思うこと 第97話           2006年6月3日 記       

アメリカ独立時のエネルギー

 今、私はフィラデルフィアを発って、シカゴ経由で成田に向かうJAL便の中でこの項を書いている。 フィラデルフィアではアメリカ建国の歴史に感動し、関連する本を買い込んだことを昨日話したが(『思うこと 第96話』)、この帰りの飛行機の中でそれらの本を読んで、感動の余韻のさめないうちに一気に書き上げることにした。 アメリカの建国の歴史は、私はかなり知っているつもりであったが、大事な知識が欠けていたことに愕然とすると同時に、アメリカ建国までの過程に改めて感動した。 私がフィラデルフィアで疑問に思っていたことに比較的明快な回答が得られたので、Q&Aの形で話そう。

Q1:ニューイングランド13州があの強大な大英帝国から独立し出来たパワーはどこから来たのか?

 1750年頃のアメリカ大陸におけるヨーロッパ3強による殖民地図は左の図に示すようにカナダから5大湖そして大陸中部がフランス圏で、東海岸部が英国圏( British America13州(colonies) )、そしてフロリダがスペイン圏であった。お互いの勢力争いがやがて本格的な戦いとなり、世に名高い仏英7年戦争(1754−63)となった。 この戦いにBritish America13州の人々は大英帝国からの正規兵とともに勇敢に戦った。この戦いの中で、各師団長(隊長)は大英帝国本国から送られてきたものがその任についたが、ただ一人例外的にBritish Americaで生まれ育った26歳の若きジョージ・ワシントンがヴァージニアの戦士の隊長に任命された(右写真)。フランス軍はインディアンと連合軍を組み、初めのうちは英国軍も苦戦を強いられたが、次第に優勢に転じ、1759年にはついに難攻不落とおもわれていたケベックを陥落させることに成功し、最終的に英国軍は完全勝利したのである。この戦いを通じ、British America13州の人々は戦いの力をつけ、また自信をつけた。一方ジョージ・ワシントンも指揮官としての得がたい修練を積む事が出来たのである。すなわち、この英仏7年戦争が結果的に British America13州の人々がレベルの高い戦闘能力を身に付けさせたことになる。

Q2:何故多くの血を流してまで母国の大英帝国と戦ったのか?

この7年戦争のあと、母国の大英帝国はBritish America13州を完全な統治下におき、彼らの自治を認めず、重税をとりたてることを決定し、1764年から次々に実行に移した。 当時、British America13州の総人口は約170万人に達しており、一番大きな街がフィラデルフィアで人口約3万人であった。 これらの人々は経済的にもすでに裕福となっており、文化のレベルも高く、専門職人も多く、誇り高き人々であったため、本国のこの仕打ちに憤りを感じ、本国から独立して自治と自由を手にすべきと考える人が次第に増えていった。税の対象の一つであった紅茶をはじめとする英国製品の不買運動を行い、税の取立てを実力阻止するなど、市民の反抗は次第にエスカレートし、それに対する英国の力による抑え込みも激しくなっていった。最も抵抗運動の激しかったボストンを力で抑え込むために、1768年に英国は4000人の正規兵をがボストンに送り込み、ボストンを占拠した。1770年には反抗するボストン市民に英国軍が発砲し、多数の市民が犠牲になった。この事が、British America13州の人々の怒りにさらなる火をつけることとなったのである。1774年の9月と10月の2回にわたり各州のリーダー計55人が密かにフィラデルフィアの大工組合会館 (Carpenters' Hall;右写真は昔のまま残してある建物を私が撮影したものである) に集まり、英国から独立し、そしてその為には戦いも辞さないという基本方針を決定した。この会議が The First Continental Congress と呼ばれているものである。このころThomas Jefferson は "A Summary View of the Right of British America"を書いて、独立の必要性と必然性を説いている。人々は武器弾薬を手分けしてこっそり作る作業に拍車をかけ、1775年初頭には英国と闘える準備がほぼ完了していた。1775年4月、マサチュッセツ州の人々が武器弾薬を密かに揃えつつあるという情報を聞き、視察に向かった英国正規軍は、待ち受けていた州兵と4月19日に戦闘となり、英軍は250人の死傷者を出して引き上げた。これが事実上の英国との戦闘の始まりとなった。 1775年5月10日、急遽Carpenters' Hall で The Second Continental Congress が開催され、この5日後の5月15日に正式に英国に対し宣戦布告を行った。そして、全軍の総指揮官 ( Major General ) に当時29歳の若きジョージ・ワシントンが任命されたのである。その後、各地でBritish America軍(以後米軍と呼ぶ)と英軍の戦闘が繰り広げられ、極めて多数の死者が両軍に出た。例えば、1775年6月のボストンのブリーズ丘の戦いでは、英軍に1000人の戦死者、米軍に戦500人の死者が出ている。世界最強の英国軍を相手の戦いは、ジョージ・ワシントンの率いる米国軍にとって、やはり手ごわい相手であった。
1776年1月、政治哲学者の Thomas Paine は『英国から完全独立すべきである』との主張を “Common Sense” のタイトルのもと50ページの冊子にまとめ、これを10万部印刷して配った(左の写真の冊子はその復刻版で、フィラデルフィアのビジターセンターで見つけ、感激して買い求めたものである!)。これが人々の心にさらに火をつけ、燎原の火のごとく広がっていった。 ジョージ・ワシントン総指揮官も全兵士にこの本を読むよう命じ、各兵士は、この戦の意味をかみしめ、さらに奮い立ったという。1776年6月、Continental Congress は Thomas
Jeffersonを委員長とする5人からなる起草委員会に独立宣言書の作成を委託、同委員会が作成した“ The Declaration of Independence ”(右写真)は1776年7月4日にCongressにより承認された。しかし、その最中も、その後も米軍と英軍は一進一退を繰り返しながら、激しい戦いを繰り広げていったのである。

Q3;世界最強の英軍に最終的に勝利できた理由はどこにあるのか?

 一番の理由は米軍の『地の利』と『戦意の高さ』。もう一つ大きかったのが、Benjamin Franklinの外交手腕。1976年フランクリンはパリに特使として送られ、自国の自由に対する熱意を伝え、フランス王に米軍を支援して英国と戦うことを決意させることに成功した。早速1776年5月には14隻の戦艦と多くの武器弾薬が仏から米に送られた。1778年2月6日には『米は完全独立を勝ち取るまで戦い、決して英国と中途半端な妥協はしない』との条件の下に仏が米に正式に共同で英国と戦うという条約が締結され、6月から英仏海軍の戦闘が開始された。これは、英軍の海からの補給路を断つのに大きな役割をはたした。1779年にはスペインも仏と歩調をあわせえて英国軍との戦いに参加、1780年にはオランダも英国と戦い始め、1780年7月にはフランスの正規兵6000人が米国に派遣された。勝利の理由でもう一つつけ加えるなら、アメリカの造船技術の高さからくる海軍の力が無視できぬものに育っていた事。1776年の段階で、すでにNew Yorkでの海戦に勝っており、この時、英軍は5500人の兵士を失っているのである。1781年10月ワシントン総指揮官に率いられた米軍は仏軍とともに英軍を包囲し、ついに、10月16日に英軍は完全撤退を余儀なくされたのであった。これにて英国は米との戦争を終結する事を決定し、1782年のはじめにパリで講和条約を締結したのである。この時米国からは、Benjamin Franklin、John Adams,John Jayが参加している。

Q4;ではこれで米国と英国の争いは完全になくなったのか?

 この質問は重要な事項なので、引き続き項をかえて『思うこと 第98話』ではなす。

注)英語の書物約10冊を辞書もなく飛行機の中で拾い読みしながら書いたので間違いもあるかもしれないが、とりあえず、日本に到着次第アップして、後日修正することにするのでお許しを。