思うこと 第45話 2005年9月17日 記
日野原先生にとっての人生の転機
今年の文芸春秋の6月号によど号機長の石田真二氏と日野原重明聖路加病院理事長の9ページにわたる対談が掲載されていた。よど号乗っ取り事件が起こったのは1970年3月31日で、その数ヵ月後に私は聖路加病院で研修を開始し日野原先生との運命の出会いがあったので、当時、日野原先生から直接、乗っ取り機に乗り合わせた当時の生々しい状況はこと細かくお聞きしていた。日野原先生にとっても35年ぶりの機長との再会とのことであったが、私にとっても35年ぶりに再び当時の状況を先生からお聞きしたことになる。殆どお聞きしていた内容であったが、日野原先生の次の、私にとっては初めてお聞きしたご発言に釘付けになった。 『私は金浦空港で降ろされたとき、最初の一歩で「ああ、大地に帰った!」と感動して、アポロ月面着陸を思い出しました。日本に戻ってすぐ、熱海に休養に行ったときのことも忘れられません。前夜にとった睡眠薬の効果で何日ぶりかに熟睡できて、朝、窓から青い芝生とその向こうに海と空が見えた。 「私はこんな綺麗な、地球というところに住んでいたのだねえ」と、新しく生まれたような気持ちでした。 58歳という、還暦の一歩手前でこの体験をしたことは大きかったです。全半生はひたすら働いたけれど、所詮は業績をあげたい、有名な医師になりたいだけではなかったか。生き方を180度変えようと思い、皆さんに「ゆるされた第2の人生が多少なりとも自分以外のために捧げられればと希ってやみません」という挨拶状をおくりました。』 私にとって、このお言葉は、感動であった。その数年後に、日野原先生が聖路加病院の理事会から“条件付で”病院長になることを請われたとき、「自分の信条にもとるその条件を飲んでまで病院長を引き受ける気はありません」ときっぱりと病院長をお断りされ、他の候補にゆずられたということを、聖路加病院の友人から伝え聞いていたが、理由が解ったような気がした。その条件とは、これも友人からの伝え聞きだが、当時日野原先生が取り組んでおられた“疾病予防のためのボランティア活動”は、聖路加病院の利益に直結しないのだから、それを止めてほしい、その上で病院長に就任してほしい、というものであったという。 この日野原先生によって推進された“疾病予防のためのボランティア活動”は、大きな社会運動となって、開花していった。日野原先生がこの活動をされたからといって、本業のお仕事がわずかでもペースダウンすることがなかったことは言うまでもない。何年か後、理事会は、日野原先生に、“条件付で”病院長要請を行った自らの非をお詫びし、“疾病予防のためのボランティア活動”をお続けいただいて結構ですので、病院長にご就任いただきたい、と、三顧の礼をもって要請したと、これまた、聖路加病院の友人から聞いた。日野原先生が病院長に就任されてから、今日まで、聖路加国際病院がすざまじい発展を遂げ続けていることは、誰もが知っていることである。
よど号からの生還が日野原先生にとっての人生の転機となったということは、私にとって心底から感動することであった。 というのも、私も還暦を迎えて60歳になった年に病に倒れ、4ヶ月間入院したことが、私の人生の重大な転機となったからである。 あのとき以来、私はいい意味で変わったと思う。あそこで倒れていなかったとしたら、いまでもあの延長線上で、息せき切って走り続けていたはずで、それを考えると、運命の神様に感謝せずにはおれない。 60歳から私の新しい人生が始まったのだったが、私の尊敬する日野原先生も同じように還暦を前にして、人生の転機を迎えられ、同じような考え方をなさったと知った私の感動、お察しいただきたい。