思うこと 第282話 2010年1月6日 記
年頭に思う−その2−
高嶋 博教授誕生を祝して
鹿児島大学医学部第三内科(定年退職時の講座名:鹿児島大学大学院医歯学総合研究科神経病学講座神経内科・老年病学分野)の第三代目の教授として、本年1月1日付けで高嶋 博教授が誕生しました。
私は、井形 昭弘初代教授が鹿児島大学学長に就任された後の、第二代目の第三内科教授として、20年間教授を務めさせていただきましたが、その間の私の教授としてのモットーは、井形先生が築き育てられた第三内科において、井形先生の理念(井形イズム)を守り、育てることでありました。 私と同じように井形イズムに共鳴している高嶋先生に教授職をバトンタッチできたことの感激は、言葉に言い表せないほどのものであります。
さてここで、私の目からみた高嶋先生を紹介したいと思います。 私が教授に就任して間もない頃、第三内科に入局を希望してきた高嶋先生に面接した時のことを昨日のことのように思い出します。 あの時、高嶋先生は目を輝かせて入局後の抱負を語ってくれました。 高嶋先生は平成2年に鹿児島大学大学院医学研究科の大学院学生として第三内科に入局後、神経内科の臨床医としての腕を磨き、平成4年から国立療養所沖縄病院に出張・赴任しました。 ここでの2年間が高嶋先生の人生に決定的な影響を与えたように思います。 沖縄の神経疾患のセンター的な役割を担っていた同病院の神経内科には、沖縄全土から神経難病の患者さん方が集まっていましたし、また、筋ジストロフィー病棟(80床)も病院の中にありました。 筋ジストロフィーや神経難病の患者さん方の診療にたずさわるうち、高嶋先生は、これらの患者さん方の治療法の解明に自分の生涯をかけて取り組む決意を固めたのでありました。 大学に帰ってからは、中川 正法講師(現:京都府立医大神経内科教授)の指導の下に、沖縄で出会った神経難病の患者さん方の中から新しい病気を分離独立し、そして、その原因と治療法の解明に取り組んだのでした。 その後、ついに、中川先生の指導の下、高嶋先生は、この病気の原因となる遺伝子座位の決定に成功し、それに関する高嶋先生の論文(
Ann. Neurol 41:1997, 771-780 ) が評価されて平成9年に学位を取得しました。 この間、臨床研修にも力を注ぎ、日本神経学会の神経内科専門医の資格も取得しています。 高嶋先生は、神経難病の解明の仕事をさらに前進させるために米国留学を希望し、高嶋先生の業績を高く評価してくれたベイラー医科大学の
Lupski 教授の元への留学が実現したのでした。 Lupski 教授は神経難病の研究では世界最高峰の方のお一人でしたから、ここへの留学がかなったことはすばらしい出来事でした。 私は高嶋先生が米国留学に旅立つにあたって、次の様なことを話しました。 すなわち、『留学中に人の3倍仕事をするだけでなく、一度しかない留学のチャンスに家族でアメリカンライフを存分に楽しんできてほしい』と。 高嶋先生は、2年間の留学の間に、私が話したことをはるかに上回ることを成し遂げました。 アメリカンライフに関しては、これ以上ないほど家族で楽しんでくれたように思います。 ちなみに、殆どのナショナルパークはもとより、アラスカまで家族でドライブしたとのことでした。 高嶋先生の写真技術はとても高く、私は、それらの写真に魅了され、CDに焼いてもらって鑑賞したのでした。 仕事の方は、人の3倍どころか、腰を抜かすような大変な発見を、しかも幾つも仕上げ、Lupski
教授をして感嘆せしめて帰ってきました。 思うに、このすさまじいエネルギーは沖縄の患者さん方への熱い思いに駆り立てられてのものでありましょう。 留学前にすでに中川先生の薫陶を受けて、研究の技術では世界の一流のレベルにありましたので、Lupski
教授のもとでは、新しい研究手法にも挑戦し、開発・発展させることにも成功し、そして幾多の発見につなげたのでした。 Dejerine−Sottas病という病気は私達神経内科医にとっては教科書にも載っている有名な病気で、高嶋先生にとっては沖縄の患者さんの中にもこの病気の方がおられたのですが、なんと、この病気の原因が
Periaxin の異常である事を世界で初めて発見し、検査法も確立させたのです。 また、TDP1という1本鎖DNA修復機構の異常でおこる新しい脊髄小脳変性症を発見しましたが、この発見が糸口となって、1本鎖DNA修復機構の異常でおこる全く新しい遺伝子異常症の扉を開けることになり、この分野の学問の世界において注目を集めたのでした。ここではこれ以上触れませんが、この他にも大きな発見を幾つか成し遂げて、帰ってきました。 帰国後も高嶋先生の研究の勢いは衰えず、大学院生を指導しながら、次々に新しい病気を発見し、原因を解明して、私達を驚かせ続けてくれました。 なかでも私にとって嬉しかったのは、私が第三内科に入局して間もなく、井形先生のもとで疫学調査のために離島を駆け回っていた時に出会い、その後、長いお付き合いを続けてきていた患者さんの家族がSBF2遺伝子異常による新しい病気であることを発見し、これを足がかりに、治療法の開発に繋げたいと高嶋先生たちが頑張ってくれていることです。これらの、多くの発見に対して、米国ではシャルコー マリー ツース病協会賞を受賞、日本でも、ALS研究助成基金からの受賞、かなえ医薬振興財団研究基金の受賞、加藤記念財団研究助成金の受賞、そして、平成17年には日本神経学会『学会賞(研究部門)』も受賞しました。 この受賞記念講演の時の神経学会総会において、臨床部門のフィルムリーディングセッションにおいても最高点をとり、このことについては、私のHPの『思うこと93話』で、『日本神経学会の学術 No.1 と臨床 N0.1 の同時栄誉に輝いた男の紹介』のタイトルで述べさせてもらっております。
つい、高嶋先生の学術的な部分に力点をこめて話してしまいましたが、高嶋先生の最大の特徴は、人育ての才に卓越していること、そしてまた、周囲に和をかもし出してくれる豊かな人間性にあると言えましょう。 私が会長を務めて鹿児島で開催した第46回日本神経学会総会(平成17年)において、会員全員の懇親会で、高嶋先生は『森伊蔵』、『魔王』、『村尾』はじめ鹿児島中の焼酎を大量に取り寄せて会場に並べて、皆に飲み放題の宴を楽しんでもらいながら『焼酎談義』のスライドセッションを行ってくれましたが、これは参加した会員にとても喜んでもらえ、後々まで評判になったことを思い出します。
私は、井形先生が創設され、そして発展させてくださった第三内科の中継ぎ役をさせていただいたのでありますが、こうして、ここに、この第三内科を、このすばらしい高嶋先生にバトンタッチ出来て、心底ホッとしているところです。 高嶋先生は、私がこれまで『井形イズム』と呼んで最も大切にしてきた第三内科の基本理念の大切さを限りなく理解・実践してきている方です。 これから先、理想の医学・医療を目指して、日本を、そして世界を引っ張ってくれることと期待しております。 高嶋先生に心からのエールを送りたいと思います。
最後に、ここまで第三内科を守り育ててくれた多くの方々にこの場を借りて心からの御礼を申し述べます。 本当にありがとうございました。
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