秋祭りの舞台は『飽波神社』・その2
- お祭りの主役「山車(だし、やたい)」について。。。
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当然、主役の「山車」の準備も始まっています。 実は今年、新しい山車を新築する地区が二つあります。 「岡出山」と「下伝馬」です。 「岡出山」の新車?は現在お披露目も終わり、噂によると"遠州森町"で造作されたらしいです。 お金持ちが多いのか?立派な山車が完成したらしいので、本番当日お楽しみに! 「下伝馬」の新車は五十海にある地元工務店で造作中。(この工務店は「白子」及び地元の「五十海」の山車も建造した実績があります) 前回のお祭りの時にも、新造した地区が二つほどありました。 その他の地区も「山車」の備品(提灯や飾り)などのチェック、山車の試運転などを行い、大祭の準備に余念はありません。
「山車」についてもう少し触れておきたいと思います。 現在のように各地区から「山車」を出して引き回し、地踊りを踊るようなお祭りになったのは、明治時代になってからのようです。 大正時代に入ると、各地区とも「山車」の豪華さを競うようになり、屋根の上に歌舞伎役者の人形や、浦島太郎などの飾りを乗せて引き回す時代もあったみたいです。 昭和に入ると、道路には電線が張り巡らされ、豪華な飾りものを乗せた山車は運行不能になり、現在のような形の山車になりました。 戦後、何処の地区も大祭が終わると、次の大祭まで山車は分解して保存するのが普通でした。 車輪は"松の大輪"ですから、乾燥によるひび割れや変形を防ぐため、池に沈めて保存します。 現在でも車輪は同様に保存しますが、昭和50年代頃から各地区とも山車を分解せずに、そのまま車輪だけを外して保管するようになりました。 我々が小さい頃は、大祭りが近づくと各地区の公民館脇などで、地元の大工さんなどが「トンテンカン」と山車をくみ上げている光景が目に付き、幼心にワクワクしたのを覚えています。
「山車」の車輪についてですが、殆どの地区は現在"松の大輪"を使用しています。 当然自動車のように、ハンドルで車輪の方向が変わるような構造ではありません。 「舵棒」または「テコ棒」と呼ばれる太い丸太を、男衆が威勢良く押して無理やり?方向転換します。 この際に地面と擦れる大きな「ギィ〜」という音や、引き回しの際に車輪が回るたびに「ギィギィ」ときしむ音にも趣があります。 当日、意識して聞いて見てください! この"松丸太"以外の車輪を使用している地区が二つあります。 「長楽寺」と「左車」です。 所謂「御所車タイプ」の車輪で、舵はやはり「舵棒」で取るのですが、このタイプはしっかりと前輪が舵棒に連動して自動車のように方向が変わります。 以前(昭和50年代)には自動車のシャシーをそのまま山車に流用して、タイヤもそのままでハンドルつきの山車を引き回す地区もありましたが、現在は上記の二つの伝統タイプです。 特に「左車」地区では、この御所車タイプが伝統となっていて、町名由来でも触れたように、地区の紋(トレードマーク)もこの「源氏車」が採用されています。 前々回(平成7年)の大祭の際に、「左車」の山車はこの町名由来を地でいくトラブルがありました。 飽波神社での「奉納踊り」を終えて、方向転換をして出発する際に、なんと左の前輪がコンクリートの段差で破損してしまったのでした・・・
山車は2本のロープで引きます。 ロープの先端を「綱先」と呼びます。 2本のロープを目いっぱい伸ばした状態を「綱を張る」といって、この内側が縄張り的なテリトリーとして暗黙の了解があります。 従って、地区の法被を着用していない人や、他地区の人間が入り込むのはタブーとされていて、これが基で過去にも喧嘩に発展することもしばしばありました。 基本的に子供達は綱の先頭近辺につかせます。(勿論一番安全だからです) 大祭当日は交通規制がひかれますので、道の真中に山車を置き、道路いっぱいに綱を広げて引き回します。 この他にも、交通規制がなされて無い道路での引き回しでは、「交通係り」などの人も大変な働きをしますし、乗車中の芸人の世話をする係りなどもあります。 それからナカナカ大変なのが、山車のすれ違いや運行予定に沿った引き回しのための踊りのポイントや、山車の追い越しがあります。 これは「交渉員」と呼ばれる人が山車に先行して、他地区の交渉員とその名の通り交渉するのです。 その交渉結果を連絡員が、山車の側近にいる副団長や団長に連絡して、予定に沿った引き回しをします。 楽しいお祭りの中でも、いろいろなしきたりや、ルールがあって、それを団長を始めとするいろんな係りが各々の仕事をして、大祭が成り立ち楽しいものになるのです。 実際、皆さん普段の仕事よりも相当ハード見たいですナ・・・。
- 「山車」の上の世界
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「山車」を引き回すにはそれぞれ役割分担があります。 「山車」の中に乗り込むのは「芸人」と呼ばれる、三味線、笛、太鼓、鼓、上踊り(下伝馬、左車のみ)を担当する人達です。 山車の先端にはその地区の「青年団長」が乗り、威勢良く「ヤレヤレヤレヨ〜」と掛け声を掛けたり、停止、発進、方向転換の合図をします。 屋根の上には「屋根係」と呼ばれる4〜5人が乗って、頭上の電線のさばきや、民家の軒さきや看板との接触を回避するために仕事をします。 縁の下の力持ちならぬ"屋根の上の力持ち"達です。
当日、引き回しの際に無くてはならないにも関わらず、地元民以外という参加者も存在します。 「芸人」と呼ばれる人達や、地踊りの「師匠」さん達です。 「芸人」とは地踊りの伴奏をする三味線、太鼓、鼓、笛などの奏者と、長唄、小唄、素唄を歌う人達です。
各地区ごとで大変大きな違いがありますが、昔から山車に乗る「芸人」は、東京の歌舞伎座などでも活躍するような、一流の人達を招いて演奏してもらうのが殆どの地区の伝統です。 このような一流の芸人を呼ぶには大変な出費を必要とするため、一時期地元の半分素人芸人を採用したり、「レコード」を録音してテープで流すようなことも行われていました。
「地踊り」も各地区で、お祭りが近づくと地元の公民館などで練習が始まります。 この指導をしてくださるのが、日本舞踊の名取りの「師匠」さんです。 これも各地区でさまざまな流派の「師匠」に指導を受けています。 それから、各地区の参加者は勿論ですが、お祭りの間留守を守る人達も大事な「裏方」です。 主には地元の主婦や婦人会などが、他所から引き回してきた山車のもてなしや、ご祝儀を差し上げる役割があり、留守番もナカナカ大変な仕事です。