そして、その後…

(鉄道と直接関係ない写真もありますがご了承ください)




連絡船廃止〜瀬戸大橋開通 の頃、各駅で商魂たくましく売られていた
オレンジカード。
代表的なものを押し入れから引っぱり出してスキャンしてみました。
「あの頃」を思い出して胸熱くなるアイテムです。


1988年4月10日  岡山駅
《コメント》
連絡船の終焉から一夜明け、開通開業初日の朝。
岡山駅で発車と記念式典の準備を待つマリンライナー、
作者はまさにこの列車に乗り、高松市内にある大学の入学式に向かったのでした。
昭和から平成に、国鉄からJRに。そして当時のバブル世相。
世の中が新しいものに大きく変わっていった時代でした。
作者も着慣れないジャケットスーツで、期待と不安を胸に、
この約1時間後、車中の人として瀬戸大橋を渡ったのです。

1988年4月10日  高松駅
《コメント》
到着した高松駅でも、お祝いムード一色でした。
これは改札へと歩く途中、ホーム端から撮っていたものです。
…とは言え、今のように通りすがりにスマホカメラ片手で、なんてな訳にはいきません。
当時はスマホどころか携帯電話すら全くなかった頃で、この時の作者のカメラも
マニュアルフォーカスのフィルム一眼「キヤノンAE-1P」でした。
街の写真屋さんに現像を出し、仕上がった写真を見られるのは数日後。
今や有名人や天皇陛下のパレードを一般人がスマホ動画で撮って簡単にUPできる時代。
隔世の感があります。

1988年4月10日  高松駅
《コメント》
これは入学式の帰り、マリンライナー乗車前にホームから撮っていたものです。
瀬戸大橋開通に伴い従前の「しおかぜ」に替り、高松発着の特急として新設された
「いしづち」と、前日で役目を終え、係留されていた「阿波丸」。

XXXX年X月XX日  番外編
《コメント》
そして、以後4年間、作者は岡山−高松間を快速「マリンライナー」で大学へ通いました。
上の2枚はその頃の6か月通学定期です。
今見直すと懐かしい「青春の伴」です。
高松駅と岡山駅で買うと、経由地の表記が違っていた事が分かります。
有効期限の「昭和64年4月12日」も実際には来ることが無かった幻の日付です。

そして、更に時は流れ…

2018年10月18日  宇野港
《コメント》
鉄道連絡船廃止後も、3社で運行されていたカーフェリーですが、
まず津国汽船が2009年に撤退。
「昼も夜中も29分ごと…」がキャッチフレーズだった宇高(うたか)国道フェリーは
2014年に終了。
この写真は後年訪れた際に撮ったものですが、作者もよく利用した桟橋や施設は
当時のまま廃墟状態(夜逃げ状態?)で当時のまま生々しく残っており、
建物内(立ち入り禁止)のポスター等もそのままで、
なんだか逆に痛々しく、悲しかったです。

2019年12月12日  宇野港
《コメント》
そして、最後まで運行を続けていた四国フェリーも、2019年12月15日をもって
運行を終了し、長い宇野−高松間のフェリー輸送の歴史に幕が下ろされました
(中間島しょ部経由の便を除く)。

2019年12月12日  大槌島〜女木島沖
《コメント》
下り便に乗船。
宇野−高松便の下り航路は日比港〜大槌島沖を通る西寄りルートで、
直島水道近くを通過する上り便の航路と少し違っており、
この連絡フェリーが運行終了となれば、おそらくもう二度と見る事は無い景色となります。
作者も船上デッキからの潮風と共に、瀬戸の夕暮れをしっかり目に焼き付けておきました。

2019年12月14日  高松港
《コメント》
最終運行となった週末の朝、日の出直後の高松港を出て宇野に向かう
「第一しょうどしま丸」。
高松港の赤灯台のそばから撮影したものです。
同じ場所から、高校生の時に伊予丸の出帆を撮っていました(伊予丸の頁を参照
昭和〜平成〜令和 と31年の時を経て、今度はカーフェリーの終焉を見届ける事に。
国鉄高松駅と連絡船桟橋があった周辺は、サンポートの再開発で大きく変わりましたが、
この角度からだと結構当時の街並みの面影も残っています。

2019年12月14日  高松港
《コメント》
ラストカットはサンポートビルの屋上展望に登って撮ってみました。
高松港へ向かう「第一しょうどしま丸」。
最後の週末も瀬戸内らしい小春日和の空でした。
本州と四国、この約20キロの海を、多くの人・物・そして想いを載せて渡し続けた
このフネの雄姿を永く覚えておきたいものです。