- はじめに一言、喋らせて!
-
旧藤枝宿は現在昔の地区割でいうと15の地区に分けられる。昔(江戸〜大正、昭和初期)は東海道筋がもう少し細かく地区分けされていたようだが、今回は混乱するのでカットして話を進める。
行政も日進月歩で各地区の区画整理や耕地・ほじょう整備が整って、それに伴って街区住居表示も改められた。(例えば藤枝○町目△番地□号みたいな奴だな) 今でも私は、いやおそらく原住民は皆そうだと思うが、この住居表示で言われても"ピン"と来ないのである。「えっ?どこどこ??」見たいな感じで、隣の地区でさえも判り難いのである。
旧地区表示は現在、自治体の町内会・自治会の区分でも残っている。コレは藤枝町に限らず青島や広幡などすべての地区について同じである。 したがって、小中学校の子供会やPTAの地区割も旧地区毎で分けられている。いい換えれば"新しい街区住居表示"は単に便宜上のもので、実生活の中では未だに"昔からの地区表示"で付き合いが続けられているということになるのか? だから、○丁目△番地よりも「市部の横町だよ。」とか「左車の大正小路だよ。」の方が解りやすいのであろう。 では、現在残っている藤枝町15地区をご紹介しましょう。
栄 /旧東海道の藤枝宿の西端-
旧東海道の藤枝宿の西端。 瀬戸川の勝草橋から元清水橋交番までの街道沿いの地区。 現在は藤枝1〜2丁目である。
平成15年度に新しい「勝草橋」が完成し、道路拡幅のために街道筋は取り壊し&新築ラッシュである。 また古き面影がひとつ消えてなくなる。。。
木町 /旧東海道の西側、栄のお隣-
旧東海道の西側の栄のお隣。街道から北へ伸びる瀬戸谷街道沿いに広がる地区。 世帯数では現在2番目。古くから人口密度は高めの地区である。瀬戸谷街道は現在茶町の街区表示。 名前の通りお茶の問屋さんが軒を連ねている。 木町の名前からも、かつては材木屋も結構たくさんあったのだ。 現在の表示は茶町1〜4丁目。
この地区には「月見里」と書いて「やまなし」と読ませる神社がある。 なんでも「周囲に山がなく、月がよく見える場所」という意味なのだそうだが、昔の人は何とも洒落たネーミングを考えたモノ〜
原 /木町の北側-
木町の北側。 瀬戸川の金吹橋までの地区。清水さんや藤枝総合運動公園もこの地区に含まれる。 現在の街区表示は音羽町。
清水山が「音羽山・清水寺」(京都も静岡も同じ)という真言宗のお寺なのでこの町名が付いたらしい。 10〜20年程前は見渡す限りの田園地帯で、人家は殆ど無かった。 音羽町の区画整理が終わり、一転して住宅街にその姿を変えた。 したがって、比較的外から藤枝に移り住んだ人が多いのも特徴。 住宅街の中にアパートなどもたくさんある。
上伝馬 /清水橋交差点から大谷川までの街道筋-
旧東海道の清水橋交差点から大谷川までの街道筋。 商人街である。 名前でも分かるように、昔は伝馬と呼ばれる馬の中継所みたいなのが、各宿場に置かれていた名残である。 藤枝はこの伝馬が2箇所あって、もうひとつは「下伝馬」である。 街道筋だけであるため世帯数は少ない。 現在は藤枝3〜4丁目と表示。
高度経済成長時代は華やかな商店街であったが、時代の流れと共に後継者も少なくなり、シャッターが降りたままの店や一般住宅に立て替えてしまうお店が目立つ。 地区の真中に「おしんめさん」(神明神社)がある。 また、隣の千歳との境に古刹「大慶寺」があり、境内の「久遠の松」(くおんのまつ)は文化財。 なんと、樹齢700年以上の黒松なのだ。 ちなみに"市の木"はこの「松」である。 また、商店街でも力を入れている「まとい祭り」もここが舞台。
小坂 /上伝馬の北側一帯-
上伝馬の北側一帯。 木町と挟まれた地区である。 現在は藤枝3丁目。 世帯数は範囲が狭くやはり少ない。 藤枝の民話に登場する「おにかきいし」がある有名なお寺、真言宗「鬼岩寺」がある。
昔この地区に住んで住民に悪さをしていた鬼を、弘法大師が通りかかって穴に閉じ込めて成敗した時に、鬼がもがいて苦しんでつけた爪痕が残る岩が「おにかきいし」。 毎年8月後半に花火大会がこの鬼岩寺で行われるが、この鬼が再び世間に出てきて悪事を働かないように、大きな音と光で驚かしておくという意味合いから行われている(住職から直に聞いたので間違いない!)。
益津 /栄の南側から上伝馬の南側一帯の地区-
栄の南側から上伝馬の南側一帯の地区。 現在は藤枝1・4丁目の表示。 昭和30〜40年代戦後復興から高度成長時代に「新地」(しんち)と呼ばれていた華街のあった地区。 赤線廃止までは遊郭があり、昔は賑やかな所だったらしい。 今でも何処となく古びた旅館風の建物が残っていたか? とにかく少し前まで(私たちが幼少の頃)はなんとなくそんな風情が感じられた地区なのだ。 また別に述べるが、藤枝地区住民が氏子である、志太平野最古の社「飽波神社」(あくなみさん)が祭られているのもこの地区。
千歳 /街道筋、上伝馬の東隣-
街道筋、上伝馬の東隣。 北側は現在の蓮華寺池公園の反対側にある若王子グリーン団地、藤枝東幼稚園付近までの地区。 昔は街道筋に職人がたくさん居たそうだ。 グリーン団地の造成や宅地が増えて、世帯数も昔に比べて飛躍的に多くなった。 栄から東に伸びる街道筋の商店街が、この辺で一休み的に数が減るのも職人町の名残からか?? 街道筋に植樹されたハナミズキが、桜の後を追うように咲いて綺麗である。 現在の街区表示は藤枝5丁目、若王子1丁目。
旧藤枝市役所はこの地区にあった。 現在は「シルバー人材センター」になっている。 また、その近くに藤枝を代表する古い洋館が立っている。 とんがり屋根が目印で、なんともモダンなつくりである。 そのまた近所に「若王子神社」という神社がある。 社の裏から蓮華寺池公園に抜けられる。
元市役所の横の「池」には、昔は常に"なみなみ"と綺麗な湧き水が満ちていた。 鯉や鮠(はや)・鮒(ふな)・メダカ・カメなども住んでいて、市民の目を楽しませたものであった。 また別の項目で紹介している、「藤枝大祭」の主役である"各地区の山車の車輪(松の大木の輪切り・直径60〜80cm)"を、通常の保管では乾燥でひび割れや品質の著しい劣化が避けられないため(大祭りは3年ごとだから!)、この池に錘(オモリ)を載せて沈めて保管してあったのだ。 現在は藤枝市の公共下水道工事やその他の影響もあって、地下水脈の変化などで年々湧水量が減り枯れていることが多い。 今では"山車の車輪"は、瀬戸川近くの湧水地や田中城跡(西益津小中学校)近くの「姥ヶ池」(ひょうたんいけ)などに保管されている。
長楽寺 /街道筋、千歳の東側一帯-
街道筋、千歳の東側一帯。 名前の通り「長楽寺」という臨済宗のお寺がある。 この地区も範囲は狭く、又、旧西益津村との境でもあり、世帯数は少なめ。 今もすぐ目の前の藤枝小学校には通わないで、旧西益津住民はわざわざ遠い西益津小学校へ通う? 現在は本町1丁目である。
藤枝の民話にこのお寺にまつわる物があるのでご紹介しよう。
その昔長楽寺に住む綺麗な娘に恋をした一人の青年が、毎晩娘に会いに長楽寺に通っていた。 ある日娘の親が「好青年だが、いったい何処のダレだろう?」と、コッソリと青年の袖に糸をつけた。 翌日糸を辿って行くと、糸の先はなんと青池(国道1号線沿い、みどり町付近にある現在の青池公園)の中へと続いていた。青年は青池の主・大蛇であることが発覚!(◎o◎)。。 娘が可愛い両親は、大蛇に「二度と娘に近づかないで〜〜」と懇願。 しかし娘を熱愛してしまった大蛇には思いを断ち切ることが出来ず、「せめて、私が通った糸の道は、川に残していただきたい・・・」と言い残して娘を諦める。 それから青池に続く細い川を「糸引き川」といって、今でもその道筋は残っている。 そんなロマンチックなお話。
岡出山 /益津南側から長楽寺南側の国道1号線まで-
益津の南側から長楽寺の南側の国道1号線までの地区。 藤枝市役所はこの地区にある。 世帯数は各地区の平均位か? 名前の通りに「岡出山」という山がある。 私の知人に「代官山」に匹敵する高級住宅街!!と豪語する輩がおるが無視して宜しい(^^;;; この地区の表示は現在岡出山1〜3丁目。
この山は公園になっていて、山続きで前述の長楽寺の墓地を経由してお寺に抜けられる。 山の頂上には「忠霊塔」が立っていて、かつての戦没者がひっそりと奉られている。 昔はこの頂上に鉄骨の見晴台があって、その天辺からは藤枝の町が一望できた。かつては滑り台も併設されていて、子供の頃はそのなんともヒッソリとした雰囲気も手伝って、格好の冒険スポットであった。 当時、見晴台の天辺には時間を知らせる藤枝市のチャイムがあり、午後5:00になると大音量で"キンコンカンコン"鳴り出した。 近所の子供達は母親から「この音が鳴ったら帰って来い!」といいつけられていた。 老朽化とともに取り壊され、今はない。
白子 /街道筋、長楽寺の東隣一帯-
街道筋、長楽寺の東隣一帯の地区。 街道筋だけの狭いエリアなので、世帯数も下から数えた方が早い。。。 昔からの商人の町である。 先住民族が大多数を占める。 現在は本町2丁目。
かつては「ほていや」〜「ユニー藤枝白子店」(現在はヒバリヤ)を中心に商店街を構成していた。 その昔ここにアーケードが設置された時には、すごく都会的に感じた覚えがある。 藤枝の天狗祭りを商店街が中心になって盛り上げている。 ここも御多分にもれず、郊外型大型店の進出による影響や不景気のせいか、昔ほどの賑わいはなく、生活密着型の小規模な店が建ち並ぶ。 かつては上伝馬と並んで、藤枝の二大商店街として繁栄していたのだが・・・
この白子のすぐ南側の国道1号線までの間に「郡」(こおり)という地区がある。 場所柄藤枝宿に近いため、本来は西益津地区ではあるが、夏祭りやその他の付き合いで藤枝地区と西益津地区の中間的な地区となっている。
下伝馬 /街道筋、白子の東側一帯-
街道筋、白子の東側一帯。 スーパー富士屋までの地区。 現在は本町3丁目。 白子と連続しているが、アーケードに気をつけて歩いていくと、途中で看板やタイプが変わるのが解ると思う。 白子の商店街名は「藤枝名店街」下伝馬の方は「本町商店街」としっかり別れているのである。 世帯数はやはり少ない。
先ほど述べた二つの伝馬。 何故東京に近いほうが「下」なのか?? 歴史は古く、京都が国の都の頃から藤枝は栄えていて、京都に近い方が「上」なのである。 伝馬を意識してなのかしないでなのか解らないが、奉行所の出先機関・番所(交番)が、上伝馬と、下伝馬に現在も置かれているのは単に偶然か?? この旧東海道と交差して、大手(昔、田中城の大手門があったためこの様にいわれる)から葉梨街道が北へ伸びる。
かつてこの交差点は藤枝最大のバスターミナルで、交差点そのものがバスのロータリー兼ターミナルになっていた。 付近には自転車預かりなども営業していて、すごく賑やかな交通の要所であった。 もちろん静岡鉄道の営業所もあって、手荷物預かり・定期券販売・その他売店などなど・・・藤枝で一番大きな映画館も存在した。 そういえば上伝馬にも、千歳にも昔は映画館があったが、今ではその面影はまったくない。
市部 /白子・下伝馬の北側一帯-
白子、下伝馬の北側一帯。北側は千歳とも隣接している。 現在は天王町1〜3丁目。 前述の葉梨街道筋もこの地区。
広範囲に渡っているため、同地区でも3つの地区(本市部・横町・前原)に細分化されている。 藤枝小学校を境に千歳と入り組んでいる部分もあり、東側は下伝馬や、後述の左車とも入り組んでいる。 世帯数もビッグ3に入る大所帯。 "ジュビロ磐田・ゴン中山"の出身校、高校サッカーで有名な藤枝東高等学校もこの地区にある。
藤枝の夏祭りで昔から子供たちが楽しみに参加している「お天王さん」(八坂神社)が祭られている地区である。 古くからの住民が殆どなのは新たに開発された住宅地がなく、昔から世帯数が比較的多い地区であるためであろうか?
五十海 /市部地区の北側-
難読漢字No.1であろう! 市部地区の北側、葉梨村との境までの広大な地区。 現在は五十海1〜5丁目、天王町1丁目である。 現在の五十海2〜3丁目はチョット前まですべて田んぼ。。。移住者が多く住む。
音羽町と同様に昔は殆ど見渡す限り田んぼだった所が、近年住宅地に変わり著しい世帯数の増加があり、現状は1番か2番か?? 名前の通り昔はその殆どが手を付けられないような沼地→50の海。 口の悪い人は「いかるみ」ではなく「ぬかるみ」と呼んでいた程。。。 今ではすっかり様変わり、閑静な住宅街に変貌している。 地区内に第1から第3まで比較的大きな公園が3つもあるのは、この地区くらいであろう。 地区内に「原木神社」がある。
左車 /東海道・藤枝宿、東の出入口-
東海道・藤枝宿、東の出入口。 世帯数はやはり少なめ。 現在は本町4丁目、大手2丁目、天王町3丁目の表示。 藤岡団地入り口付近に昔は「木戸」があって、夜間の通行の制限を行っていた。
"左の車"などとヘンテコな町名だが、これにもしっかり由来がある。 建長4年(1252)に嵯峨天皇の第一皇子、宗尊親王が鎌倉将軍に就くため御東下の際(鎌倉へ行く途中)この町に差し掛かった時、乗っていた御所車の車輪トラブルでピットイン。 壊れた左の車輪をこの地区に住む大工職人たちが協力して修復したので、たいそう喜ばれたといわれている。 現在この地区の「成田山・藤枝別院」の裏手にある「おしゃもっさん」(左車神社)に祭られていると聞いたことがある。
この事からも分かるように、この地区には昔大工職人も多く、現在蓮華寺横の「郷土博物館」に展示されている「田中城」の建築図面なども、当地区の大工職人宅(実はマンキの家)から発見された。 やはり先住民族が殆どの地区である。 他に「あたごさん」(愛宕神社)も祭られている。