトレーに掲げたまま
迷惑そうな様子の彼女に話し続ける。
 「パリが気に入っていらっしゃるんですね。もし、よかったら僕が貴女の知らないような
素晴らしいパリの街を案内いたしますよ。」
 熱心に夢中になって彼女を口説きだし、私に背を向けている青年の黒いタブリエを
思いっきり後ろから引っ張った。
 「危ないじゃないですか!マドモヮゼル!乱暴はいけませんよ。」
 無防備な姿勢で突然に引っ張られ、少し後ろによろけながら熱心な口説きの途中で邪魔が入り、
後ろに座っている私に勢い良く振り向くと、サービスの仕事を放り出している自分の態度は棚に上げ
眉間に皺を寄せている。
 「ムッシュー、私のペリエが湯だってしまう!真夏にホット・ペリエは飲めないわ!」
 これだから、ちょっと外見の良いだけの甘やかされて自惚れた自己中心的で
プロ意識の欠落しているただ若いだけが取り得の男はいやなのだ。
 プロ意識だけでなく自制心も欠落しているのか、銀色のトレーの上の長い間直射日光にさらされて
温くなったペリエの栓を抜き、氷がすっかり溶けて半分水に浮かんでいる水滴でぐっしょり
濡れたコリンズ・グラスを音をたてて放り出すようにテーブルの上に置き、レシートを投げ出し、
さっさと再び彼女の方を向いてしまった。
 「話の途中ですいませんでした。貴女は、何をお飲みになりますか?マダム。」
先程の般若のような怒り顔から、打って変わった笑顔で彼女に優しく尋ねている。
 たった1本のぺリエに税金もサービス料もたっぷりと払って、
お店で買う物の5・6倍以上払っているのに、こんな態度と接客サービスは許せない。
 ちょうど目の前に突き出されたような、
この男性のお尻をカバンの中の分厚い不動産情報誌で思いっきり引っ叩いて、
フランス政府観光局局長に、世界に誇る観光都市パリにおけるサービス従事者の現状と実態を
詳細にレポートにまとめて自筆のサインを添え、それを携え直接提出に伺いたい衝動を堪えた。
 キムさんは、冷静な態度でテーブルの上に投げ出されたレシートをゆっくりと手に取り
白い美しいビーズ刺繍の施されたバッグから、お金を取り出してテーブルに置いたレシートの上に
重ねて置いた。
 「ここでは何も欲しくないわ。カズミ、さぁ行きましょう。」
 そう言うと私の手に軽く触れ、優雅に立ち上がるとゆっくりと舗道をリュクサンブール公園の方に向かって
歩き出して行ってしまった。
 キムさんを追いかけようと、ふとテーブルのレシートの上に置かれたお金を見ると
明らかにペリエの料金の三倍以上多く置いてある。
 気分を害して彼女は先に歩いていってしまったのだから、こんなに沢山のチップを置いていったとは
考えられない。間違えたのだろう。
 目の前には、相変わらず彼女に突然去られて動く事無く呆然と立ったままの青年のお尻がある。
 後ろからお尻を突付いて、早く差額のお釣りを受け取ってキムさんを追い駆けなければならないのだが、
全く相手にされなかった精神的ショックで、大騒ぎされて八つ当たりされては適わない。年齢の割には成熟が
なされていない子供っぽい青年だから、その可能性は十分考えられる。
 テーブルを右手で強く何度も叩きながら、大きな声で
 「ムッシュー、早くお釣りを下さい!早く、お・つ・り!」
 と頼むと、振り返る事無くテーブルの上のキムさんが置いていったお金を手に取り、
黒いベストのポケットに素早くねじ込むと、お釣り分の金額を無造作に取り出してテーブルの上に
投げ出すようにして、料金支払済みの印でもあるレシートを破る事も
支払いを済ませたお客に対して<ありがとうございます。>と返事をすることもすっかり忘れて
カフェの奥に無言で足早に消え去ってしまった。
 テーブルの上に投げ出されたお釣りを寄せ集め確認すると、お釣りの金額がかなり多い、
仕事で一番大切なお金の管理もいい加減なんて困ったものだ。
 「お金の管理さえ出来ないなんて、プロ意識の欠落している男は全く嘆かわしい。」
と立ち上がりながらあきれて呟くと、直ぐ右隣のテーブルに腰掛けている品行の良い老夫婦が
微笑みながら声を掛けてきた。
 白髪の恰幅の良い60代後半に見える紳士は私の肩に軽く手を触れ、
 「あなたの意見には全く同感だ。マドモヮゼル。でも、ああゆうのがパリの男の全てじゃないよ。
それに、アントワーヌもいつもはしっかり仕事をこなしているのに、今日の態度は全く持って頂けない。」
 <あの青年はアントワーヌというのか。>と思いながら紳士の話に頷く。
 そこに、紳士の隣で縁の広い淡いパール・ピンクの優雅なストローハットを被った上品な夫人が
こちらに熱心な態度で身を乗り出し、
 「まったく、貴女の態度は偉かったわ。アントワーヌの態度は貴女にずっとお尻を向けたままで
それは失礼ってものじゃなかったもの。
私だったら、このテーブルの上にあるコカ・コーラのビンでお尻を思いっきり引っ叩いてやるところよ。
 女性が忍耐力があるのも良し悪しね。男性のお行儀が悪くなりますからね!」
 <まったくもって同感だ。>と夫人の意見に大きく頷く。
 「パリの男性が全てあのような態度を取るなんて、もちろん思ってもいませんよ。マダム・ムッシュー
ありがとうございました。さようなら、」
 「さようなら、マドモヮゼル。パリの楽しい想い出を。」
 老夫婦に右手を差し出し握手を求め、軽く握手を交わしながらさよならの挨拶をし、
キムさんを追い駆けようとカフェの前の舗道を急いで走り出した。


             
              パリ5区 コントルカプス広場で本場ソウルの味を学ぶ 



 「カズミ!ここよ。」
 とキムさんは日焼けをしていない白い手を振って、カフェの店先が途切れた場所で待っていてくれた。
 「さぁ、急いでいきましょう。私がソウルに帰国する前に美味しい本場の韓国料理を食べてもらいたくて
お昼の12時にお願いしてあるの。カルチェラタンのムフタール通り近くにあるお店で、
私の父が学生時代にヨーロッパに留学していた時からの
家族ぐるみで永い間親しくさせて頂いているお店なのよ。」
 二人並んで<パリの胃袋>とも言われている市場通りの<ムフタール通り>へと歩き出した。
 「長い間暑いのに待っててくれてありがとう。
直ぐに追い駆けようとしたら、キムさんが置いてってくれたお金がペリエの料金よりかなり多くて
お釣りを貰おうとしたら時間がかかってしまって。それにお釣りをかなり多くくれたのよ。
変わった男の人だったわよね。」
 多く頂いたお釣りを掌にのせて、彼女に見せる。
 「ああゆうのは、変わっていると言うよりも、周りの状況の読めない<間の悪い>男ね。
<感が悪い>とも言うわ。それに冷静さも欠けているし、困ったものよね。
 カズミもああゆうタイプの男には近づいてはだめよ。時間の無駄だわ。
 お金も別にチップを多く置いて来たなんて事では決してないのよ、
ただ帰国前に小銭を残さないように気をつけていたから、丁度いい持ち合わせがなくて置いてきただけ。
とにかく、相手の気持ちも考えないような人と関わりたくなかったから、さっさと出てきてしまったの。
 そのお金で後で一緒にアイスクリームでも食べましょう。」
 世界各国からバカンスで訪れる観光客やカルチェラタンで学ぶ学生達で賑わう通りを
身長175センチメートルのモデルのような、しなやかなスタイルのキムさんが歩くと、
すれ違う男性の多くが振り返るが、そんな多くの男性達の情熱的な視線も
彼女にとっては日常的な事なので、全く関心がない様子で先を歩く人々をかわしながら、
するりと早足で追い越していく。
 キムさんは足も長いので歩調も長く、急ぎ足だと彼女に合わせるのも大変だ。
 「お腹空いたでしょう。韓国料理は食べた事ある?」
 「日本で焼肉が大好きなので韓国式焼肉は良く食べたけど、それを韓国料理と言っていいのかしら?
キムチも冷麺も大好きで、興味はすごくある。」
 「本当は私が本場韓国の家庭料理を作ってご馳走出来ればいいのだけれど、
ご存知のとうり私は料理が出来ないし、今まで沢山の料理を作ってもらったお礼にどうしても
美味しい料理をご馳走したいの。お店の主人のソンさんにも大切な友人を連れて行くからと
お願いしてあるので期待していてね。」
 真夏の強い日差しに照らされながら急ぎ足で<Descartesデカルト通り>を下っていく
この<デカルト通り39番地>に若き日のアーネスト・へミングウェイが初めてパリに滞在した
アパルトマンがあり、歴史を遡って1895年にはフランスを代表する作家ヴィルレースが同じ建物の
下階に住んでいた。
 デカルト通りから続く、賑やかな<コントルカプス広場>に進むと広場中央には大きな噴水があり
周りにミネラルウォーターや缶ジュース片手に腰掛けて涼んでいる人々や、
広場を取り囲むように5.6軒のカフェやバーが白いプラスチック製のテーブルと椅子を店先に並べて
昼食やビール片手に楽しんでいる人々で賑わっている。この<コントルカプス広場>を抜けたところから
道幅4メートル程の細い<ムフタール通り>に続いて行く。
 「ここよ、ソンさんが待っているわ。さぁ、早く入りましょう。」
 広場から右手に入った通りにある韓国料理レストランの硝子の扉を押し開いて中に入り、
遅れをとらないように彼女に続いて店内に入ると、18畳程の細長い店内は大入り満員で
人々の活気で溢れ、飛び交うハングル語に混じって日本語やフランス語も狭い店内にこだましている。
 「やぁ、半年ぶりだねぇチェリン。イギリスの大学院博士研修はどうだった?」
 人々で賑わう店内の奥から、店の主人と思しき身長165センチメートル程の恰幅の良い初老の男性が
満面の微笑で両腕を大きく広げ出迎えてくれる。
 「お久しぶりです。ソンさん、ええ何とか期限内に博士論文をまとめ
一応提出まではこぎ着ける事が出来ました。後はソウルに帰国して大学院からの
結果の通知を待つだけです。ご心配して頂きましてありがとうございます。
お体の調子はいかがですか?」
 キムさんも小走りでソンさんに駆け寄り、
店の中程でお互いに両腕を広げて抱き合い背中を軽く叩きながら挨拶を交わす。
 「あぁ、大丈夫だ。身体の調子はいいよ。突然、昨日ロンドンから連絡があって
今日帰国前に立ち寄ってくれると言うので、腕によりをかけて料理を作りながらね、
早く来ないかなと、お袋も女房も皆首を長くして待っていたんだよ。
さぁ、チェリン、席も用意してある。早く座ってゆっくりするといい。
そちらのお友達もゆっくりしてってください。」
 ソンさんは笑顔で店の一番奥の<予約席>と英語で書かれた白い小さなプレートの置いてある
6人掛けの大きなテーブルに案内してくれた。
 キムさんは6人掛けのテーブルの壁に背を向けた場所の
美味しそうな幸福な笑顔と笑い声で満たされた満員の店内を一望に見渡せる席に座るよう勧めてくれ、
彼女は大きなテーブルを挟んで私の正面に座った。
 「暑いところを歩いてきてくれたんだ。それに、博士論文が無事終了しソウルに帰国するチェリンに
何か冷たい物で乾杯しよう!何がいいかい?」
 ソンさんは細長いプラスチックで覆われた飲み物のメニューをテーブルを挟んで座った二人に差し出した。
 「カズミは何がいい?」
 キムさんは、私が見やすいようにメニューをこちらに差し向けてくれる。
 「ありがとう、韓国料理にぴったり合うような韓国のビールが飲みたいです。
でも、判らないからキムさん選んで。」
 フランス語で書かれた品書きと説明文の下に同じ内容のハングル語の品書きと説明文が書かれた
メニューを熱心に見ても、飲んだ事も知識も持ち合わせていないので、
何を選んで良いのかさっぱり検討が付かない。
 「それでは、クラウンビールにしましょう。ソンさん、クラウンビールお願いします。」
 「それはいいねぇ、今直ぐ持ってくるよ。冷たいやつね。」
 ソンさんは急いで、客席奥にある厨房に消えていった。
 席に着きだんだんと店の空気に馴染んでくると気分が落ち着く、やっぱりこうゆう雰囲気の時間が必要だ。
アジア文化に共通する気安く気取らない、砕けた空気に安心する。
 フランスがどんなに好きでも、日常的に良くも悪くも緊張感が伴う文化だから
学生同士のくだけた付き合いは別として、レストランやカフェ、大人が集う知人宅に招かれたアペリティフや
食事会の時も、建物に入った瞬間から背筋を伸ばして真っ直ぐに歩き、
<常に見られていること>を意識し続けなければならない。
 椅子に勧められれば浅く腰掛け背もたれはないものとし、両足をきちんと揃え
背筋を伸ばして首筋に意識を払い、
右手の薬指と中指でワイングラスの底を挟み、親指と人差指でグラスの足に軽く添えながら
相手の眼を見て会話の筋が分かろうが分かるまいがタイミング良く相槌を打ち、
アペリティフから食後のコーヒーもしくは食後酒までの4・5時間、
気を抜かないのが大人の正しい振る舞いだからだ。
 エレガンスとエスプリを真骨頂とする国の生活文化は疲れるのが本音である。
 「さぁ、冷たいビールだ。とりあず、乾杯をしよう。」
 ソンさんが、冷やしたグラスとビンビールを2本、それにたくさんの白い陶器の小鉢に
沢山の種類のお惣菜を運んで来てくれ、ブラスにビールを注いで勧めてくれた。
 「チェリンの帰国を祝って乾杯!」
 三人で軽くグラスを併せ、小さくグラスの涼やかな音が鳴り響く。
 「こちらのマドモヮゼルがチェリンが言っていた、大切な恩人かい。」
 ソンさんもテーブルの私の横に座ってビールを飲みながら、キムさんに話しかける。
 「そうよ、命の恩人でもあり私の料理の先生なの。」
 <キムさんも大げさだなぁ。>と思いつつ、クラウンビールの冷たい咽越しと味を楽しむ。
 「昨年夏にソウルからブルゴーニュのディジョン市で初めて夏期講座を受けて
大学の学生寮で生まれて初めて自炊したの、すっかり忘れてたのよ自分が料理が出来ないことをね。
直ぐに後悔したわ、どうしていつものパリのソルボンヌ大学にしなかったのかってね。
ここなら、このソンさんの所でいつものように美味しくて栄養のある料理を食べさせてもらえるでしょう。
 一人で学生寮に着いて夜になって気がついたの食べる物がないってね。
だって私、インスタントラーメンも作れなかったのですもの。絶望的だったわ。」
 隣に座ったソンさんは、私とキムさんの空いたグラスにビールを注いでくれ、
テーブルに並べられた<ペチュキムチ 白菜キムチ>や<チャンジャ 鱈の内臓のキムチ>も
つまみながらビールを飲むともっとおいしいよと勧めてくれる。
 キムさんもビールを飲みながら楽しそうに話を続ける。
 「一人で外食をする気にもなれず、二週間ずっと部屋の中でポテトチップスやチョコレートを食べていたら
そのうち体調と顔色が悪くなって、気分も悪く歩くとふらつくようになってしまったの。
 これではいけないと、お鍋と食材を買って電気コンロと水道しかない共同炊事場にいったのだけど
生まれてから一度も料理を作った事がないのだから、突然作れるはずなどないのよね。
 途方に暮れていたらカズミが入ってきたのだけれど、始め同じ韓国人だと思って
小柄だし高校生ぐらいにしか見えないので、いい年して料理の作れないプライドが邪魔して
声を掛けられなかったの、でもそんな日が2・3日続いて本当に死にそうになってしまい
背に腹は変えられないと、ハングル語で話掛けたら日本人だったの。」
 私もキムさんもソンさんも三杯目のビールですっかり気分が良くなっている。
 ビールとチャンジャの辛味と旨みの相性が絶品で、自然とビールを飲むピッチも上がる。
朝から何も食べていないので、空腹にアルコールが心地よい酔い心地を誘ってくる。
 一年前を思い返せば、大学寮の共同炊事場で時々すれ違う、
料理も作らないのに不思議になぜかそこにいる、人目を惹く東洋人の国籍不明な物凄く美人なお姉さんが、
会う度ごとに顔色悪くやつれていくので、大変な病気にでもかかっているのかと心配していたら、
ある日突然ハングル語で話掛けてきた日の事を思い出す。
 「必死になって話しかけたから、もうその人の国籍なんて関係なくなっていたのよね。
とにかく<栄養失調で死にそうだから、料理を教えて下さい。>と、お願いしたの
そうしたら、スーパーマンのような華麗な手際とスピードで<親子丼>を作ってカズミの部屋に
招待してくれて、部屋にあった電気釜からあつあつの白いご飯をたっぷりとよそった<親子丼>と
<ワカメと葱の味噌汁>を食べさせてもらったわ。おいしくて、三杯もお替りしたの。」
 ビールを飲んでいたソンさんは驚いて、
 「初対面の人の所で三杯もお替りしたのかい?」
 「ええそうよ。本当に美味しかったのですもの、その上満腹になったら安心して知らないうちに
カズミのベットで夜中まですっかり寝込んでしまったの。すっかり気分が良かったわ。」
 「えぇ!見ず知らずの人から三杯もお替りした上に、その人のベットで夜中まで寝込んでしまったのかい!
私には信じられないよ。こんな話は始めて聞いた。
 ソウルのお兄さんが聞いたら、お兄さんの方が寝込んでしまうような話だね。
 大変だったねぇ、マドモヮゼル。変なのを連れて来てしまったと思ったでしょう。」
 キムチをつまみながら大きく頷く、本当にあの時は<変なのを連れて来てしまった。>と思った。
 彼女の漂う悲壮感と必死の形相に迫力負けして、部屋に連れてきたしまった
東洋系の国籍不明な雰囲気の驚くような美人が、中華食品雑貨店で自分用に買った一つしかない
大きなラーメン丼に盛った大盛りの<親子丼>を無心で抱えるようにして掻き込むようにして食べている。
 <見事なプロポーションの痩せた身体の何処に食べ物が入って行くのだろう?>と、
迫力ある食べ方に驚き、<まさかお替りまではしないだろう。>と思いつつお替りを勧めると
無言で心からの満面の笑みを浮かべたので、二杯もお替りを盛ってあげたのだった。
そして私の分は全部食べられてしまった。
 「お腹が一杯になったら気を失ったように倒れて寝てしまったのね、目が覚めたら夜中の二時半で
起きたら又お腹が空いてて、ソンさんカズミは素晴らしいのよ!
ゴマ油で炒めたもやしと葱のいっぱい入った美味しい<サッポロ一番味噌ラーメン>を
作って食べさせてくれたの。この時、目の前にいたカズミが神様に見えたわ!」
 そうなのだ。お人好しの私は、部屋に余分な椅子がなかったのでベットの上に腰掛けるように勧たので、
想像もしなっかた事に見ず知らずの物凄い美人は満腹になった後、突然ベットに倒れるようにして
幸せそうな表情を浮かべ、鼾をかいて寝てしまったのである。
 何度も起そうとしても起きないので諦め、見ず知らずの人を部屋に置いたままキッチンに出かけて
料理を作る事も出来ず、お腹を空かせたまま彼女が起きるまで勉強しながら仕方なく待っていたのだ。
 その上、やっと起きてくれたので今度こそ自分のご飯を食べようとキッチンに出かけたら、
喜んで彼女が付いて来てしまい、行き掛り上なんとなく彼女のラーメンまで作ってしまった.。
 これが、私達二人の出会いである。
 出会いの不思議、大切な出会いは予期せぬときに舞い降りてくるのだ。
本当の大切な出会いは、決して素敵に格好よく作られたものではなくて
「真実の出会いと黄金のチャンスはボロをまとって舞い降りてくる。」と言われているのだから。





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真夏のパリで美しい友人との再会


6eme

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