フランス司法省の前を急ぎ足で通り過ぎ、高級宝石商<カルティエ>の厚い防弾硝子で出来た
透明な硝子のドア越しに、濃い栗色の髪を短髪にしてヘアーフォームで前髪を立てている、
鍛え抜かれた肉体に黒い上等なスーツを着こなし、精悍な面持ちをしたセキュリティ男性が
こちらを黙って見ている。それを横目で一瞥しながら軽い微笑で返し、
ヴァンドーム広場を取り巻くように建築された美しい建物が途切れ<Castiglione通り>まで行き着くと、
ゆっくりと後ろを振り返り、乳白色の石で出来た建物の壁にもたれて、オレンジ色に煌く真夏の夕日に
照らし出された広場を見渡す。
 1686年ヴェルサイユの建築家ジュール・アルドゥアン・マンサールの指揮のもとこの広場が建設された。
 夕日に輝き、戦う兵士達のリレーフが螺旋状に頂まで続き,ロシア・オーストリア連合軍から奪略した
1250の大砲を溶かして造った青銅色の巨大なオーステルリッツ戦勝記念碑が中央にそびえ立つ。
 ヴァンドーム広場を取り囲むように格調高く風格に満ちた一連の建物は、外観だけでは建物の内容が
全く判断出来ない。世界最高峰の宝飾店が集まる<宝石商広場>とも呼ばれるが,看板など一切なく
ショーウィンドウにシックにひっそりとした佇まいで、気品に満ちた宝飾品が飾られているので、
さりげなくここが世界的にも歴史的にも著名な宝飾店だと分かる。
 1998年には、ヴァンドーム広場をモチーフとし、
数々の名作に出演し続けるフランスの大女優カトリーヌ・ドヌーブが演じた、
この広場にある有名宝石商の美貌の社長夫人であり、元宝石ディーラーがダイヤモンドをめぐり、
再び人生の真の輝きを取り戻していく映画<Place Vandome ヴァンドーム広場>がある。
 現在、この威厳に満ちた壮大なヴァンドーム広場の地下は駐車場になっている。
 「すいません。マドモアゼル、オペラ座までの道を教えて頂けませんか?」
 後ろ右肩越しに、大きな女性の声がして後ろを振り返る。
 「今日の朝早く、マルセイユから出かけて来たんですけど、
パリは初めてなので地図を見ても分からないのですよ。マドモヮゼル。」
 明るいピンク色の半袖の、木綿で仕立てられたシャツの襟を立て、
洗いざらしのブルージーンズにベージュ色のサンダルを履いた
綺麗な褐色に日焼けしている大柄な60代の女性が、ブルーの表紙のパリの地図を持って立っていた。
 「オペラ座なら、このヴァンドーム広場を真っ直ぐに行って下さい。
広場の終わりで<ラペ通り>が始まりますから、そのまま歩いて頂くと<オペラ大通り>に出ます。
そうしたら、左に振り向いてください。
大理石とブロンズで出来た壮大なオペラ座を見上げる事が出来ます。
 実は私も今朝ディジョン市から出てきたばかりで、オペラ座の地下鉄の駅からここまで
歩いて来たのです。だから、間違いないですよ。マダム。」
 女性の手に持っている地図の上を人指し指で通りの名前をなぞりながら説明する。
 「このまま真っ直ぐなのね。マドモヮゼル。あぁ、あなたもディジョン市から出て来たばかりなの。
私も今日、パリの銀行で働いている息子と三年ぶりに会う為に出て来たの、
オペラ座正面の階段だったら初めてでも分かるだろうと、
息子と午後六時に待ち合わせをしているのだけれど、もう十分も遅れているわ。」
 「それは、楽しみな再会ですね。マダム、足元に気をつけて急がれた方がいいですよ。」
 突然<グー>と大きく私のお腹の空いたサイレンが鳴り響く。
 「これね。お昼に買って食べきれずに残ったアプリコットのデニッシュとショコラ・クロワッサンだけど
よかったら食べて、美味しかったわよマドモヮゼル。」
 あまりのタイミングの良さに立ち止まったまま二人で大笑いしてしまい、
マダムは肩からたすきがけにしている使い込んだ滑らかな茶色のカバンの中から、
白い紙袋に入ったデニッシュを笑顔で優しく手渡してくれた。
 「嬉しいです。ありがとうございますマダム。早速頂きます。」
 大切に差し出された白い紙袋を両手で持つ。
 「こちらこそ嬉しいわ。親切に道を教えて頂いて、さようならマドモヮゼル。」
 「息子さんと楽しい時間をお過ごし下さい。マダム。さようなら。」
 二人で笑いながら、軽く握手を交わし、女性はそのまま真っ直ぐにヴァンドーム広場へと進み、
私は<Castiglione カスティリヨーヌ通り>を真っ直ぐに<チュイルリー庭園>に向かって歩き出した。
 大笑いしたおかげで、初めての<ホテルリッツ>からの緊張がすっかりほぐれ、
私の空腹のサイレンも正常に作動し始めたのだろう。
 歩きながら両耳にしているダイヤモンドのピアスと右手中指にしているダイヤモンドの指輪、
襟元で輝いているダイヤモンドのネックレスを取り外し、
使い込んだ皮のカバンの中から、いつもこれらのダイアモンドを大切にしまってある赤い皮のケースに
シルクの白いチーフで包んで大事にしまい込んだ。
 日本人がボディーガードもなしに本物の宝石を着けたまま、パリの大都会を歩き回ったり、
地下鉄に乗ったりしていたら自ら犯罪を誘発するようなものだ、
運が悪ければ人気のない街角に引きずり込まれて、
宝石を着けたまま両耳と手の指を切り落とされる事も十分ありうる。
何事も、自分だけが大丈夫ということは絶対ありえないのだから、
出来るだけ自分で出来る最大の対処は事前にしておきたい。
 本物のダイアモンドは大事にカバンの中の一番下にしまい込み、代わりに普段毎日着けている
<スワロフスキー>のピアスと
大きな一粒の真っ白い輝きを放つ、祖母から頂いた<ミキモト>の真珠のネックレスを着け、
使い込んだカバンをいつものように肩からたすきがけに掛けると、安心した気分になる。
 先程の女性から頂いた白い紙袋の中から、アプリコット・デニッシュを取りだし歩きながら頬ばると、
バターの香ばしい薫りと共に、ナパージュをたっぷりと塗ったアプリコットの甘味と酸味が
バランスよく口の中に広がっていく。
 美味しい物を食べている時こそ人生の喜びを最もダイレクトに感受されている時だと感じ、
気分が向上し、より前に進もうと未来へと続くパワーを授けてくれるのだから、
食べる事は本当に素晴らしい。
 指先に付いた、デニッシュの細かい屑を払い落としながら、
残ったもうひとつのショコラ・クロワッサン頬張りながら、一人推理をし始める。
<こんなにも薄く層になった焼き生地が、見事な屑となって落ちるということは、
粉を練った生地と生地の間に織り込まれたバターとのバランスもその織る作業の段階でかかる
スピードや重力とのバランスも見事で、作業中の室内温度も低く設定コントロールされており、
紙袋に印字されている、今フランス全土で業績を伸ばしている拡大路線の
大手有名デ二ッシュ・チェーン会社のものだから、多分、地域一括生産コントロール・センターで生産し、
瞬間真空冷凍機に瞬時にかけて冷凍トラックで大量に各販売店に配送しているのだろうか?
 やっぱり、工場はブルターニュ地方あたりにあるのかな、工場誘致・進出も多いし、
それに良質のブルターニュ産のバターの産地だ。気候もフランス北部なので寒いし、
食品に対しては理想的とも言える。人件費もパリ郊外よりも安いだろう。
 とにかく、パリ郊外のどこか田舎に違いない。
 それに、オーブン焼成においても本社からの研究室で同社の製品に対し計算しつくされた
厳密なオリジナルマニュアルで、焼成温度、時間と共に品質にバラつきがないように
一括コントロールされているんだろう。
 あの女性は地中海地方プロバンスのマルセイユから来たと言って、彼女も美味しいと評価していたし
私もフランス東部に位置するブルゴーニュ地方のディジョンから来ていて同様にそう思う。
味の設定もフランス全土に対応できる標準的な美味しさの推知されたものなのかな。
 フランスに来て大いに関心したのは、冷凍食品の品質・味の水準の高さだ。
流石、フランスは農業大国だけあって、野菜本来の持つ味の力強さ、濃さはもちろんの事、
工場の生産システム、冷凍技術が世界でも高水準なレベルで発達しているのだろう。
 これなら、働く女性も自宅に帰ってから食事を用意しなくてはならないという
心理的負担も軽減されるかもしれない。>
 気が付くと、<Castiglione通り>とコンコルド広場へと続く有名な<リボリ通り>と交わる所まで
来ていた。
 目の前には歩行者用の信号機の向こうに広大な<チュイルリー庭園>が広がり、
マロニエの青々とした木々が、真夏の夕日にマロニエの大きな葉に反射されるようで光輝いて見える。
 赤色の信号で立ち止まり、青色になったのを確かめてから、急ぎ足で<リボリ通り>を渡り、
常時閉まっている鍵の掛けていない低い鉄柵を右手で押し開いて、庭園内に入り階段をおりて
<コンコルド広場>から<カーゼル凱旋門>まで庭園を横断する一直線にのびた小道を
左手に折れ、<ルーブル美術館>を望みながら真っ直ぐに歩いていく。
 左腕にしている<オメガ>の腕時計はもう午後六時半を指している。
 早く泊まれるホテルを探さなくては、泊まるところがなくなってしまう。
 もし、どこにも泊まるホテルが見つからなければ最悪の場合、カルチェラタンかサンジェルマン・デプレ、
もしくはシャンゼリゼ大通りあたりで、深夜まで映画でも見て時間をつぶし、
24時間営業のカフェかレストランで朝まで一人で過ごさなければならなくなってしまう。
 親切なドイツ人の友人アネットが、パリに出かけていく私に渡してくれたホテルの住所のリストには、
彼女がドイツで銀行に勤務していた時、出張でパリに来た時によく利用していたホテルで
宿泊の値段が安く、地区の治安も比較的良い左岸にあるカルチェラタンの
2・3のホテルを紹介してくれた。
 ここから、5区や6区に渡たりソルボンヌ大学を中心に好奇心旺盛な学生達で賑わうカルチェラタンまで
急ぎ足で約15分程だから、アネットが一番にお薦めしてくれた彼女のお気に入りのホテルのフロントに
午後七時までには辿り着きたいのだが、
1メートル先の右端で、褐色に日焼けした肌に真っ赤なサマードレスを着た
ギリシャ系の彫刻のような顔立ちで、豊かな黒髪を涼しげにシニョンにまとめた美しい女性が、
何種類もの美味しそうなジェラートを売っているのを、無視して通り過ぎる事は出来ない。
 何種類ものジェラートを前に、真っ赤なサマードレスを着た女性に話しかける。
 「こんにちは、美味しそうなジェラートが何種類もありますね。本当に迷ってしまいます。
お薦めのものはありますか?」
 女性は口元に白い透明な歯を少し見せて笑いながら
 「ここにあるのは全部自信作のお薦めですよ。マドモヮゼル。」
と答えてから、硝子の冷凍ケース内を満遍なく見回してから
 「そうですね、私だったら今日みたいに暑い日は
<カシス・黒すぐり>や<フランボヮーズ・木苺>などの酸味があって、さっぱりしている物を選びますね。
 二種類ミックスしてみても美味しいですよ。」
 彼女の言う通り、ベリー系の混合ミックスも美味しそうだ。
 「それは美味しそうですね。カシスとフランボヮーズでお願いします。マダム。」
 香ばしく焼き上げられた大きなコーンにたっぷりと二種類盛り付けてくれる。
 「ちょっとだけ、おまけね。どうぞ。」
 笑顔の彼女からたっぷりと盛られたジェラートを受け取り、お金を支払う。
 「ありがとうございます。マダム。さようなら。」
 「さようなら。マドモヮゼル。」
 再び急ぎ足で歩きながら、ジェラートの心地よい甘酸っぱさと冷たさを楽しむ。
 小道の端には、ベンチが設置されており、ティーシャツやタンクトップを着た人々が
雑誌や新聞を読みながら、思い思いにゆったりした時間の流れを楽しんでいる。
 歴史を手繰れば、ここには1564年にチュイルリー宮殿が建設され、1789年フランス革命で
パリ郊外のベルサイユ宮殿を追われたルイ十六世と王妃マリー・アントワネットらの国王一家は
1792年にタンブル塔に幽閉されるまでこのチュイルリー宮殿に住んでいた。
 19世紀半ばの第二帝政時代にはナポレオン3世の宮廷として使われたが、
1871年のパリコミューンの人民蜂起で消失された。現在その姿の跡形もない。
 小道の前を歩いている、観光客を急ぎ足で追い越し<チュイルリー庭園>から連なる
<カルーゼル庭園>に入ると、目の前に広がるルーブル美術館前の広場一杯に
特別な催し物でもあるのか、世界各国から訪れた身軽でカジュアルな装いの何百人もの観光客が
ルーブル美術館へのエントランス・ロビーである硝子のピラミッドを中心に、何重にも長蛇の列をなしていて
とてもスムーズに広場を横断出来そうにない。
 この人垣を横切って歩いて行くには、軽く10分か15分ほどかかりそうだと瞬時に目算し、
時間的余裕がないので、ローズ・ピンクの大理石で出来た小さな<カルーゼル凱旋門>を
急いで通り抜けると、群集の集うルーブル美術館前の広場を避け、右折しセーヌ川へと歩いていく。
 セーヌ川横の<チュイルリー川岸通り>まで来ると、西へと沈もうとしている
大きく真っ赤な太陽の真夏の強い夕陽に紅く染め上げられ、水面が魅惑的に小刻みに揺れて光り輝く
息を呑むほど美しく壮大なセーヌ川が突然、目の中に飛び込んできた。
 しかし、感動して立ち止まっている暇は今はない。
 夕暮れ間近い美しいパリの街並みに目を奪われつつ、<カルーゼル橋>を急いで渡りきり
左手に曲がって、先を歩く人々を次々に急ぎ足で追い越して行く。
 河岸通りは行きかう人々の活気に満ち溢れ、車道にはそれぞれの職場から自宅へと
家路を急ぐ人々や、友人たちとアペリティフや夕食の約束をしている人々の
<シトロエン>や<ルノー>などの車で渋滞し、
クラクションやブレーキを掛ける音、エンジン音が入り混じる生き生きとした街の喧騒が騒がしい。
 セーヌ川に面した6区の地下鉄<サンミッシェル駅>の構内入り口まで辿り着くと、
車道を挟んで右手に広がる<サンミッシェル広場>には、多くの学生達や外国人観光客が、
広場の真ん中で、目を惹かずにはいられない情熱を傾けた激しいダンスを踊っている
5・6人のアフリカ系黒人青年達を中心として、大きな車座に取り囲み
それぞれの国からやって来た観光客達が話す様々な外国語が飛び交い、
楽しそうにリズムを取りながら両手を叩いての手拍子や、
石畳を靴で軽く鳴らして足踏みをしてみたりして、思い思いの表現方法でダンスを一緒に楽しんでいる。
 人々の熱気に包まれた<サンミッシェル広場>の横を急ぎ足で通り抜け、
数多くの文芸書や歴史書を取り扱う古本屋が軒を連ねる、行き交う学生達で溢れる
<St・Andre des Arts通り>を脇目も振らず、真っ直ぐに進んでいく。
 左腕の腕時計を見るともう午後6時45分を指そうとしていた。
 この通りを突き当ったところが、6つの通りが交差する<Carref de Buci>に行き着くはずだ。
 親切なアネットのアドバイスを思い出す。
<私のパリでのお薦めのホテルは、まず宿泊費が安くて、活気があって交通の便が良く、
夜でも女性が歩けるような治安の良い場所にあるホテルね。
周りに安くて美味しいレストランや映画館、それに本屋もあれば、なお良いわ。
 6区のカルチェラタン<Carref de Buci>にあるホテルはお薦め。これがそのホテルの住所ね。
一階がカフェになっていてその左隣に小さな入り口があるの。
隣にワイン専門チェーン店の<ニコラ>があるから直ぐ分かるわ。
エレベーターもない、朝食も付かない素泊まりホテルだけど、
6つの通りが交差する西側の窓からの景色は絶品よ。特に真っ赤な太陽の沈む夕陽は最高だわ。
窓を大きく開け広げて、下から聞こえてくる通りを歩く人々の声やカフェで安らぐ人々のお喋り、
パリの自由な空気の息吹を聞きながら、遥か遠くまで見渡せるパリの景色に
これを見る為にこのホテルにいて、パリにいるんだって思えてしまうほど素晴らしいの。>
 まだ辺りは明るく、日没まで今少しの猶予が残されている。
 ゆっくりと古本屋の軒先をひやかしながら、散策を楽しむように前を歩いている人々を追い越し、
目の前の通り沿いにカフェとワイン専門店<ニコラ>が見えた。
 カフェの左隣に白地にブルーで<Hotel ホテル>と書いただけのシンプルで小さな看板が
入り口のの上に掲げてあり、両開きの硝子のドアが、外側に向かって大きく開いていた。
 駆け込むようにホテルの玄関に踏み込むと、入って直ぐ右手に木製の使い込んで黒光りし、
微かな光沢を放つ世紀を超えた年代を感じさせるフロントのカウンターがあり、
豊かな白髪の初老の男性が、フランス製タバコ<ゴロワーズ>を左手の人差指と中指に挟んで
ゆったりと口元に銜え、古いスチール製のパイプ椅子に腰掛けて足を組み
<ル・モンド 新聞>を大きく広げて読んでいた。
 「ムッシュー。お邪魔してすいません。今夜泊まりたいのですが。まだ空いている部屋はありますか?」
 男性はゆっくりと視線を新聞から外した。
 「あぁ、あるよ。一つだけね。エレベーターもないホテルの最上階、
西側の通りに面した6階だけれどもね。これが料金表だマドモヮゼル。」
 そう言うと、料金表に示されているダブルの部屋の料金を右手人差指で軽く指し示した。
 アネットのアドバイスどうり、手頃な料金設定だった。
 「わかりました。ムッシュー。お願いします。」
 くすんだ蒼い目にランプの灯りが瞳に映り込んで微かな光を放ち、黙って様子を見ている。
 「朝食は付かないよ。素泊まりだ。それでも、いいかい?」
 「大丈夫です。お願いします。ムッシュー。」
 カウンターの上に用意されてある簡素な宿泊カードに必要事項を記入すると、
初老の男性はそのカードを右手に持ち、ゆっくりと左手でタバコをふかしながら確認し、
おもむろにパイプ椅子から立ち上がると、後ろの壁に取り付けてある茶色い使い込んだ鍵掛けボードから
一つだけ残っていた真鍮の大きな鍵をゆっくりと差し出した。
 「その螺旋階段を昇りきって直ぐの左側のドア、603号室が貴方の部屋だ。マドモヮゼル。
フロはないがシャワーは付いている。階段は滑りやすいから気をつけて。これが鍵だ。」
 「ありがとう、ムッシュー。」
 ずっしりと重量感のある真鍮で出来た大きな鍵を受け取ると、
木製の使い込まれた階段の真ん中部分が磨り減り黒光りし、ゆるやかに窪んでいる
狭い螺旋階段を滑らないように気を付けながら、急いで最上階へ駆け上り、
階段から直ぐ左手にある603号室のドアの大きな鍵穴に大きな真鍮の鍵を差込、
力を込めて回すと、大きな重く厚いドアが内側に向かって大きく開くと、
乾燥した暑い空気が部屋から流れ出し、世紀を超えた年代を感じさせる復古調の贅を尽くした
透かし模様の大きな硝子のはめ込まれたドアが開いてあり、シャワールームの白いタイルが見える。
 部屋の中に入り、ドアを閉めるとドアの内側は大きな姿見用の鏡が取り付けてあり、
全ての壁は、時代を感じさせる明るいブルーを基調とした花模様を織り込んだクラッシックな布張りで、
部屋に入って左手、八畳ほどの空間を占拠するように置かれている巨大なダブルベットには
コバルトブルーのベットカバーが掛けられてあり、真っ赤な夕陽が差し込んで朱色に染められている。
 ベットスペースに足を踏み入れ、夕陽の眩しさに日差しに向かって振り向き、息を呑んだ。 
 真っ赤に燃え上がる大きな沈む太陽。
 眼下に限りなく広がる、紅く光り輝く大理石の街並み。
 「パリだ!パリの街だ!」
 無意識の感動の感情が、声となって湧き上がる。
 窓辺に駆け寄り、大きな両面開きの古めかしいクラシックな硝子の窓を、
両腕で勢い良く外に向かって押し広げ、白い手摺りに囲まれた小さなバルコニーに立つ。
 眩しい光、沈み行く大きな太陽と夕陽に煌き動き回る輝く無数の車のボンネット、
何処までも水平線まで限りなくひろがる、透明な蒼い大空。
 眼下で交差する幾本もの通りを歩く人々の声、走り去るバイクの音やブレーキ音。
 生き生きとしたパリの逞しい生命力、パリで生きる人々の活力ある生活の息吹に満ち溢れている。
 息を呑むほど見渡す限りに光り輝く、壮大にして雄大な大理石の街並み。感動の街、パリだ!
 <日没までには、今少し猶予がある。よしっ!>
 部屋に飛び込みベットの上に投げ出してあった真鍮の鍵を握り締め、部屋から急いで出ると鍵を掛け、
階段から滑り落ちないように右手を手摺りに掛けながら、螺旋階段を勢い良く靴音を響かせて
一階のフロント・ロビーまで駆け下りる。
 先程までフロントで<ルモンド 新聞>を読んでいた初老の男性の姿はなかった。
 通りに出て、ホテル入り口から出て右隣にある大きなウィンドー硝子で覆われた
ワイン専門店<ニコラ>の磨かれた硝子のドアを大きく内側に押し開いた。
 「こんにちは、ムッシュー。シャンパーニュと、そう、もしあればつめたく冷えたシャンパーニュと
シャンパーニュ用のフルートグラス一客、急いでください。」
 突然飛び込んで来た、異邦人に驚いている。ピンクのボタンダウンのシャツに黄色いネクタイを締め、
はちきれそうな洗いざらしのブルージーンズを穿いている小太りの男性店員にお願いする。
 「ずいぶん急いでいるねぇ。ワインは逃げはしないよ、安心して、マドモヮゼル。
冷えたシャンパーニュありますよ。ほら、ここにね。どの銘柄をお出ししますか?」
 男性は首をくすめながら、大きな笑顔で店の後方に壁一面に作られた
温度・湿度管理コントロールの行き届いた、下から天井に向かって見事にライトアップ演出されている
ガラス張りのワインセラーに向かって、右腕を大きく指し開いた。
 「あの<ヴゥーヴ・クリコ イエローラベル>下さい。隣に飾ってある。フルートグラスも一つ、
急いでください。」
 ワインセラーの右端に飾ってある。<ヴゥーヴ・クリコ>を指差しながらお願いする。
 「急がない、急がない、マドモヮゼル。今直ぐにお持ちしますよ。」
 「お願いします。ムッシュー。」
 鍵の掛かっていないワインセラーのドアを開いて<ヴゥーヴ・クリコ>に手を伸ばす男性の
後ろ姿を見ながら、カバンの中から財布を取り出しお金を用意しておく。
 「はい、こちらでいいね。」
 シンプルで新しい木製のレジのカウンターの上に冷えたシャンパーニュと
足が長くて繊細なフルートグラスをのせる。
 「はい、ありがとうございます。お幾らになりますか?ムッシュー。」
 「ちょっと待って、シャンパーニュとグラスね。」
 男性がレジに素早く入力すると税込みの金額がデジタル表示される。
その金額を現金でレジに用意された金のトレーの上にのせる。
 「こちらでいいですか?」
 「もちろんだよ。マドモヮゼル。さぁ、冷たいシャンパーニュだ、グラスも気をつけて持って帰るんだよ。
急いでるのは、部屋で待っている恋人とお祭りでもするのかい?」
 冷えたシャンパーニュとフルートグラスを手渡しながら、笑顔でからかうように尋ねてくる。
 「まあ、そんなところかな。ありがとうございます。ムッシュー、さようなら。」
 「さようなら、マドモヮゼル。恋人とシャンパーニュで素敵な時間をを楽しみなさい。」
 <ニコラ>のドアを飛び出すと、隣にあるホテルの入り口に駆け込み、
誰もいない小さなフロント・ロビーを走って横切り、狭い螺旋階段を転ばないように最上階まで
一気に駆け上がる。
 息も切れて苦しいが、もたもたしていては沈み行く太陽は待ってはくれない。
 真鍮の鍵で厚く重たいドアを開き、部屋の中に飛び込むとドアをきちんと閉めて鍵を掛け、
ドアチェーンをかける。
 ベットの上にカバンと鍵を投げ出し、左手で<ヴゥーヴ・クリコ>とフルートグラスを持ち、
力強い最後の輝きを放つ、沈み行く真っ赤な太陽に照らされた、雄大なパリの全景眼下にを望む
白い輝くバルコニーに一人立つ。
 ゆっくりと丁寧にシャンパーニュのコルクを右親指で押し出した瞬間、琥珀色の輝きが溢れ出て、
丸みを帯びた芳醇な、爽やかで軽やかな酸味と咲き乱れる白い花の微かに甘い豊かな薫りが立ち昇り、
フルートグラスに静かに注ぐと、見事な一本の細かい気泡が天に向かって煌きだした。
 冷たいシャンパーニュをグラス越しに、輝くパリの街を見つめる至福の時間。
 こんな至福の時間をアーネスト・ヘミングウェイは、そしてココ・シャネルはこのパリで過ごしたのだろう。
 

    <若いときに、もし君がパリに住むという幸運に恵まれたのなら、たとえ何処に行ったとしても、
     その想い出は一生君の心に残ることだろう。
     なぜって、パリとはその街自体が< 移動祝祭日 >なのだから。  >


 そう、それはパリを訪れ、パリに魅せられた者の背負う宿命なのだ。
 輝きを放つ沈み行く太陽に、琥珀色のシャンパーニュを傾ける。
 眼下に広がる、行き交う人々の話し声や車やバイクのクラクション、
活気ある喧騒に包まれたパリの街に向かって、
 「美しきパリに、ヘミングウェイに、そして、パリへと導いてくれたココ・シャネルに乾杯!」 




ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで 戻る

カルチェラタンのホテルからパリの夕日を見つめ
  若き日のアーネスト・ヘミングウェイを想う

5eme

ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで