毎年あげられる、祭りの「のぼり」 

 大祭は10月初旬の日曜日が最終日になるように日程が組まれます。 初日は金曜日になるので、各地区とも午後一番に出発式を執り行い、初日の町内回りに出ます。 旧藤枝地区にある二つの小学校は、伝統行事でもある大祭参加に粋な計らいを見せて、初日は短縮授業で対応していただけます。 子供の頃、お祭りで早く帰れるのが非常にうれしかった覚えがあります。。。(^o^)

 話は少しそれますが・・・
 上の二つの小学校とは「藤枝小学校」と「藤枝中央小学校」です。 大まかに「藤小」が旧藤枝・益津、岡出山、千歳、長楽寺、白子、市部、五十海、下伝馬、左車地区の学区を指し、「中央小」は栄、木町、原、上伝馬、小坂地区が学区となります。 昔は「藤枝尋常小学校」のひとつでしたが、その後「分校(現在の中央小)」が鬼岩寺前に置かれて、西部地区の低学年の生徒が通っていたようです。 後に児童数の増加もありこの分校を「藤枝第二小学校」として西部地区の全児童が通うようになり、現在の名称「藤枝中央小学校」になりました。

マンキ自宅前の、のぼり旗 お祭りの時には日本全国で、大きなのぼり旗を立てる光景をよく見かけます。 ここ藤枝地区でも告知の意味を含めて、またお祭りの雰囲気作りに一役買っている風景であります。 近年このような行いは、田舎のお祭りには残っているようですが、こと都市部ではめっきり見かけなくなりました。。。 「飽波神社・祭典」でも以前は市内数箇所にのぼりが立ちましたが、現在は飽波神社入り口の鳥居脇に立つものと、他地区では唯一「左車」の濱小路に残っているだけです。 これは大祭の時だけでは無く、毎年立てられます。 早朝から近所の男衆総出で、拾数メートルある太い柱を人力で立てます。 そこに大きな白い木綿の布に筆書きされた旗を掲げます。 旗の端部にぬいぐるみの「猿」をぶら下げて、花ぼろ、榊、軒提灯で飾り付けて出来上がりです。 因みに左車の「のぼり旗」はマンキ宅で保管&管理しています。

 大祭は3年に一度行われますが、大祭以外の中2年は例祭として「神輿渡行(みこしとぎょう)」が行われます。 これは神社の祭神を奉った神輿を市中に引き回して、神社に参拝出来ない人たちが参拝できるように行われる行列です。 大祭直後の年は西回り、その翌年は東回りで旧藤枝地区を全て渡行します。 以前は大祭の年も行われていましたが、現在は大祭の年は各町内の山車の引き回しのみです。 例祭では渡行の際に、神社と2〜3箇所設けられた「ご休息所」に神輿を納め、宮司がお払い・ご祈祷をして、「浦安の舞」という踊りが奉納されます。 「浦安の舞」は各地区の小学5・6年生の女の子から2〜4名ほどが代表として選抜されます。 装束は神社の巫女さんのような”赤い袴”と”白装束”です。 大祭の年もこの「浦安の舞」は、神社奉納が行われます。
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『 神輿渡御 』について 

 志太平野最古の社とたたえられる延喜式内飽波神社は、御創建は仁徳天皇6年(西暦318年)旧藤枝一円の鎮護の神としてお祭祀りされて以来1682年の古い歴史を誇る神社でございます。

日頃氏神様(飽波神社)へ、氏子皆様の大勢の方々がご参拝なされておりますが、御例祭の時は、特に御祭神が町内へ御巡幸致され、氏子の安泰と町内の繁栄、地域内の生活の実情をつぶさに御照覧せされ、また、御都合で神社へ御参拝に来れない方々に、間近にて御参拝いただけますようとのことで、往時より大祭年以外の年、神輿渡御神事が斎行されてまいりました。

  本年も『本神輿・社宝』を輿丁(よちょう)と舞姫(まいひめ)により御所車にて、神輿による渡御神事として執り行われます。
  厳粛のうちにも活気溢れる神輿渡御は地域の振興に大きく寄与するとともに、賑やかな郷土の祭りを呼び戻すことになると信じます。郷土藤枝の長い歴史の中に育まれ培われ、祖先以来受け継がれてきた掛け替えのない民族伝統文化である「祭り」を後々まで長く受け継ぎ、伝え継ぎたいものと思います。

  尚、神輿渡御に関係する皆様方には深いご理解をいただき、諸神事がつつがなく斎行されますようご協力のほどよろしくお願い致します。

<本文 : 飽波神社社務所発行>
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平成14年度 飽波神社例祭 

神輿渡御 2001年は21世紀初めの「大祭」とあってそれなりの盛り上がりを見せたお祭りでしたが、本年は例祭。 それも大祭の翌年とあって、何処となく静かなお祭りでしたねぇ〜(^^;

 10月4、5、6の三日間、4日は前夜祭、5日土曜日には露店も出て各地区の青年衆が担ぎ神輿を繰り出し、旧街道を左車〜栄まで練り歩き、飽波神社前ではそれなりに盛り上がり、祭り気分を高め演出していました。

浦安の舞 6日の日曜日はメインイベントの「神輿渡御」。 朝、8:40に神社を出発した行列は本年は「西廻り」の順路。 『 岡出山→小坂→木町→原→栄→千歳→長楽寺→五十海→市部→左車→下伝馬→白子→飽波神社 』の順に旧藤枝を渡御。

 途中、昼食前の「栄区」と、16:00過ぎの「左車」の御旅所で「浦安の舞」を奉納。 出発して最初の御旅所の木町区「月見里(やまなし)神社」で大ハプニング発生!!(◎o◎)

神輿が倒れて「バキッ・・」 なんと、休憩に入った神輿を載せた御所車が後方に転倒!!!(>_<) ものすごい物音に皆が驚き、神輿の飾りも吹っ飛び、後方に立てかけてあった「高張提灯」の竿も見事に折れてしまう始末!!(T_T) でもどうにか神輿は無事、引き続き渡行を続けることが出来ました。

  毎度のことですが、「武者」に扮するチビッコ軍団(幼稚園年長OR小学一年生)達は朝の内こそ、鎧兜に刀を差して、槍を手にする出で立ちに満悦そうに行列するのですが、昼食も終えて、道中も半ばに差し掛かる頃には疲労の色は濃く、兜を脱ぎ、槍は付き添いのお母さんの手に、やがては完走むなしく途中リタイアといった絵が見て取れます。。 まぁ、丸々一日、歩いての行列、無理も無いですがネ。。。
若?武者
 さて、来年は順路を逆にした「東廻り」の渡御です。 そして再来年にはまたまた大祭がやって来るわけです。 3年という周期は長過ぎも無く、短か過ぎも無く程よい感じですが、3年に一度となるとやはり人生で巡ってくる機会も少なく、そして時の過ぎる速さをも実感するのですなぁ〜 かく言う私も次回の大祭には「中老」と呼べる年齢に達する訳で、なんだか複雑な感じです。。。

 神社の方は露店の数こそ昔(20年ほど前)に比べてかなり少ないものの、それなりに人出もあり、祭りと呼べる雰囲気はありました。。。 でも、昔を知る我々にしてみれば「さびしいなぁ・・・」という感は否めません。飽波神社と出店
 昔は夜打ちの花火も上がり、見世物小屋や射的、輪投げなどの遊戯的露店も多く出店して、祭りの夜はごった返していましたが、現在ではすれ違う人ともぶつかるような混雑はほとんど無く、「寂しい」という印象が一番に出てしまうお祭りになっています。。。
 世の中、「娯楽」に満たされ、「祭り」に集う人々が少ないのと、高齢化・小子化社会の影響が色濃く出ているのでしょう。

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