「料理学校の事務所に行きたいのです。どこにありますか?」
 「料理学校・・・?あぁ、学校ですか、マダム、私の後について来て下さい。」
 そう短く答えると、正面玄関から長く延びた廊下を踵を返して右の廊下に折れ、行き止まりまで
行き着くと、天井まではりめぐらされ美しく磨き上げられたガラスの壁を、右手で銀製の大きなトレーを
掲げたまま、いきよいよくガラスの壁を押し出した。
 魔法がかけられたように大きなガラスは奥に押し込まれ、燕尾服の美青年はその中に入っていく。
 私も彼を見失わないように素早くガラスの向こうに入り込むと、宮殿のような空間とは別世界の
白い蛍光灯の光に照らされ、タイルの上にステンレス台の並ぶ誰もいない調理準備の作業所のような、
現実感漂う空間が現れた。
 「マダム、さぁ、こちらですよ。」
燕尾服の美青年は左側の奥まった所にある大きな年季の入ったブルーのエレベーターの扉の前で、
こちらを向いて待っている。急いで彼の横に並ぶと、美青年は黒いボタンを押し扉を開いた。
 「マダム、こちらにお乗り下さい。」
 彼は空いている左腕を優雅に動かして、使い込んだ業務用の大きなエレベーターの奥へと
私を案内する。彼に導かれるまま、奥行きのあるエレベーターに乗り込むと、私の後から乗り込んだ
美青年が前方のボタンを押し、<ガタン>と機械音が響き、微かに左右に身体が揺れると
機械音をたてて地下へと動き出した。
 エレベーターの後方から、美青年の美しい燕尾服の後姿を観察する。
 上等で仕立ての良さそうな製法と材質。光沢のある燕尾服を一式持ってみたらかなりの重量が
ありそうだ。それに、美青年は誰も見ていないようなエレベーターの中でも背筋を伸ばして
長さ50センチメートルはありそうな重い銀製のトレーを片手で肩より降ろすことなく絵になる
美しい姿勢を保っている。
 王子様のようにエレガントで素敵なのに、根性も体力もあるなんて流石だと感心した。
 <ガタン>と振動があり、あちらこちらぶつかった傷のあるブルーの大きな扉が開く。
 「マダム、こちらです。」
 急ぎ足の美青年の後に続き、再び無人の作業所のような空間を通り抜け、歩く人の姿の見えない
無人の長い廊下に出た。
 白い蛍光灯に照らされた白いタイル張りの長い廊下を右に折れ、真っ直ぐに歩くと廊下の右手に
扉のない入り口のような場所があった。
 美青年はその前で立ち止まり、左手を優雅に入り口に向かって差し出した。
 「ここが学校です。素敵な午後をお過ごし下さい。マダム。」
 「どうもありがとうございました。ムッシュー。」
 本当にここが学校か釈然としないままに美青年にお礼を告げると、彼は急ぎ足で5メートル先の
廊下の左手の入り口に消えて行った。
 小さな入り口のすぐ奥には白く塗られた無人の狭いカウンターがあるが、大人が二人も入れば
身動きも取れないような狭さで、とても事務仕事のできるスペースではない。
 カウンターの上に数冊の料理学校のリーフレットが置いてあるので、どうやらここが学校らしい。
 すぐ右手の白いドアが開いたままになっているので覘いて見ると、タイル張りの四十畳から五十畳の
広さの部屋は、掃除したばかりのような洗剤と消毒液の匂いがして,水で流したばかりのタイルが
まだ乾いていない。入り口から死角になっている部屋の隅のタイルをモップがけしている作業着の
黒人男性が1人おり、私の視線に気付いたようでこちらを振り向き視線があったのだが、
直ぐに顔を背けてしまい、何も見なかったようにモップをかけ続けている。その中肉中背の黒人男性の
背中は突然迷い込んできた得体の知れない異邦人を沈黙の姿勢で拒んでいるようで、
とても声をかけられそうな雰囲気ではない。
 カウンターを挟んで、左手の閉じられた刷りガラスがはめ込まれたドアをノックし、静かに開いてみる。
 右手の部屋のスペースのおよそ半分から三分の一の12畳あるかどうかの無人の空間に、
中央を占拠するように設置された大きな大理石の調理台と何も置いてない調理用の
ステンレスのラックがあるだけで、まだ火を落してから間もないオーブンの外気からの熱気と
換気されきらずに焼成した時の匂いが部屋中に残って漂い、低い低音の巨大冷蔵庫のモーター音が
静かに鳴り響いているだけだ。
 ゆっくりと静かに刷りガラスのドアを閉めて、再びカウンターの前に立ち、どこかに呼び出しようの
モニターかベルがないかカウンターから身体をせりだして内部を覗き込むが,
表から見えないカウンターの内側に白い内線用の電話が一台置いてあるだけだった。
 もう一度看板か何か表示が出ているか確認の為、廊下に出て入り口を見回してみると、
入り口の真上のタイルの上から細長い白いパネルにブルーの筆記体の文字でさりげなく、
<エコール・ガストロノミー・リッツ・エスコフィエ ・(リッツ・エスコフィエ・料理学校)>と掲げてある。
 確かにここが学校なのだろう。
 多分、先程の燕尾服の美青年が魔法のようにガラスの壁を押し出して、
ここまで導いて来てくれたように、もしかしたら、どこかに隠し扉があるのかもしれないと、
タイル張りの壁やカウンター、左手の刷りガラスの入ったドアを挟んで両脇にある
料理学校オリジナル製品のコックコートやエプロン、料理学校の印が刻印された包丁などの
調理道具が展示してあるガラスのはめ込まれたショーウィンドーを大真面目に両手で押してみても、
どこも開くはずなどなっかった。
 ほかに尋ねる選択の余地がないので、先程右手の部屋で一人掃除をしていた黒人男性に
声をかけようと、覘いて見ると全ての掃除がなされ、彼の姿は消えてしまっていた。
 誰か廊下を通り過ぎる人はいないかと、白熱蛍光灯に照らされた左右に長く伸びている廊下を
見回してみても人の姿はなく、入り口右手の廊下の天井に設置されているセキュリティーの
黒い監視カメラのレンズが、入り口付近に焦点を当てて作動していることに気が付いた。
 とりあえず、五つ星ホテルの中を一人であてもなくうろつくより、監視カメラに見守られてここで
いずれ通るであろう誰かを気長に待っていたほうが良さそうだ。それに、カウンターも左右の部屋も
電気が点いたままなので、いずれ誰かが戻って来るに違いない。
 左腕の腕時計を見ると約束の二時半を超えて、三時十分を過ぎてしまっている。
 正面玄関の回転扉を通ってからもう四十分もの時間が過ぎ去り、未だホテルの中で行くあてを
探しているのだ。
 <.ここで、こんなに時間が取られるとは思わなっかった。
ディジョン市から出て来たばかりで、今日泊まる先も探してないのに.>
と監視カメラのレンズを見つめながら考えていると、
 「こんにちわ、マダム。」
 突然、しっかりとした明るい男性の声が聞こえた。
 そちらに振り返ってみると軽やかな笑顔の黒いタキシードを着た琥珀色の髪の男性が、
5メートル先の先程美青年が消えていった入り口のところでこちらを向いて挨拶しながら、
肩よりも高い位置で右腕を高く掲げて銀製の丸い大きなトレーに同じく銀製のティーポットを三つ載せ、
反対方向に急ぎ足で真っ直ぐに歩いていく後姿が見えた。
 <今度はあの男性を捕まえなくては、ずっとここに一人になってしまう!>
 小さくなっていく急ぎ足のタキシードの男性を全力疾走で追いかける。
 突然、廊下に高く鳴り響きだした靴音に気がついて、立ち止まり私の方に驚いた様子で振り返った。
 「マダム、廊下を走ってはいけませんよ。ここはパリの公道と一緒です。スピードの出しすぎは事故に
なりますよ。」
 彼に追いつくと、身長170センチメートル程のタキシードの男性は、栗色の大きな瞳を縁取るように
隙間なく生えた,髪の色と同じ琥珀色の長いまつ毛が印象的な整った顔の前で、空いている左手の
人差し指を左右に振りながらたしなめるように注意する。
 「ごめんなさい、ムッシュー。あなたを見失ったら、行く先のわからない廊下で一人、
ずっといなくてはならないかと思って。料理学校の事務所がどこにあるか教えてください。」
 「料理学校?料理学校はあちらですよ。マダム。」
 三つのティーポットを大きな銀のトレーを肩より高く掲げたまま、空いた左腕で大きく先程の
学校の入り口を指し示した。
 「でも、約束の時間は午後二時半なのに誰もいないのです。」
 「約束の時間を守らないのはリッツの中であるまじきことです。マダムは誰とお待ち合わせの約束を
したのですか?」
 急いでカバンの中から、先週郵送されてきた入金確認の手紙を見ながら答える。
 「ディレクターのマリー・ソフィ・マルウ''ィーヌ夫人です。」
 「マダム・マルウ''ィーヌですか?一階の彼女のオフィスまでお連れします。
ティーポットが冷えてしまう。急ぎますよ、マダム。さぁ、こちらです。」
 男性は大きな歩調の急ぎ足で歩き出した。振り切られないように彼の後を小走りについて行く。
 「マダム、マダムは料理学校に入学しこのホテルに通うのですか?」
 少しも歩くスピードをゆるめず、前を向いたまま彼が尋ねる。
 「はいムッシュー、料理・製菓・ワイン・フラワーアレンジなどここで学べる全てのカリキュラムに
登録したので一年以上ホテルに通うことになると思います。」
 靴音を響かせながら、小走りに黒いタキシードの背中を追いかけながら答える。
 「それはすばらしい、ここには最高のものが全てあります。あなたは最高の環境で最高の教育を
学ぶでしょう。それには一番最初に忘れてはならないことがあります。マダム、ここはホテルリッツです。
 決していかなる時も廊下を走ったりしてはいけません。いつも、例え誰も見ていなくても、
姿勢を真っ直ぐに正して、エレガントに美しく歩いてください。
 さぁ、マダム今から初めての実践レッスンです。靴音をそんなに高らかに響かせないで、
小走りに走るのはやめて、エレガントに急ぎ足をしてください。」
 「はい、ムッシュー。」
 競歩のように走らず、背筋に力を入れ背中を正し思いっきり胸をそらしながら急ぎ足を心がける。
 「マダムは、あの学校の入り口まで、どのようにしてたどり着いたのですか。」
 なれない競歩のような急ぎ足で、少し息を荒げながら答える。
 「正面玄関の回転扉の前で、行き先もわからず立ち尽くしている時に左手のサロンから
燕尾服を着た王子様のようにエレガントで美しい男性が現れて、大きな魔法のガラスの扉を通って
案内してもらいました。」
 黒いタキシードの背中がふいに廊下を右手に折れ、急いでその後に続き1メートルも行かないうちに、
また直ぐ再び右手に折れると、そこからのスペースはどこか古びた宮殿の狭い廊下のような内装で、
タイル張りではなく、長年そこにひかれ続けられたような磨り減った絨毯の上で、彼は空いている左手を
優雅に動かして、空いている白いエレベーターの中へと私を導く。
 「さぁ、マダムこちらにお乗り下さい。」
 急いでエレベーターの中に乗り込むと、私の後に続いて彼が静かに乗り込み白いエレベーターの扉を
閉じた。先程の業務用の大型ワゴンも乗り込めるような大きなエレベーターではなく、
大人が4・5人乗れば一杯の普通のサイズで、白を基調に見事なクラッシック内装で閉じた扉の内側は
扉一面に大きな鏡が取り付けら、扉の真上には5センチ程の小さな穴に黒い監視カメラ用のレンズが
隠しこまれていた。隅々まで清掃が行き届き清潔なのだが、どこか小まめなメンテナンスが
なされていないような感じだ。これも裏方の社員専用の特別なルートらしい。
 鏡の前に背筋を伸ばして、美しく絵になる姿勢で立っている彼の立ち姿と、決して肩より下に下げない
かなりの重量のある銀食器を乗せたトレーを持つ右手右指の仕草を真似してみると、
普段使っていない筋肉がつれて痛いことに初めて気付いた。
 「燕尾服を着た、王子様のようにエレガントで美しい男性ですか?誰かな?」
 扉の大きな硝子越しに、私の方を見ているのに気が付いて慌てて彼の真似をするのをやめる。
 「はい、背が高くて金髪で、碧眼の大きな瞳の王子様のような男性です。」
 彼はそれを聞いて、小さく頷いている。
 「金髪・碧眼ですか。それはシュミットですね。王子様だなんて、本人が聞いたら大変喜びますよ。」
 静かにエレベーターが止まり、ガラス張りの扉が開く。
 「こちらになります。私の後について来てください。」
 エレベーターを彼の後について降りると、通路の右側がお客様からお預かりしたコートやジャケットを
保管しておくようなクロークらしいスペースがあり、目の前にはずっしりと重そうな豪華で織りの素晴らしい
カーテンが豊かなドレープを形どって閉められている。
 黒いタキシードの男性は空いている左手でカーテンを少し開くと身体を滑り込ませるようにして、
カーテンの向こうに消えて行き、私も同じようにして彼の後に続いてカーテンの向こうに出た瞬間、
どこからか豊かに漂う柔らかな甘い花々の香りにふんわりと包まれ、耳に微かに流れるような
ハープの音色が聞こえてきた。聖堂のように高い天井には磨きこまれたクリスタルの
大きなシャンデリアが優しい柔らかな輝きであたりを照らしている空間が目の前に広がり、
非日常的なあまりの美しさに立ち止まってしまう。
 「立ち止まって、眺めている時間はありませんよ、マダム。こちらです。」
 先程と異なり囁くような彼の声に振りむくと、三メートル先にこちらを振り向いて立っている。
 「すいません。ムッシュー。今行きます。」
 小走りにならないように注意しながら急ぎ足で追いかける。
 広間を彼の背中を見失わないように左折すると、歩く人のいないどこまでも果てしなく長い、
穏やかな光に満ちた美しい廊下に出た。 
 はるか遠く、両側の廊下の果てまで何十もの硝子のウィンドーケースが平衡して一直線に並んでいる。
一つ一つのケースの中には滑らかなクロコダイルやオーストリッチの高級カバン、
スイスのレマン湖の畔で名工によって卓越した技術で手作りされる高級時計など、
世界の一流ブランドの数々の装飾品が、魅力ある演出で飾られてある。
 右側は一面の壁に沿ってケースが置いてあり、左側からは硝子のケースの切れ目ごとにある窓に、
透けるように薄く白いレースのカーテンが天井から流れるように豊かに掛けられており、
カーテン越しに溢れるほどの真夏の午後の日差しが挿し込んでいる。
 目の前を急ぎ足でエレガントに歩く、黒いタキシートの背中が突然立ち止まった。
 「ここが、マダム・マルウ''ィ-ヌのオフィスです。」
 そう告げて、指し示したのは左側の両面開きになっている大きな磨きこまれた硝子のドアの前だった。
 「ここが、事務所なんですね。お忙しいお仕事の途中、案内して頂きましてありがとうございました。」
 「いいえ、全ては貴方のためです。また、とても近いうちにお会いしましょう。マダム。」
 さりげない爽やかな笑顔をみせて、彼はまた真っ直ぐに急ぎ足で廊下の向こうに小さくなって行く。
 その後姿に私は静かに頭を下げて礼をした。
 歪みのない磨きこまれた鏡のドアの前に立つと、全身の立ち姿と背後のウィンドーケースの中に
魅力を最大限に引き出す為に計算しつくされた配置と演出で飾られた、
シックで高価なイタリア製の帽子の数々が映りこんでいる。
 左腕の腕時計で時間を確認してみると、もうすぐ三時三十分を指そうとしていた。
 約一時間の遅刻だが、ホテルの内部で迷子になり遅れた言い訳を考えている暇はない。
 <やっと辿り着いた。これからが本番だ。>
 右手をしっかりと硬く握り締め、磨きこまれた大きな鏡のドアをゆっくりと間隔をおいて二回ノックする。
 しかし、何も返答は返ってこない。もう一度、大きく二回ノックし、しばらく待ってもやはり物音一つ
聞こえてこない。
 <本当にここが事務所なのか?>
 と立ち止まったまま、考えているだけでは何も始まるはずなどない。
 ディレクターのマダム・マルウ''ィーヌが在室しているのかどうか確認する為に、
とにかく行動しなくてはと、鏡のドアに縦に長く取り付けられている金色の豪奢な取っ手を手前に力一杯
思い切り引いてみるが、びくとも動かない。
 再び今度は、全体重をかけてより力強く押し出すと、想像もしないような軽やかさであっさりと内側に大きく開いてしまい、勢い余って重厚なドアの重力に引きずられドアの内側に飛び込んでしまった。
 


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2eme

料理学校はどこですか?

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