思うこと 第305話   2015年8月12日(水) 記

若者に伝えたいこと 
[その3]
 日本画への夢を追い続けて

 皆さんに伝えたい話の[その1]で、目標に向かって夢を追いかけるにあたって、成功の原点は、途中で歩みを止めず進み続けることにあるとお話ししましたが、その一つの実例として、私が日本画への夢を追い続けた話をしたいと思います。

 私は1987年に鹿児島大学第3内科の教授に就任し、その14年後の2001に鹿児島大学病院長に就任しました。
すばらしい病院にしようという大きな夢にむかって全力投球し、特に、病院の建物が老朽化してきたことから、全面建て替えを目指して文部科学省と交渉を開始しました。 しかし、壁は厚く、なかなかうまくゆきませんでした。 官庁を相手の交渉は私には初めての経験で、そのうち疲労困憊し、不眠も重なるうちに、血圧が下がらなくなり、懇意にしていた市内の内科病院に入院する事態になりました。病院長も交代し、私自身は病気療養に専念させてもうことができ、幸い、4ヵ月で全快退院することが出来ましたが、この入院を通して、患者の視点で医療を考えるまたとない機会を持つことが出来ました。 また、自分自身の健康管理の重要性を痛感し、この手段の一つとして、かねてやりたくても仕事が忙しくてやれなかった絵を描く趣味を始めました。 当初水彩画でスタートし、その後パステル画に移行しましたが、一年後の61歳の時に、日本画への挑戦を開始しました。 独学で、いろいろな教材で学びながらの挑戦でしたが、半年後には壁に突き当たり、やはり、師匠に弟子入りして学びたいと思うようになりました。 日本画に関する本を読み漁って、私にとって目指す師匠を探した結果、京都画壇で活躍しておられた村居正之先生こそは師匠としてお願いすべき方だと思ったのです。

 村居先生が、月に一度福岡で日本画の指導にお見えになり教室を開いておられるとの情報を得て、福岡の教室のまとめ役の方に入門をお願いしたのでしたが、九州の“若者”に日本画を教える為に教室を開いているので、60歳以上の人はお断りするよう先生から言われているとのことでした。 私は、断られてもあきらめるわけにはゆかず、先生に直接お電話して、粘り強くお願いしたのでした。 いざとなれば、寝袋を用意して先生の御自宅の前で許可が出るまで寝泊まりしてでも入門を果たそうとの思いでした。 『生物年齢は60歳を超えていますが、心意気年齢は先生のどのお弟子さんよりも若いつもりです』という私の言葉も功を奏したかと思いますが、何より私の熱意を認めていただいて、例外的な特例として入門を許可していただけたのです。その後毎月一度の福岡での先生の日本画教室には、そのために購入したホンダ・オデッセイに画材一式を満載して、九州高速道路で欠かさず通いました。 村居先生との出会いは私の人生で最大かつ最高の出会いの一つで、日本画の技術的なことを学んだだけでなく、人生の生き方も学ばせていただき、私のその後の人生が大きく変わる出会いでした。
私は、最高の道具揃えをめざし、先生の御指導・御紹介の下、京都の伝統ある専門店で、天然岩絵具や筆を買いそろえました。
下の写真が当初の私のアトリエの写真ですが、小瓶一本分で5万円から10万円もするという高価なもので、写真の下段中央に示した筆も、今では材料の毛の不足から入手そのものも困難とのことですが、当時、16万円で購入させてもらうことが出来ました。

天然岩絵具の特に主な原石を示します。

天然群青は粒子が粗いと原石と同じ色ですが、粒子が小さくなるに従って色が明るく白っぽくなり、また、アルミパンに入れてガスコンロで焼くと色が黒っぽくなり、粒子の大きさと焼き加減で一個の原石から100種類近くのパネルが出来るのです。


緑青や古代朱(朱砂)でも下に示します様に同様です。


これが現時点での私のアトリエの岩絵具の棚で、下に並べてあるのがパネルです。


平成17年(2005年)には新館落成の三宅美術館のこけら落としをかねて、一回目の納 光弘展を開催しました。

これが、私が会場で説明をしているスナップ写真です。

この、赤い桜島の絵は個展直前に最後に完成した絵で、朱の焼き加減だけで出来たパネルで描いたもので、朱の墨絵と呼べる絵です。この絵は、今私が勤務している今村病院分院の正面玄関に飾られています。



この、絵は群青だけで描いた群青の墨絵と呼べる作品です。

一回目の納 光弘展の2年後の平成19年(2007年)、私の65歳の定年退職を機に『第二回 納 光弘展』を三宅美術館で開催しました。



群青一色の絵に色を加えたいとの思いから、オーロラを描くことに挑戦し、アラスカで11日間すごし、5枚のオーロラの日本画を仕上げました。


これは、ノルエーのガイランゲルで2昼夜の景色の移り変わりを一枚の絵に凝集させて描いた日本画です。


これは、中国の桂林で、庵の灯が川面の写った幻想的な風景を、群青一色で描いた“群青の墨絵”で、群青は金との相性がいいことから私は“群青の墨絵”に金を好んで使います。


この絵は、桜島と頂上近くだけに夕日があたっている様子を描いたもので、第10回桜島美術展で『特選』を受賞すると同時に、来場者が一番いいと思った絵に投票した集計でトップになり『ギャラリー賞』も受賞しました。


次の年の桜島美術展では、それまで油絵だけだった最高賞の『大賞』に日本画として初めて選ばれ、この年も『ギャラリー賞』も受賞しました。


次の年の桜島展では、それまで唯一受賞していなかった『アートラベル賞』を目指しました。

幸い、目論み通り入選し、2011年の年号焼酎のラベルを飾ることになりました。
この年も、『ギャラリー賞』も受賞し、3年連続で『ギャラリー賞』の受賞となりました。


2010年の日展日本画春季展(日春展:春の日展)にも入選した絵です。

この年の秋は日展にも入選し、六本木の新国立美術館に展示されました。



150号ですので、結構大作で、

この“群青の墨絵”にも漁船の灯として金を使いました。


公益財団法人徳之島病院の末満院長から依頼され、新病棟様に徳之島で私が一番好きな風景の『むしろ瀬』の夜景を描き、

これが、除幕式のスナップ写真で、

この“群青の墨絵”にも漁船の灯として金を使いました。

私が懇意にしている星北斗理事長の星総合病院(福島県郡山市)が東日本大震災で全壊してしまいましたが、

その2週間後には、計画していた新病院の起工式が断行され、


東日本大震災の復興のシンボルとして注目を集めました。

この病院の新館玄関正面に飾る日本画制作を星北斗理事長に依頼されました。


星先生からは、郡山市民の心のシンボルの安達太良山を夜景で描き、復興への希望の灯を入れてほしいという強い希望がありました。

上が、私のアトリエで最後の筆を入れるところのスナップ写真で、

星先生の御希望通りの日本画が完成し、ホッとしました。

京都府立医大の吉川学長から、『京都府立医大も新しい病院に建て替わるので、そこに、星先生の病院同様に、私の意向に沿った日本画を制作してくれ』との依頼を受けたのですが、京都画壇のど真ん中に私ごときの日本画を飾るのは恐れ多いと考え、師匠の村居先生にご相談したところ“GO”の指示がでたのです。

ただ、吉川先生は『東山36峰を夜景で描いてほしい』と希望され、どう描けばいいか悩んでしまいました。この日本画が私のこれまでの日本画で最も困難を極め、心身ともに使い果たした絵であったように思います。

これが、新しく出来た京都府立医大の新病院の全景で、

この玄関の正面に飾ることになり、

これが、除幕式の写真です、

東山の表情を描くのに一番神経を使いました。右手前の山に“大文字焼き”の『大』の字をさりげなく描きました。

平成26年1月に私にとって感動の出来事が起こりました。 鹿児島大学病院の熊本病院長から、鹿児島大学病院の新棟が完成したので、そこに私の日本画を飾ってほしいという依頼を受けたのです。 私が建設を夢見て果たせなかった病院立て替えの、第一号目のC棟が完成し、そこに、私の日本画を飾ってもらえるとは、なんという有難いことか!と感激したのでした。



新館は屋上にヘリポートのついた建物で、そこの最上階の赤い丸印で囲った錦江湾と桜島が一望でき、患者さんと職員の憩いの間として利用部屋に設置されました。

私が、手放さずに大事に保管していた2枚の日本画を寄贈させてもらい、これは、除幕式の後の熊本病院長との記念写真です。

これが、右側の絵のキャプションですが、ここにも書いてあります様に、私の日本画は、NIHとBaylor医科大学にも飾られています。

最後に、市立病院に飾られた絵の話で締めくくります。

かって、当時の市立病院院長の上津原先生と森市長から、2015年に完成する新市立病院に飾る絵を依頼され、感激して制作し、旧市立病院に仮展示していた日本画が、先日、新病院の完成に伴い、ついに、新病院に展示されたのです!


このことは私のHPの『個人的出来事 第142話』にアップしてあります。

以上、私の日本画の歩みを通して、目標に向かって夢を追いかけるにあたって、途中で歩みを止めず進み続けるこそが大切であることをお話ししました。