<本当にここが料理学校の事務所なのだろうか。>
 真夏の午後の透明で柔らかな太陽の光と、その光に反射して豊かにきらめく大きくて豪奢な
クリスタルのシャンデリアが天井でいくつも連なる、18世紀のフランス宮殿を21世紀の現在において
タイムスリップしているような、ホテルリッツの誰もいない静寂に包まれた廊下で一人、立ち尽くしたまま、
何度ノックをしても答える声のない、沈黙の大きな硝子のドアを黙って見つめかえす。
 立ち止まったまま、考えているだけでは人生に何も始まるはずなどないのだ。
 まずは行動しなくてはと、歪みのない磨きこまれた大きな硝子のドアに縦に長く取り付けられている
金色のエレガントで豪奢な取っ手を手前に力一杯、思い切り引いてみるがびくとも動かない。
 再び今度は、全体重をかけてより力強く踏み込むように押し出すと、想像もしないような軽やかさで、
あっさりと内側に大きく開いてしまい、勢い余って重厚な硝子のドアの重力に身体が引きずられ
ドアの内側に飛び込んでしまった。
 目の前に飛び込んできたのは、クラッシックで優雅な雰囲気とまったくかけ離れた日常感に満ちた
雑然とした印象の膨大な書類や書籍に取り囲まれた六畳から八畳ほど狭いオフィススペースだった。
 中央に置かれた事務のスペースをを占拠している黒いデスクやグレーの配線の絡まった
コンピューターとプリンター、電話やファックス機などの事務機械、壁を取り囲む実用的な大きな本棚には
雑然と膨大な書類や英語やフランス語、その他の言語の様々な書籍が押し込まれ、
人が動くスペースもあまり残されておらず、溢れかえる物に圧迫され、無言にして物語る仕事と時間に
途切れることなく追われているビジネスの現場であることを体現していた。
 「ええ、ええ、だからムッシュー・・・・・・でも、しかし・・・・。」
 硝子の大きなドアを内側に開くスペースを残して、正面に置かれた部屋の七割を占領している
大きな黒いデスクに、明るいベージュのツイードのスーツで装った、栗色の巻き毛をショートヘアにした
二十代後半から三十代に見えるシンプルなメガネを掛けた女性が、パソコンのスクリーンを真剣に
覗き込みながら右耳と右肩に白いプッシュ回線の電話の受話器を挟んで、受け答えに没頭していた。
 「ええ、ええ、・・・・だから、ええ、・・・ムッシューのおっしゃることは、こちらも十分理解しております。
ええ、・・・・・・・・・・・・・でも、私どもとしましては・・・・・・・・・・。」
 美人というよりは、穏やかな馴染みやすい顔をしているその女性は、眉間に皺をよせながら、
感情を抑えるようにして、静かな低い聞き取りやすい声で言葉を選ぶように電話先の相手との電話に
没頭していたが、先程から硝子のドアを開けたままで、戸口に立ったまま黙って様子を窺がっている
東洋人の存在に気がついて、そのままの姿勢で座ったまま電話の内容をメモする為に左手で
握り締めていた金色の<パーカー>の万年筆を指に挟んだままで、オフィスに入ってドアを閉めるように
短いジェスチャーで指示した。
 電話に差しさわりがないように、両手でゆっくりと音を立てないようにドアを閉め、
ドアの前に静かに立った。 
 再突然現れた東洋人の異邦人の存在など、気にしないかのように女性は再びコンピューターの
スクリーンの羅列された数字を目で追い、電話の相手との受け答えに没頭している。
 仕事の邪魔にならないように、彼女の電話の内容を聞きながら、静かに黙ったまま部屋の内部を
観察する。右側を見ると開いたままのドアがあり奥にもオフィスがあるようだ。ドアから直ぐに大きな
クリーム色のコピー機が置いてあり、そのコピー機の上には書類が散乱している。
 目の前の高い位置についた窓からは、パリの一等地<バンドーム広場>に面しているというのに、
窓辺を取り囲むように真夏の午後の爽やかな風に微かにそよぎ、太陽の日差しにきらめく
鮮やかで薫るような木々の緑と、都会だというのにコンクリートの味気ない高層ビルの姿はなく、
木々の間から、ほんの少しだけ大理石で出来た乳白色の建物が見えるだけで、
窓一杯にかぎりなく透明なコバルトブルーのパリの大空がどこまでも続いていた。
 「はい、・・・はい、・・・・・ええ、承知いたしました。期日までには・・・・・・・ありがとうございます。
はい、ムッシュー失礼致します。」
 長い電話が終わり、ハープの音色もクラッシック音楽も流れていないオフィスには各種事務機械の
作動音が微かな低音で響くだけの静寂が舞い降りてきた。
 「まったくもう!アメリカ人はせっかちなんだから。」
そう、フランス人らしく感情をぶちまけるように言い放つと、やっと目の前に立ったままの私に
視線をむけた。
 「エクスキューズ・ミー、************。」
 デスクに座ったままで、日本語なまりで聞き取りにくいアクセントの下手な私のフランス会話と同じくらい
聞き取りにくいフランス語なまりの英語で、私が理解できているのかいないのかそんな事はお構いなしの
様子で、私に話しかけている。
 国籍も確認していないのに
 <東洋人だったら、フランス語が出来ないのは当たり前。英語を理解しろ。>
といわんばかりの、押し付けがましい態度が気に障り、一方的にわけのわからない英語を話つずける
彼女を中断させるように、威厳を持って冷静に、日本語なまりの下手なフランス語を使い、
大きな声で
 「申し訳ありません、マダム、英語で話すのを止めて頂けないでしょうか。
見ての通り、アメリカ人でもイギリス人でも、ましてやオーストラリア人でもない東洋人です。
英語はまったく話せませんし、理解できません、マダム。
 母国語は日本語なので、よろしければ英語から日本語に切り替えて頂けないでしょうか。
さもなければ、フランス語を学んでいるので、フランス語でゆっくりと丁寧に話していただければ
マダムのおっしゃることを少しは理解できると思うのですが。いかがでしょうか。マダム。」
 と彼女の英語を遮り、話を止めさせた。
 このようなことは、本当に良くあることだ。
 フランスに留学してから今日までの一年半の滞在の間に、東洋人と見れば国籍などおかまいなしに、
突然フランス語訛りの独特の英語で、一方的に悦にはいって自慢げに自分の英会話を
披露し始めるフランス人のアイデンティティーに辟易して、うんざりしていた。
 私が英語が話せれば、英語で切り返せばいいのでまったく問題がないのだが
<英語が話せない。>
というコンプレックスとメンタルな神経が複雑に絡み合い、フランス人の独りよがりな
<突然の英語攻撃>が始まると、私の神経の怒りの琴線に見事にはまって、
怒りが込み上げてくるのだった。
 彼らのこの特性は私だけに向けられる物では無いという事は、経験から十分に知っている。
フランスに留学している、アメリカ人や英語圏の友人たちも、当人が英語圏の人間だと素性が
分かるや否や、相手の感情などお構いなしのフランス語訛りで、とどまるところのない
<突然の英語攻撃>にうんざりし、苛立つと同様の感情を共有していた。
 「なぜ、愛すべき愛しのフランス人が<アメリカ文化大好き病>と<英語を話したい病>に
侵されてしまったのか?」
 と、フランス文化やフランス人をこよなく愛するフランスに留学している外国人学生達は、
大学帰りにディジョン駅前にある映画館で、ポップコーンほお張りながら、
ハリウッド映画に大笑いし、隣の<マクドナルド・ハンバーガー>で大型サイズのコカコーラ片手に
<フランス人とフランス語に対するアメリカ文化の侵略>を各々の持論を持って、
各国の母国語訛りのフランス語で熱く語るのが大好きだった。
 それゆえに、重度の<フランス文化大好き病>と<フランス語を話したい病>に侵され、
海を越えてフランスにまで来てしまった外国人学生にとって、フランス人の<英語を話したい病>は、
双方の想いと利害が真っ向から衝突し、感情内に火花が飛び散り怒りが込み上げるのであった。
 フランス人にとっても英語を身につけることは簡単ではないのだという事が、今日までの一年半の
フランス滞在で多くのフランス人と接していて感じたことだ。
 この栗色の巻き毛をショートヘアーにした女性も、<ホテルリッツ>のような超高級ホテルに職を
得るために英語の勉強に傾倒し、彼女の大切な時間を割き手に入れた英会話を遮るのは
大変失礼だと思うが、こちらもフランス文化とこの料理学校で学ぶ事を目標に
フランス語を身につける為、かなりの情熱と時間とお金をかけているのだから、
ここは双方穏やかに歩み寄りの姿勢で行きたいものだ。
 彼女は一瞬不満げな表情と驚いた表情を交差させた。
 「失礼しました。フランス語がおできになるんですね。」
 英語からフランス語に切り替わる。
 「上手に話すことは出来ませんが、だいたいのことは解ります。マダム。
約束の時間に大変遅れて申し訳ございませんでした。
 今日の午後二時半に、こちらに入学する為の最終的な入金確認と、パリでの滞在許可証を
取得するのに必要な在学証明書や必要書類を頂くため伺う予定になっておりました
マドモヮゼル・カズミ・キクカワです。」
 デスクに座ったままの栗色の髪の女性も<入金確認>と聞いて、真剣な表情になった。
 「マダム・カズミ・キクカワですね。綴りはどう書くのですか?」
 彼女はたった一度聞いただけの、外国人の名前を直ぐに間違う事無く繰り返した。
耳がいいし、外国人との接触が日常的なのだろう。
 特にヨーロッパ人にとって東洋人の名前は馴染みがなく、名前を述べても一度ですんなり
間違わず繰り返せた人は少なかった。たいていはフランス人独特の眉間を寄せた表情の顔に
向かって、何度も名前を繰り返し訂正する事が多い。
 それに、ここまで案内して頂いたサービスの男性方も、発音の悪い私のフランス語会話を
すんなりと理解し、一度も聞き返される事無く対応して頂いた。流石、パリという国際都市の
ホテルという、多国籍文化が交流する場所で働く、プロフェシォナルな人達である。
 「名前は k.a.z.u.m.i.です。苗字は K.I.K.U.K.A.W.A.と綴ります。」
 女性はパソコンに身体の向きを変えて、スクリーンを見ながらブラインドタッチで氏名を入力していく。
 「マダム、国籍はどこですか?」
 スクリーンを見つめたままの彼女の質問に答える。
 「日本です。」
 素早く、<JAPON 日本>と入力する。
 「こちらから入金の途中経過の状況確認について、何度かマダム・キクカワに書類を郵送していると
思うのですが、最終的に通知を受け取ったのはいつでしたか?」
 「先週です。ブルゴーニュ地方のディジョン市に滞在して一年半になるので、
全ての通知は日本ではなく、滞在先のマダム・ピッチオ宅に郵送されてきています。
書類には全てマダム・エレオノール・ブルエのサインがしてありました。」
 彼女は私の方をちらりと見て
 「エレオノール・ブルエは私です。マダム。」
 と、短く言うと再びスクリーンを覗き込む。
 「ここで見ると、マダム・カズミ・キクカワは料理学校の全てのカリキュラムに登録してあります。
料理・製菓の基礎及び上級課程、それにホテルの主任ソムリエによるフランスの地方別による
全てのワイン講義、ホテルの室内装飾担当主任による全てのフラワーアレンジメント講義、
季節ごとのジビエやクリスマス等の特別講義他、外部講師による
<マリアージュ フレール・ディレクター>のティーサービス講義や
銀食器の<クリストフル・ディレクター>による講義など他にもいくつかの講義が既に
登録済みになっています。」
 マダム・ブルエはスクリーンの内容を読み上げると、こちらの方を振り向いた、
 「マダム・ブルエ、口頭ではなく間違いがないか、確認したいので内容をプリントアウトして
見せて頂けますか?」
 「もちろんです。マダム・キクカワ、今直ぐに。」
 素早く入力すると、プリンターが規則正しい音で作動し始めプリントアウトされた書類を差し出した。
 「こちらがそうです。ご確認下さい。マダム・キクカワ。」
 肩に掛けている使い込んだ皮のカバンの中から、今まで料理学校から郵送されてきた何通もの書類を
一通ずつ封筒と書類をクリップで止めて、新しい物からまとめてあるファイルを取り出し、
それを見ながら、今プリントアウトされたものと照らし合わせて一つ一つゆっくりと確認していく。
 その様子を彼女は、今まで事務手続きで訪れた他のフランス官庁系の役人職員とはまったく異なり、
イライラとした様子で焦らせる素振りなど全く見せず、静かに黙って見守っている。
 「大丈夫だと思います。それから、今度は入金確認をしたいのです。
全ての講座の事前入金の期日にまだまだ時間があるのは承知しているのですが、
これから、パリで住む部屋を探す為とこの料理学校で学ぶ為の期間が一年を超えるため
パリでの滞在許可証を所得するのに、在学証明書とパリの銀行に授業料が前納済みであるという
証明書類が必要なのです。そのために登録済みの全ての講座に対する授業料の最終入金が
先週の金曜日までに日本の銀行から済んでいると思うのですが、これに関しては事前に
ディレクターのマダム・マリー・ソフィ・マルウ''ィーヌに手紙でお願いしてあります。」
 マダム・ブルエはそれを聞くと黙って頷き、再び入力する。
 「はい、マダム・キクカワの仰るとうりです。先週の金曜日前に登録していただいた
全講座に対する入金が全て終了しております。入金は全て完了です。」
 「マダム・ブルエ、そちらも大切な事なので確認したいのですが、プリントアウトして頂けますか?」
 「もちろんです。マダム。」
 素早く入力し、プリントアウトされた用紙を受け取り、再びファイルと照らし合わせながら、
支払期日、金額等を一つ一つゆっくりと確認していく、とりあえず間違いはないらしい。
非常に高額な料金を支払うのだから、間違いがあって後でトラブルになるのは事前に避けたい。
支払いも高額ゆえに、数字の0が少ないのならいいが、一つでも0が多いのは大変困る。
 「マダム・キクカワ、もしよろしければ、正式な在学証明書や授業料の入金についての書類は
本日お渡し出来ませんが、全ての入金も済んでおりますし、ここの生徒であるという簡単な用紙なら
今直ぐお出しすることができますが、いかがでしょうか?」
 「ありがとうございます。今日からパリでの部屋探しをするので大変ありがたいです。
よろしくお願いします。マダム・ブルエ。」
 マダム・ブルエは<しばらくお待ち下さい。>と言いながら、プリンターに
ブルーのホテルリッツの紋章の入った上質な紙をセットし直し、パソコンに入力しながら
簡易証明書の準備を始める。
 左腕の腕時計を見ると、もうすぐ夕方の四時半だ。
 入金確認も全カリキュラムの登録確認が無事済んだので、ほっとして緊張感が薄れ、気が抜けたのか
お腹が空いていることに気がついた。ディジョン市からパリまでのTGVに乗る前に下宿先の
マダム・ピッチオとキッチンで二人、タルティーヌ三枚とティーボールに砂糖入りのたっぷりの
コーヒーミルクを飲んだだけで、まだ昼食を取っていない事に気がついた。
すると、ますます無性にお腹が空く。皮のカバンの中には、パリに一人で出掛けるのを心配して、
フランスパンにブリーチーズを挟んだだけの簡単なサンドイッチをラップに包んで持たせて
もらったものが入っているのだが、ここでおもむろに取り出して食べ始める訳にもいかない。
そんな事をしたら、このオフィスで長年語り継がれる伝説の日本人になってしまいそうだ。
 オペラ座で地下鉄を降りてからずっと歩き通しで、立ち通しなので今日の為に買ったばかりの
新品の靴がまだ足に馴染んでないので、踵のあたりが痺れるように痛くなってきた。
 そういえば、ここには座るための椅子も用意してないし、人が座るスペースもないのだが、
マダム・ブルエは、もう一時間も立ったままだというのに、一度も椅子を勧めてくれない。
 これは、超一流の料理学校で超一流の料理テクニックを身に着ける為に必要不可欠な
根性と体力をつける為の配慮なのだろうか。
 <メルセデス・ベンツ>が買える位の入金をしたのだから、ホテルリッツのコピーのように
「心をこめて笑顔で、冷えたシャンパーニュと美しい花々でお出迎え。」とまではいかなくても、
日本の会社みたいにお茶の一杯位出してくれてもいいのではないかと、足に痺れを感じながら
熱心に証明書を入力している彼女の様子を黙って見ている。
 「あら、ごめんなさい。そちらに人が立っていらしたのね。」
 突然、聞き取りやすい低音の大人の女性の声と同時に、後ろの硝子のドアが開き、
背中に軽くぶつかると、後ろのドアから、身長165センチメートル位で三十台中頃の
英国風の濃紺色のテイラードジャケットを羽織り、いかにも高価な風合いの厚手のシルクで、
白とゴールドを基調としたデザインの<エルメス>のスカーフを襟元にあしらった、クラシック・ボブの
金髪の前髪をヘア・フォームで緩やかで優しげなウェーブをつくったエレガントな女性が一人、
オフィスに入りながら瞬時に横目で私の靴の先から顔の辺りを一瞥し、
直ぐにマダム・ブルエに視線を移した。
 「こちらの方は?マダム・ブルエ?」
 私を見る事なしにデスクの前に立って、マダム・ブルエに尋ねる。
 「マダム・カズミ・キクカワです。入学の手続きにいらっしゃいました。」
 「日本人の方ね。日本人はお菓子の講義ばかり取られるのよね。それはなぜかしら。
彼女の為に、今期のお菓子のセクションはまだ空いているの?マダム・ブルエ?
日本ではお菓子のセクションのプロモーションばかり熱心にやっているのかしら?不思議だわ。」
 私の方を向いて尋ねる事もなく、勝手に彼女の中で話が完結し、日本人は自動的に
<日本人イコールお菓子のセクションに入る人種 >となっているらしい。
 「いいえマダム、マダム・キクカワは当校の全てのカリキュラムに登録されております。
その為の全ての授業料は先週の金曜日までに既に入金が済んでおり、支払い完了になっております。
 こちらが、それらの件に関してプリントアウトした用紙です。」
 「全てのカリキュラムって? 調理のセクションも製菓のセクションもってことかしら?
つまり両方共ということよね?」
 「それに関しては、先程直接マダム・キクカワに確認いたしました。マダム。」
 クラシック・ボブの女性はマダム・ブルエに手渡された、先程私が確認した登録と入金確認に関する
書類に目を通しながら、不思議な事を言っている。
 極東にある遠い日本から、本場フランスの歴史や美食学を含めたレストラン業及びホテル業の真髄を
学ぶ為に、長期フランスに滞在するのだから、食の中核をなす<料理・調理 >の講義はもちろんのこと、
それに付随する一連のコース料理の流れの中でデザートのポジションにある<製菓 >の講義、
<料理>は単体では成り立たず、相乗効果をもってより味のバランスを高める大切な相手方である
<ワイン及びアルコール>の講義、<食>をテーマに、より効果的にお客様の感情を心地よく高める為の
<サービス・テクニック>、テーブルを華やかに彩る<フラワーアレンジメント>や銀食器やお皿の知識、
その他音楽や建築、室内内装、経営など、<レストラション・レストラン業>に関する学ぶべきことは
ありすぎるほどあるのだ。
 全ての物事は単体では成り立たず、複合的な様々な表情を見せる多面体であり、奥行きがある。
その上、表と裏まであるのだから、物事を様々な角度から冷静に比較・検討し、
事の真実・本質を見抜き、見極める目を養い、さらに研ぎ澄ます為には
<真実・真髄>の現場に身を置くことが大切だ。これが私のかねてからの持論である
 それらの分野において最高の物がこのホテルリッツに全て揃っているのだから、
これを最高のチャンスとして漏らす事無く学ぶ為に、ここに入学手続きを取ったのだが、
どうやら、この様子だとこの女性とは見解が異なるらしい。なんだかだんだんと心配になってきた。
 クラシック・ボブの女性は、突然後ろを振り返り、くすんだグリーンの知性的な大きな瞳で
私の目を真っ直ぐに見ながら
 「エクスキューズ・ミー、******************。」
 と、当然のように流暢な美しいイギリスアクセントの英語で話し始めた。
 その様子を、彼女の瞳を見つめながら、私が理解しているのかいないのか確認もせずに
一方的に意味の解らない見事な英会話が一段落ついて話終わるまで、黙って静かに見守った。
 やがて、彼女の話が終わりに近ずく、
 「マダム、申し訳ございません。英語が解らないのでもう一度、フランス語でゆっくりと
話して頂けないでしょうか?完璧ではございませんが、ブルゴーニュで一年半滞在し、
フランス語を勉強しておりますので、ゆっくりと丁寧に仰って頂ければ理解出きると思います。マダム。」
 突然、フランス語でものを話し出した日本人にびっくりした様子である。
 どうもここでは、日本人は英語圏の民族と認定されているのだろうか?
16世紀や18世紀ではあるまいし、交通や通信が飛躍的にグローバリゼーションされた現代において
フランスにやって来た日本人が、片言のフランス語も話さないと、
ここのオフィスの人間は信じているのだろうか?
 <フランス文化とフランス人>をこよなく愛する<フランス贔屓>の外国人の私にとって、
<世界の羨望の的である美しきフランス文化>を現代においても、確固たる信念を持って
体現し続ける<ホテルリッツ>内で、<美しきフランス語の伝道者>であるべきフランス人が
いくら多国籍化されたといっても、外人と見れば無差別な<突然の英語攻撃>で先制を切るなんて
<美しいフランス語及びフランス文化>保持に躍起になっているフランス共和国やフランス大統領に
直接告訴したい位、由々しきことだと思われる。思わず、
 <マダム、ここはイギリス・ロンドンの‘クラリッジズ’でも‘コンノート’でもございませんよ!
  ここは、フランス・パリの‘ホテル・リッツ’でございます。マダム。>
 と、言いたくなる湧き上がる衝動を堪えた。
 マダム・マルウ''ィーヌは口元に微笑をたたえて、
 「フランス語をお話になるのね。素晴らしいわ。フランス語は世界で最も美しい言葉ですものね。
初めまして、ディレクターのマダム・マリー・ソフィー・マルウ''ィーヌです。
私たちの<エコール・ドゥ・ガストロノミィ・フランセーズ・リッツ・エスコフィエ、料理学校>へ、ようこそ。
貴方のような方をお待ちしておりました。
 ブルゴーニュはどちらにいらっしゃるのですか?マダム・キクカワ。」
 エレガントで穏やかな笑顔で、左足を一歩踏み出して近ずきながら握手を求めるために優雅に
右手を差し出した。
 「初めまして、マダム・マリー・ソフィー・マルウ''ィーヌ。
 マドモヮゼル・カズミ・キクカワと申します。ブルゴーニュはディジョン市に滞在しております。」
 差し出された右手に触れると、暖かく又力強く握り返されたマダム・マルウ''ィーヌの手は、
しっとりとしていて繊細で滑らかで、それでいてどこか骨太な印象だ。右手の指先の皮が硬く
なっているのは仕事上、物を書いたりする機会の多いペンダコなのだろう。仕事をしている
知的なプロフェショナルな大人の女性の持つ手だ。
 手と顔はその人の生活と人生を表すというが、私もこのような手を持つ女性になりたいと思った。
 「ディジョン市ですか?それは素晴らしい。
 あちらは古くから11世紀初頭からブルゴ-ニュ公国の首都として栄える美食の街ですものね。
同時に芸術の都としても発展し、フランドルから大勢の芸術家や彫刻家が招かれて創られた
歴史ある建造物や絵画が街の生活の中に馴染み、自然と芸術や建造物に対する造詣も深くなります。
現在のディジョン美術館は元ブルゴーニュ公の宮殿で、後期ゴシック様式のフォルジュ通りにある
シャンベラン館やミルサン館などの素晴らしい建築にも、日常的に触れる事が出来ますものね。
 ブルゴーニュ大学のある大学都市として有名ですし、通われたのはブルゴーニュ大学ですか?
滞在先は大学寮か下宿していらしたのかしら?マダム・キクカワ。」
 博識で知的な外見は決して見掛け倒しではなく、ディジョン史がすらすらと語られるのに驚いた。
 「はい、そうです。最初は学部生の大学寮にいたのですが、すぐに現在お世話になっている
ブルゴーニュ大学の法学部教授、IUT大学英語教授のピッチオ夫妻のお宅でホームステイさせて
頂いております。」
 「素晴らしい環境ですね。貴方はこのフランス滞在で幸運の女神に微笑まれているようですね。」
 マダム・マルウ''ィーヌは優しく微笑みながら頷いている。
 「私もそう思います。素晴らしい人々に恵まれております。
 活字や写真では知りえることの出来ない実生活の中で、フランス人の勤勉さや優しさ、エスプリに
触れる事が出来ました。マダム・ピッチオは言語教授なので、言葉の不自由な私に生活の中で
正しいフランス語を身に着けるように常に配慮して頂いているのですが、
時々、言回しが堅苦しいとよく友人に言われます。
おかげで丁寧な言葉の<Vouvoyerあなたを用いて話す。>のは、出きるのですが。
聞いたり、使ったりする機会の少ない<Tutoyer 君・お前を用いて話す。>は、躊躇し苦手です。」
 マダム・マルウ''ィーヌは話を聞きながら、小さく笑っている。
 「私の娘もまだ幼いの、貴方のホームステイ先のような素晴らしい言語環境に育ったら、
美しいフランス語を身につけられるのかもしれないわね。
あぁ、それと、一つお聞きしたい事があるの、よろしいかしら?マダム・キクカワ。」
 「何でしょうか?マダム?」
 マダム・マルウ''ィーヌは大きな黒いデスク越しに、腕を伸ばしてマダム・ブルエから先程の
登録確認と入金確認の書類を受け取り、それらに目を通しながら再び私に視線を移した。
 「こちらで確認すると、当料理学校の全カリキュラムに既に登録されていますね。
調理の全セクションそれと製菓の全セクションそれで、いいのですね?」
 「はい、マダム。結構です。」
 なぜ、ここで再度確認されるのか、理由が解らない。つまり、彼女は何が言いたいのだろう?
ホテルリッツで全ての講義を受講するのを目標に今まで色々と努力してきた私にとっては
全登録は当然の事なのだが、彼女の質問の真意が解らない。返答を続ける。
 「私はこのホテルリッツで<レストラション・レストラン業の真髄>を単体ではなく、
トータルに実践で学ぶ為に、入学いたしました。
 <食・料理>の流れの中に、コースの一端を担うハーモニィとして<製菓>があります。
 <食・料理>を見ずして<製菓>は出来ません。全体の流れを見なくては理解した事にはなりません。
 そう信じて全講義を登録致しました。マダム・マルウ''ィーヌ。」
 「わかりました。マダム・キクカワ。では、もう一つ、これは個人的にお聞きしたいのですが、
帰国されてから職業的に将来どうされるおつもりですか?」
 これについては、尋ねられる事を予想していたので、用意しておいた答えを答える。
 「いずれ、自分自身で資本金を作り、株式会社組織にして<レストラン・サービス>の仕事をしたいと
考えております。でも、その一番大切な先立つ物がないので、資本金を作る元本をどうすればいいのか、
それさえもまだ掴んでいないんですけれども。」
 <お金もないし、あてもないのに、大きな事を言ってるな。>と自分自身言いながら、
ちょっと照れて笑ってしまった。
 それに対して、マダム・マルウ''ィーヌは真剣な表情で頷きながら、
 「わかりました。それはいずれ叶うでしょう。
その為には、まず最初に自分自身に対して明確なコミットメントを掲げることです。
まず最初に的確にかつ、客観的に現状を判断し、必要なものとそうでないものを識別し、
そうでないものを削ぎ落としていくのです。そして、コミットメントに到達するまであきらめないことです。
到達するために最短の道を探し出し、それを昇っていくのです。もたもたしてはいけません。
人生は短いのです。動けるときに動くことを忘れてはいけません。
<最善にして最速で>がここのルールです。これは、ここで働く人々の口癖です。
 最初は夢でいいのです、夢を見たからこそ、夢が叶うのです。そうでしょう?マダム・キクカワ。」
 <そうでしょう?>と言われても・・・・・・・・・・・。
 <ウィ、はい>と即答は簡単には出来なかった。
 それが、即答出来るときは、現実に自分自身の夢が達成し、安定期に入った後に過去を振り返って
人前で告白できる場所まで来た時だと思ったからだ。そうでなければ、
その場限りの意味のないものになってしまう。私はまだ、スタートラインにさえ立っていないのだから。
 「その通りだと思います。その日が来るまで心にしっかりと留めておきます。
ありがとうございます。マダム・マルウ''ィーヌ。」
 それを、聞くとマダム・マルウ''ィーヌはニッコリと笑って、彼女は左腕にしている惹き付けるような
美しさの<ピアジェ>の時計に目を落した。
 「もう、五時過ぎだわ。会議の用意をしなくては、
今度、マダム・キクカワとお会いできるのはいつかしら?」
 マダム・マルウ''ィーヌは振り返ってマダム・ブルエに尋ねた。
 「3週間後の金曜日の午後六時半より<ブルゴーニュ地方>のワイン講座がはじまります。」
 「その時までに、彼女の必要な書類を用意できるかしら?マダム・ブルエ。」
 「はい、それまでには用意いたします。」
 マダム・マルウ''ィーヌは再びこちらに振り返る。
 「初めてのワイン講座を受講される前に、書類を取りにオフィスに立ち寄って頂くのでいいかしら?」
 「はい、それで結構です。マダム。」
 答えながら、小さく頷く。
 「ワイン講座の講師は当ホテルのレストラン<エスパドン>の主任ソムリエ、
ムッシュー・デュボワが努めます。気品漂う広間<サロン・ドゥ・セザール>で行われるので
美しい夕べになりますよ。」
 そう言いながら、マダム・ブルエが用意してくれた深いコバルトブルーに金のホテルリッツの紋章の入った
上質の厚紙で出来た見開きのファイルに簡易在学証明書を入れて渡してくれた。
 「ありがとうございます。では、金曜日の午後にうかがいます。それでは、失礼致します。
マダム・マルウ''ィーヌ、マダム・ブルエ。」
 今度は、私の方から右手を差し出し二人に握手を求め、二人はそれに笑顔を持ってこたえた。
その力強く握り返された温かいぬくもりのあるその手を好きになりそうな予感がした。
 マダム・マルウ''ィーヌは私の為に硝子の扉をゆっくりと開き
 「さようなら、3週間後の金曜日にお会いしましょう。マダム・キクカワ。
楽しいパリでの時間をお過ごしください。」
 穏やかな笑顔を向けながら、開かれたドアへと導くような優雅な仕草で右腕を私の肩に軽く触れた
 「ありがとうございます。マダム・マルウ''ィーヌ。
今度からは、マドモヮゼル・キクカワと呼んでください。<マダム>と呼んで下さるのは、
私に対して、未婚・既婚を問わない敬称を用いて頂いているのは理解しております。
でも、<マドモヮゼル>と呼ばれるのが好きなのです。
 このホテルに住んでいた偉大な<マドモヮゼル・ココ・シャネル>も<マドモヮゼル>と
呼ばれておりましたし、彼女もそう呼ばれるのが好きだったと子供の頃に読んだ本に書いてありました。」
 「そうでしたね。彼女も<マドモヮゼル・シャネル>でしたね。分かりました。
今度から、そうお呼びしましょう。さようなら、よい午後をお過ごし下さい。マダム・キクカワ。」
 「ありがとうございます。さようなら、マダム。」
 さようならの挨拶を交わし、硝子のドアが静かに閉められた。
 歩く人の姿のない、遠くで微かに流れるようなハープの音色以外、音の存在しない静寂と
ひんやりとした清潔な空気に包まれた、美しく長い廊下の上質な絨毯の上に一人立ち、
左腕の<オメガ>に目を落すと午後五時半を指そうとしている。
 黒いタキシードの男性に導かれてこのオフィスまで辿り着いたので、
ここから回転扉のある正面玄関までどのように行けばいいのかわからない。
とにかく、地下から歩いて来たのと反対に向かって、
深いコバルトブルーに金色のホテルリッツの紋章の入った、厚手の上質紙で出来たファイルに
挿まれた在学証明書をしっかりと手に持ち、真っ直ぐに姿勢を正して歩き出す。
 今、一歩一歩を踏みしめている、この美しくも長い廊下を
<マドモヮゼル・ココ・シャネル>は、1971年1月10日厳しい寒さの日曜日、
シルクのパジャマを着て、ホテルリッツの彼女の部屋で87歳の人生を終えるその日までの三十年間、
ホテルリッツの裏手にある、<カンボン通り31番地>彼女の店まで、毎日を歩いて行ったのだ。
 二十世紀、彼女が歩いた廊下を 二十一世紀の今、私が歩いている。
 <彼女の触れる物は皆、黄金にかわる。>とまで言われるほどの才能とエスプリを持ち、
巨万の富を手に入れるほどに世界的に成功した彼女が、
選びきれないほどの選択が他にもあったというのに
彼女を心酔させ、三十年に渡りここから彼女の心が離れる事を許さず、終の棲家として選ばせた、
このホテルの<見えない何か>が知りたい。
 それは多分、セザール・リッツの晩年に全身全霊をかけてこの<ホテルリッツ>を創立し、
人生をかけて築き上げてきた<セザール・リッツの見えないエスプリ>なのだ。
 そして今日ココ・シャネルを心酔させた、その見えない<セザール・リッツのエスプリ>を
学ぶチケットを手にしたのだった。




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3eme

セザール・リッツのエスプリを学ぶチケットを手に入れた日

ココ・シャネルに会いにパリのホテルリッツまで