- 「第一部」マンキ の " 勝草物語 "
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実はこと、勝草橋には結構深く関わって、それなりに思い入れもあります。旧橋の保守補強工事や撤去工事という、一般の人には関係することが出来ないことに直接携われて、なんだかちょっと嬉。自慢かな?(^_^;)v
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- 勝草橋の歴史の補足
《架け替え関連工事に直接携わったマンキの独り言》 -
橋を架け替えるにあたって、工事の順序として平成12年度の前期に仮橋の設置工事、12年度中期に仮橋へのアプローチ道路の設置、平成12年度後半に旧橋の撤去工事、平成13年度には新しい橋の下部工事の半分(志太側の橋台と栄側の橋脚)、平成14年度に下部工事の残り半分(栄側の橋台、志太側の橋脚)、平成15年度の7月完成を目処に上部工事が発注されました。
要するに、今までの交通を妨げないように、先に仮橋を作り、そこへの仮道を作る。 交通を迂回させた状態で旧橋の撤去、新しい橋の下部工、上部工という工事の流れになるということだ。 マンキは上記の工事のうち、仮橋へのアプローチ道路(仮道設置工事)と旧橋撤去工事(解体)を担当いたしました。
仮道設置工事は大変な苦労をいたしました〜 「現道(旧東海道・バス路線)を通行止めにするのは罷りならん!」「片側交互通行での開放も駄目!」という関係機関からのお達しで、交通を生かしながら仮道へ切り替えていくということで、工事方法にも、安全対策にも気を使いました。
コレには当然、余計な経費も掛かり、こちらの面でも大変な工事でした。 度重なる区画線(道路のセンターラインや外側線)の書き換え、交通シフトの変更があり、警察との立会い、交通シフト変更に伴う事故防止対策など、いやはや本当に苦労しましたわ。。。 加えて工事中、通学路に当たる部分もあり、小中学校への連絡と対策、志太側の袂にあった歩行者用押しボタン式信号の移設の問題など。
栄側についてはしずてつジャストラインの「勝草橋」バス停の移動協議。 コレはもともと橋の東詰めすぐの所にあったわけで、今は無き「オリンピック焼き」のお店の真ん前にベンチと共にありました。 当然、仮橋に迂回する関係で、仮道は北側に移動、S字を描くようなカーブ道路で「バス停」を設置する余裕などあるはずも無く、「バス停」は栄側の坂を降りきった所に移動となりました。 当面は工事が終わるまで(平成15年まで)の暫定的な措置ということで、静鉄の運行係の方や、バス停移動先の近所の方と協議が成立し移したわけですが、この場所が定着?してしまい、新しい橋が開通した現在でも工事のため移動した場所に「勝草橋・バス停」は設置されています。
一般通行する方にとって工事は単なる迷惑行為でしかない訳で、加えて近隣(特に商売をされている方)に理解を求めながら進めていかなければならないなど、頭痛の種の多い現場でした。。。 単純に仮橋への迂回路を作るといっても、地下埋設物(上下水道、ガス、電話)の切り回しや切り替え、マンホールの高さ調整など、細かい業務も多く、すべてを頭に入れて工程を把握、シフトチェンジのタイミングもあり、工期厳守のホントにホントに苦労の連続でした〜
そんなこんなで、仮橋&仮道が出来上がり、数回の夜間工事を含めて仮橋交通へ完全にシフトを切り替えたのであります。 続いて発注された「旧橋撤去工事」も今は無きマンキ所属の会社が落札し、工事の主任技術者&現場代理人はマンキ。 いざ、準備も進み取り壊しに着手しようとした段階で市の担当から「待った」が掛かります? 地元や関係機関の要望で「さよなら勝草橋」的イベントを企画&実施することになったから壊すのを待てとのこと。。。
実際、このイベントは大層な盛り上がりを見せて、オリンピック焼き(昔、橋の袂で売っていた黄金饅頭のようなモノ)の復活や勝草餅などの販売もあり、行列が!! マンキも藤枝市からご招待に預り、このイベントに参加いたしました。 記念の冊子には別記する記事(現在の橋の高欄に書かれているのも)の詳細や懐かしい写真がたくさん載っていました。 皆さんにも見て頂きたいのですが、無断転載する勇気はチョット・・・
イベントも無事終了、市民の皆様も慣れ親しんだ「旧・勝草橋」ともお別れを済ませたところで、工期も無く忙しい状態で旧橋の撤去工事のスタート。 工事期間中、多くの一般市民の方が「写真撮影」に訪れました。 車道橋は鉄筋コンクリートと高欄に洗い出し仕上げの曲面を活かしたデザイン。 鋳物の飾りが施されていました。 その鋳物飾りを「下さいな」「チョウダイなぁ!」という一般市民が後を絶たず・・・ しかし役所からの指示で公平を保つ意味も含めて、全て市が保管管理するということで「ごめんなさい、あげられません」と毎日のようにお断りをしてました。 中には「どうせ処分するのに、何故くれない!」と怒り出す方もいらっしゃいました。。。
この飾りをよく見ると、中間部に二つネジの穴の様なものが開いています。 近所の年配の方に伺ったところ、戦前の飾りには太い鎖がつながれていたそうで、戦争時に鉄不足から旧日本軍に接収され熔かされてしまったとか? 穴はその鎖がつながれていた名残だとか??
市役所の担当者も、何せ古い橋なので当時の図面が一切残っておらず、想定断面(概観での想定)で取り壊しのボリュームを算出しているという。 そこで壊しながら測量&断面計測、詳細写真撮影、配筋状況(鉄筋の組まれた状況)を調査して欲しいと依頼されました。
旧橋の橋脚(ピアと言う)はP-1〜P-8まで8基あり、マンキの所属していた会社では過去数回にわたってこの橋脚の根固め工事(補強)を行なってきました。 これらのコンクリートのボリュームもかなりのもので、それに加えて附近を「捨石(すていし)」と呼ばれる大きな石で補強してあったりと、掘削するだけでも結構大変でした。 すべて取壊しが完了し、橋の構造図をCADにて製図して、最終的な取壊しボリュームを算出したのですが、会社が倒産した際のドタドタで、マンキが描いたCADデータはどこかに消えてしまいました、、残念。。。 残っていれば、この場で公開できたのですが、ホントに残念ですわぁ〜
取り壊しの際、橋の袂に将来ポケットパークを造り、そこに記念として飾る目的で「橋の高欄の一部と柱を壊さずに撤去せよ!」という難しい注文が市役所より入りました。 専門業者と色々考えた挙句、橋に穴を開けてそこに太いワイヤーを通し、吊養生をして大きな(直径1m以上)コンクリートカッターで切って取り壊すという手法で、欄干のストレート部分と両袂にあったアール状の欄干、両詰めにあった柱を壊さないように撤去しました。 公園に飾る目的の物は現在、蓮華寺池公園の郷土博物館の裏手に保存(仮置き)してあります。 その他は市の資材置き場に保管されています。
- 「第二部」勝草橋で発見!
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2003年7月にリプレースされた「勝草橋」ですが、普段は車で「ビーッ」と通り過ぎてしまい「綺麗になったナァ〜」程度にしか感じられませんでした。しかし先日子供達と歩いて渡ってみて、フト気が付いたことがあったのです。
高欄(こうらん)には勝草橋の詳しい解説があり、思わず読み耽(ふけ)てしまった次第。。 「これはみんなに読んで貰わないと勿体ない!」 そう思ったオイラは、この場を借りて紹介しようと思いました。
皆さんも是非、時間を見つけて歩きに行ってみませんか? 他にも身近な所に、ゴロゴロと"藤枝"が転がっているのかもしれないなぁ。。。
- ◇勝草橋の歴史
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勝草橋周辺は東海道の渡河地点であり、江戸時代には川越しが行われた。明治時代になり明治三年(1870)五月には川越しが廃止され、以後瀬戸川では渡し船と仮橋の二つの方法によって通行が行われるようになった。その後地元の有志から本格的な橋の建設を求める請願が静岡県に出され、明治八年(1875)十一月二十六日に初代の勝草橋が誕生した。
勝草橋は長さ五十二間、幅二間の木橋で、橋の中央には馬除け場が設けられていた。昭和になって交通の近代化が進むと、勝草橋も木橋から架け替え不要な鉄筋コンクリートの橋へと変わることになる。昭和七年(1932)七月三十一日に鉄筋コンクリートの新橋が竣工し、当時の新聞には「東海道の名橋 勝草橋の竣工 藤枝町の偉観」と紹介された。勝草橋は藤枝のシンボル的な存在とされ、橋上はお祭りや行事などの舞台となった。
しかしおよそ七十年もの間藤枝の近代化とともに歩んだ勝草橋も老朽化が進み平成十二年(2000)十月には架け替えのためその役目を終え、平成十五年(2003)七月に現在の橋に生まれ変わった。
- ◇勝草橋の名前の由来
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明治八年(1875)十一月に初代の勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となった。勝草橋という名前は旧幕臣の伊佐新次郎岑満(いさしんじろうみねみつ)が付けたものといわれる。伊佐は江戸幕府の時代に下田奉行所支配組頭として外国との交渉に当たるなど活躍し、唐人お吉の物語にも登場している。彼は明治維新によって徳川家に従って駿府城入りし、廃藩後には牧ノ原の茶園開墾に尽くすとともに、書道・漢籍に深く通じていたため旧幕臣の子弟らの教育にも当たった。前島の博習舎(はくしゅうしゃ)、志太の為善館(いぜんかん)でも教鞭を取り志太地域の近代教育の進興に努力した。
勝草橋の名前の由来は二つの説が伝えられている。一つはむかし田中城の兵が付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍(かちいくさ)橋といっていたのが縮まって、勝草橋になったという説である。もう一つは志太という地名が植物のシダ(羊歯)の読みと同じで、シダの異名を勝草と称することから志太橋という意味で勝草橋になったという説である。
- ◇瀬戸川の徒渡り(かちわたり)
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江戸時代に勝草橋周辺は東海道の渡河地点だったが、瀬戸川には橋が架けられず川越しが行われた。瀬戸川の川越し制度が創始されたのは江戸時代貞享二年(1685)に川原町に初めて川庄屋が任命されたときといわれる。瀬戸川の川越しは瀬戸川の徒(かち)渡りといわれ知られていた。越すに越されぬ大井川に比べて、瀬戸川は川幅も狭く水深も浅いので、徒歩で渡河することが多かったためである。
瀬戸川に面した両岸の河原町、志太村、稲川村には川越し人足十五人が常置されていた。参勤交代などの大通行の時には川越し人足のほか、付近の村々から助郷人足を動員して川越しに当たった。川越しに掛かる料金は川越し賃銭と呼ばれ、川の水深によって膝水・股水・乳通水・脇水・首通水に分けられ賃銭が決められていた。膝水八文、股水十六文、乳通水三十二文、というように水位の高さに比例して川越し賃銭は高くなっていた。
- ◇田沼街道
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勝草橋の志太側の袂から瀬戸川堤を百メートルほど下流へ行った場所は、田沼街道の終点であった。田沼街道は宝暦八年(1758)相良藩主になった田沼意次(おきつぐ)によってお国入りのために整備された道で、相良街道ともいった。城下町であった相良の湊橋(みなとばし)を起点として、相良・榛原・吉田の榛南地域を通り、大井川を小山の渡しで渡河して藤枝宿へ至る約七里(28km)の道であった。
田沼意次は幕府老中として権勢を誇ったが、政権争いに敗れて天明六年(1786)に老中を罷免され失脚し翌年には相良城も取り壊された。田沼街道は大名の通行路としてだけでなく、海岸部と山間部を結ぶ物流の道としても盛んに利用された。吉永や静浜で作られた塩を藤枝方面へ運ぶため行商人が往還したといい、田沼街道の内瀬戸谷川の橋は江戸時代には塩取(しおとり)橋といわれ、塩売り承認から税を納めさせた場所であった。江戸時代の田沼街道は近代の道路拡幅や区画整理などによって現在その面影をとどめていない。