雷  電  柘  榴  譚 (らいでんざくろたん)
                   
                   
 
   
 ここ数日の雨も漸く上がり、雨露に濡れる南庭は、久し振りの陽差しに照り輝いていた。
 草木を渡る風は清々しく、生命(いのち)の息吹に満ち溢れている。
池の面を震わせ、木々の枝に遊び、草花を揺さぶる風。
 庭の中で、一際目立つ柘榴の木も、風に枝を揺らしていた。
耳を澄ますと、その度に、まるで鈴拍子が聞こえてきそうだ。
 枝にたっぷり付いた緋色の花は、筒状の萼(がく)のせいで小さな鈴のように見える。
この大きな柘榴の木は、今まさに燃えるが如く赤く咲いて、見る者の心を捉えていた。
    
─鈴の音に、鈴の花か・・
 
 そんなことを思いながら、身舎(もや)の御簾越しに座す男が一人。
その男が高欄(勾欄)に掛けた裾は、風に靡(たなび)いて気持ちよさそうだ。
翻る萌葱色と、白い狩衣の対照が美しい。
 だが、この男が際立って見えるのは、鮮やかな色彩のせいではない。
他の追随を許さない一種独特な雰囲気と、美麗な容貌、それに朝露を含んだようにしっとり
濡れた紅い唇。その全てが、この男を他の人間とは違う、際立った存在にしていた。
 この男─安倍晴明、陰陽師である。
 
 ゆったりとした午後の時間が、流れていく。
    
 簀子縁(すのこえん)、南廂(ひさし)と抜けて来た風は、庭に面した身舎の御簾をそよ
がせて、甘い荷葉(かよう)の匂いを香らせる。
「いろいろと、陰で動いて頂いたとか。 弟共々世話になりますね」
 御簾越しに話し掛けてきたのは、この邸の今の主である東三条院詮子であった。
 ここ土御門第は、もともと道長の北の方(妻)、源倫子の邸であったが、今は道長の姉で
あり、一条帝国母、皇太后詮子の御所となっている。
「女院様にあらせられましては、この度のこと大事に至らず、まこと幸いでした。
その後のお加減を、気に掛けながらも、なにぶん煩わしき雑事に追われ、伺候が遅くなりま
したこと、この爺に免じてお許し下さいませ。本日はまた鹿蹄草(ろくていそう)、徐長卿
(じょちょうけい)などお持ち致しましたので、食後に煎じてご飲用頂きますれば、養生に
一層の効果が上がられるかと存じます」
 晴明が差し出したのは、諸毒疾病に効果があると言われている薬草であった。
「貴重な漢薬を持ってきて頂いたようですね。ありがとうございます。
それにいたしましても・・・」
 思わず詮子はクスッと笑う。
「そのような言われ方されても、一向実感が湧きませぬ。貴方様は、わたくしが未だ幼き折
邸へお訪ね下さいましたときより、余りお変わりではありませんもの」
 その声は、幼い子供のように嬉しそうだ。晴明の顔もほころびる。
「そう仰る女院様も、道長様とご一緒のところを東三条第にてよくお会い致しましたときと
変わらず、いつまでも輝いてお美しい。時姫さまにますます良く似ていらっしゃった」
 それを聞く、詮子の様子は満更でもない。
「まあ、貴方様に言われると、お世辞でも嬉しいですね」
 二人にとっては、昨日の事のように思い出されるその日より、既に二十余年の歳月が流れ
ていた。
    
それより更に数年前、初めて晴明は道長に会っている。
兼家に、道長誕生の寿ぎを申し上げたときのことだ。
 そのときの晴明は四十代半ばであったが、二十歳そこそこの若者にしか見えなかったとは
後の書物にも有る通りの不思議な話である。
 詮子も言うように、晴明は実際の年齢とはかけ離れて若く見える容貌ではあったが、その
醸し出す雰囲気は、若者の持つそれとは全く違っていた。
 この男を人をして位階より重く用いらせるのは、美麗な姿かたちや所作によるのではなく
その壮重な存在感と卓越した業によるものである。
 そんな晴明に、当朝の人々は貴賤を問わず、稀有の陰陽師として絶大の信頼を寄せていた
が、無論詮子もその例外ではなかった。
 ただ詮子は、諸手を上げて晴明の力を礼賛するようなことはしない。
 父兼家がまだ右大臣であった頃から、近しく晴明を見ている彼女は、いつになく殊勝なそ
の男の様子に、この来訪には”ご機嫌伺い”よりもっと深い理由(わけ)が有ることに薄々
気付いていた。御簾という羅(うすもの)様の壁を隔てた中から、秘めたる”思い”を抱え
た男の様子に、じっと目を凝らす。
   
そんな詮子の眼差しに答えて、晴明が言う。
「この爺の悪巧み、気付かれてしまいましたかのう。」
 口元には微笑を浮かべつつも、その目は笑っていない。
「先日、とある人物の元で、偶然妙なる音を耳に致しまして。それはそれは、美しい鈴の音
でございましたが、程なく時空の静寂(しじま)の中に消えてしまいました。
その後は、黄泉の国より迎えが来る前に、何とかあの音を存分に聴きたいものだと思いなが
ら、叶えられずに過ごしておりました」
 一端言葉を切ると、晴明は庭の方へと目を向ける。
 陽射しも吹く風も相変わらず心地よいが、周りの空気には僅かに、先程には無い緊張感が
漂っていた。 男の話に、周りの全てが耳を澄ましている。
 暫しの沈黙の後、また静かに話始める。
「ところが今朝方、賀茂別雷社(かもわけいかづちしゃ)《賀茂の上社;下社である賀茂御
祖(みおや)神社と共に、平安京四神の青竜にあたる賀茂川流域にあり、京の鎮め・守りの
神として位置づけられる》からの帰り、こちらの御屋敷の前を通り掛かりましたところ、果
たせるかな、あの妙麗な鈴の音が聞こえて来るではありませんか。それで、公務以外は”呼
ばれてもなかなか来ぬ爺”が、こうして珍しく早くやって来たというわけです」
 ”爺”というには程遠い容貌であるのに、こうして話す雰囲気は正しく”好々爺”そのも
のであった。
     
晴明の話術に、側仕えの女房のみならず、詮子までもが引き込まれている。
 思わず脇息から身を乗り出すようにして、訊ねた。
「その音色とやら、どのようなものなのですか?」
「まさに”仙楽を聴くが如く 耳暫く明らかなり”というものでございます。
 《白居易『琵琶行』より; 如聴仙楽耳暫明 【意訳】天上の楽 かくあらん》
ただ、こちらから今朝方聞こえて参りましたその音は、内裏で聴きました時とは少し違って
妙麗な中にも、何処か誰かを待っているような凄凄とした響きがございました」
「・・・そのように素晴らしい音が、この邸から・・・それなら何故この邸に居るわたくし
は、今まで聴いたことが無いのでしょう? 恐らく、わたくし以外の人間でも、この邸でそ
のような音、聞いた者など居ないと思いますわ。それ程までの音色なら、聞き逃す筈が無い
でしょうに」
 詮子は、少しばかり意地悪な表情を浮かべて、晴明に問いただす。
 だがこの男は、飄々として顔色一つ変えない。
「それは、女院様のお心が、この音に共鳴していないからでございます。
この”天上の音”耳で聞くのではなく、心の琴線に触れて始めて聞くことができるもの。
其れ則ち、仏法でいうところの”昼間の星”の如く」
 晴明の言葉は猶も続く。
「想念が、可聞の状態に同調致しましたとき、必ずやその音色耳にすること叶いましょう」
「では、どのようにすれば貴方様が言われるように、同調できるのですか?」
 詮子は半ばムキになって、音を聞くことに拘る。
 既に、晴明の術中に填っているとも知らず。
「さりとて、なんの行も修(ず)す事無くその音を聞きたいとあらば、何か特別な手段を講
じ無ければなりませぬなあ。もし、その”音”聞くこと能いました曉には、ひとつこの爺の
頼みを聞いては頂けませんでしょうかな?」
 相手の心が、”音”を聞きたい思いで一杯になるのを楽しんでいる晴明。
    
其れでも、詮子は何とか冷静を装った。
「わたくしに出来ることで有れば」
「勿論でございます。 わたくしの頼みとは、その”音”の原因になっているものを二、三
日で結構ですので、お借り出来ないかと、唯それだけでございます」
「して、そのものとは何なのでしょう?」
「先程の”とある人物”の手蹟でございます。 しかも、女院様がつい最近御手に入れられ
たもので、菅丞相(かんのじょうしょう;菅原道真)の詩が書かれたものかと存じます」
 それを聞いて、表情を微妙に変える詮子。
「まあ、その内容まで良くご存じですこと。 昨日届けにきたばかりですのよ」
 ゆっくり脇息から体を起こすと、繧繝縁(うんげんべり)の畳の上で居ずまいを正す。
 それから、側にいた小侍従に、厨子棚の上の”例のもの”を取らせた。
「貴方様が望んでいらっしゃるものは、これでしょうか?」
    
 御簾越しに晴明に渡されたのは、一冊の粘葉装(でっちょうそう)【注1】の冊子本。
舶載から紙の瑠璃色に具引きしたものに、四蝶菊花菊唐草文の刷りを施し、さらに金の砂子
・切箔・野毛を撒(ま)いた豪華な表紙。
 中身もまたすばらしく、淡い薄萌黄の漉(す)き染めした鳥の子紙に、雲母砂子(きらす
なご)を撒いたもの。そこに流麗典雅な手蹟で菅公の詩が数扁。
 これが幼児に持たせる『手習いのお手本』とは驚きだ。
 まさに摂関家の力を象徴するような、珠玉の一品である。
 
「道長の北の方が、鶴(たづ)君《倫子所生の嫡子、後の頼道》のために、そろそろ手習い
のお手本を持たせたいと申していることを、耳にしたのですよ。でも道長に頼んだところで
朝政の慌ただしさに紛れて、どうせ後回しにされるだけ。邸のことで世話になってもおりま
すし、可愛い甥御のためにもと、代わりに頼んでおいたのです。忙しいときに重なって無理
をさせたようなのですが、不足な顔もせず、評判に違わぬ美しいものを届けてくれました」
 詮子の話しぶりは、輝く自信に満ち溢れていた。   
 それとは、対照的に『お手本』を手にする晴明の表情は堅い。
 頁を捲る毎に、やるかたない溜息が漏れる。
その溜息の理由(わけ)は、勿論その『手本』の手蹟のすばらしさにもあったが、むしろ権
門の力を背景にしたの女院の話し方や、贅を尽くした装丁とは対極にある菅公の寥怨(りょ
うおん)を思ってのことだった。
    
─およそ”攻遂げ 身退くは天の道也”と言ったのは、何時のことか。
勧請されたがっているのは、翰林学士(文章博士の唐名;道真を指す)だけではないらしい。
 晴明がそんなことを思っていようとは、この場の誰も気付くまい。
 思いと裏腹な満面の笑顔で、周りの人々を安心させると、望みの物を与えてやる。
「まさにこれこそ、わたくしが欲しておりましたもの。流石は当代きっての手書にございま
すなあ。それでは早速、先程のお約束通りみなさまがたに”天の音”お聞かせ致しましょう」

 
 しっとり濡れた紅い口唇に載るのは、密教のマントラ《真言》。
 手には素早く印が結ばれ、心は三摩地《悟りの境地》に飛翔する。
「オン マイタレイヤ ソワカ オン マイタレイヤ ソワカ・・・」
 寝殿内に張られた結界のなかは、一瞬にして浄土の世界に変わった。
そこでは、サラスブァティー(美音天)が天上の楽を奏で、千種の花が散る。
      
だがそれは、晴明が聞いた”音”ではない。
 取りあえず、詮子たちを納得させるために勧請した弥勒菩薩の兜卒天(とそつてん)に
よって現出されたもの。
 こうして、彼らには別に用意した”音”を提供する。
 それはそれで玲瓏な音であるし、詮子たちを満足させるには十分過ぎる代物だ。
 晴明には、自分が聞いた”音”を聞かせるつもりなど、はなから無いのだ。
 どのみちこの場に集まっている人間に、同じ”音”を聞かせたところで、その美しさを真
に理解することなど、とうてい無理な話。
驕慢(きょうまん)な都びとに、菅公の耽美的感傷主義を理解しろ、というのと同じように。
 
 晴明が聞いた”音”を奏でたのは、冊子本に書かれた文字の一つひとつ。
書いた人の、霊性そのままに清澄な文字。
 菅公の御霊(みたま)が呼応したのは、同じように白詩に共感し、己の生くべき道に懊悩
しつつも能吏を勤める男の誠実さと、純粋さにもよるのであろう。
 晴明の耳には、天津神(あまつかみ)を喜ばせ、鬼神を慟哭させる神聖な音色が聞こえる。
 ただ、予想以上にその音に集まる力が増幅しているのは問題だ。
そのために、晴明はここへ来た。
   
虚栄の世界に在る人々が、見せかけの極楽に遊ぶさまは、都の幻影そのものだった。
 だが、恍惚と陶酔に支配された空間は、魑魅魍魎が跋扈する世界でもある。

 
 桃源郷に心を満たした人びとを後にして、晴明は土御門第を出た。
弓のような月を伴にして。
 その手には、何時手折ったのであろうか柘榴の枝と、詮子より借り受けた『手習いのお手
本』。 後に能書家としての名を欲しいままにする─藤原行成の手になるものであった。
 今宵の月明かりは、都の闇を照らすにはあまりに弱々しい。
 吹く風が、遠くから菅公の寂寥の思いを運んでいた。
 
   
 口戯貪憐誣犯限  口には憐れを貪ると戯れつつ限(さかひ)を犯すひとを誣(そし)る
 眼偸臨望叱窺堂  眼は臨望を偸(ぬす)みつつ堂を窺(うかが)ふひとを叱る
        《意訳 ;彼ら権勢家は、口では風流人を気取ったようなことを
            言いながら境界を犯す者を誣(そし)り
            眼は眺望を独占しながら廷内を窺う者を叱るのだ》
 
             (菅原道真『菅家文章』「遊覧偶吟」(巻四・二五六)より)
 
 『お手本』は透明な音霊(おとだま)を天空に放つ。
 菅公だけでなく、その眷属(けんぞく)をも魅了しながら。
 
     【注1】粘葉装;装釘の一つ。冊子本を作るのに見開き分の一紙を二つ折りにし、
         その外側の折り目に近いところを糊で継いでいく方法。従って、見開き
         分が一つの紙のところでは全部開くが、外面の、見開きが二紙にわたる
         ところは糊代の分だけ開かない。中国では、この様子が胡蝶に似ている
         ので胡蝶装ともいう。


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