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               八
 
「・・・行成様、行成様・・・お目覚めになられましたかな?」
 気持ちよさそうに眠っている行成の肩にそっと手をやる晴明。
「此処はいったい・・・ああ・・・晴明殿」
 そう言うと、行成はゆっくり身体を起こした。
 
 いつから眠っていたのであろう・・・そう徐公の酒を二杯空けたのであった・・・
 その後目覚めたのではなかったか?
 何かとても大事な事があったような気がするが・・・
 
 晴明には、行成の混乱している気持ちが手に取るように解った。
だが、解ったところで言うことは同じである。
 
「如何されましたかな? 夢でもご覧でしたか」
 晴明の言葉だけが行成に現実を告げるもの。
「すっかり眠ってしまったようですね・・・一体どのくらい眠っていたのでしょうか」
 頭の中はまだまだ混乱していたが、一応”眠っていただけ”という晴明の説に素直に
従う行成。
「”夢想は高舂(こうしょう)に到る”と。《高舂:午後四時頃『文草』巻第五 三七三》
余程お疲れだったのでしょう。雨が激しく降っても一向に御目を覚まされる様子もござ
いませんでしたから。ぐっすり眠られて日頃の疲れ取れましたかな?」
 時を聞いて思わず驚く行成である。晴明の言うことが正しければ、招待に与った邸で
一刻余りもの時間眠っていたことになる。
「・・・そんなに時間が経っていたとは思いませんでした・・・ぁあ、疲れの方は取れ
ているようです」
 行成は、詰まりながらも言葉を繋ぐと、何とかいつもの平静を装う。
 
 部屋の中に吹き込む風は、幾分ひんやりして草木の青い匂いが強く香っていた。
強い雨が降った後特有の匂い。
 
 
 
「行成様、ご覧下さいませ。ほれ大きな虹が四明岳(しみょうだけ;比叡の山)の方に
向かって架かっております」
 晴明のその声に、行成は簀子(すのこ)へと出てみる。
「なんと、見事な・・・」
 行成の澄んだ瞳に、鮮やかな七色の虹が映っていた。
だが、晴明が見詰めていたのは、その虹よりなお美しいその漢の清浄な心根であった。
 
 
 虹は、天界と地上を繋ぐ橋。
 その姿は大蛇の化身。
 
 歪んだ時空で起こった出来事は、歪(ひず)みが正された今、人々の記憶から葬り去
られていく。あの行成のお手本も、菅公の怨情も、大蛇の姿もすべては異界の彼方へと。
 この世の事は皆夢であり、現(うつつ)もすべて夢のなかにある。
 それこそが、この幽明の理。
 この”通りの良い”漢なら何れ知ることになるであろうが。
 人のこころにも、神のみ心にも”通りの良い”漢。
 生まれついて神に愛でられしもの。
 
 
    心だに 誠の道に かなひなば
             祈らずとても 神や守らん
                         (菅原道真)
 
 
 
    いざ尋ねむ 人生(いのち)とは夢か 
      暗く時は流れ 黄金の幻はかすか
 
    滂沱たる涙にくれ はた他愛なくはしゃぎて
      われらただ駆けめぐる
 
    満面に笑み浮かべ 短き日楽しめど
      思はずや 沈黙の幕(とばり)くだる夕べを
                  (L・キャロル『シルヴィーとブルーノ』より)
 
 長いながい夢物語は、遙遙の彼方へ・・・




   ここまで読んで下さいました読者のみなさま、ありがとうございました。
   鴈の宿の拙い知識をなんとか継ぎ接ぎしながら漸く〈完〉に至ることが出来ました。
   これも偏に読者のみなさまの温かいご感想あればこそ。
   トンデモない間違いをかましている所もあるかとは思いますが、出来れば多めに見てやって
   下さいマシ。m(_ _)m

   行成さんの人となりはよく解りませんが、ただこの話を書いていて感じた事がひとつ。
   それは”通りの良い”漢(おとこ)であるということ。
   能吏であるとか、シニカルなユーモリストであるとか、陰翳を背負っていたとか、彼については
   色々な形容がありますが、管理人が一番強く感じたイメージはこれ。
   まっ、人それぞれ色んな感じ方があるでしょうから、それはそれってことでしょうが。
  
     こんな駄話、お気に召して頂けましたならば幸いです。