思うこと 第279話             2008年8月16日        

友人の書いたエッセイ『45年目のはんや節』


 宮崎で産婦人科を開業している私の大学時代の親しい友人・郡(こおり)君が『医友しののめ』という小冊子に掲載した『せごどんに免じて』というエッセイは、去年『思うこと第200話』で紹介したのであったが、今年、その続編ともいえるエッセイが『医友しののめ』(下写真)に掲載されたので、同君の許可を得てここに紹介する。




45年目のはんや節

こおり産婦人科・内科  郡 征一郎

 誰にも人生で一番希望に燃え、輝いている時期がある。私にとってのその時期は昭和37年から昭和41年頃である。九大医学部の専門課程からインターン終了時期にあたる。丁度高度経済成長時代に一致し、エネルギー革命の洗礼を受け、日本全体が活気づいていた。明るい話題としては東京オリンピック開催があり、反面三井三池炭鉱の惨事、ケネディ大統領暗殺があった。まだ旧教室が残っていて、現在のように空調も完備していなかったが、建物には得も言われぬ風格があった。皆それぞれ苦しい受験勉強をくぐり抜けてきたが、入学後はノーサイドで良い友達になった。おおかたの学生はガリガリに痩せていた。学生生活も地味で、慶応ボーイであった弟との違いに愕然とした。友達の中には父親がなく、奨学金を受け家庭教師のアルバイトをして、勉学に励む人が数人いた。私は幸いな事に開業医の息子で金銭的苦労はしていない。はっきりした理由はないが、鹿児島出身の人達と自然に仲良くなった。年配の中村正憲さん、納光弘君、小牧専一郎君、森栄秀君などがいた。
 彼らは礼儀正しく先輩を敬い、得もいえぬユーモアがあった。時々中村正憲さんを囲みコンパをした。初めて「はんや節」を見た時は、度肝を抜かれた。中村さんや納君は奇声を上げ、テーブルに飛び上がったり、部屋中無我の境地で踊り狂った。まったく経験の無い事が起こり、ただ唖然と見学するばかりであった。佐世保の池田健次郎さんから「郡さん、少し馬鹿になんなさい」と、言われたがとても自分の殻を破ることは出来なかった。
 卒業間近に起こったインターン闘争に伴う国試ボイコットに若者のエネルギーはぶっつけられた。次いで起こった学園紛争で、仲の良かったクラスが分裂してしまった。その意味で中村さんの言うように、不幸な出来事であった。修復には長い時間を要した。

 *解剖学のW教授は小柄で、頭はツルツルで稚気愛すべきところがあって、学生に人気があった。神経節の講義の時早口で機関銃のように「ガングリオン、ガングリオン」と連発された。付いたあだ名が「ガングリオン」。

 *末盛郁男君が産婦人科の安部龍夫講師より質問を受けた。安部先生「妊娠中子宮底がサイコウ(臍高)になる時期は」。末盛君「サイコウ(最高)は10ヵ月の初めです」。安部先生「??」。しばらくして両者顔を見合わせて「アーッ」。
 
 *その末盛君眠るのが特技であった。日曜日には午後4時頃起きだし、食事をして又寝た。卒後40年経ってその話をしたら、その習慣は今も堅持していると言う。彼は麻酔医になった。

 *恵良昭一君は答案を提出するのがクラスで一番早かった。皆が感心するのでどんどんエスカレートしていって、ますます早くなった。感心が笑いに変った。ついにはこちらがまだ一問しか解いていない頃に、提出するようになった。試験場が「ドッ」と笑いに包まれた。恵良君はいかに早く答案を出すかだけに腐心するようになった。
婦人科の先輩安藤正俊先生は歌の名手であった。藤山一郎氏が「長崎の鐘」を歌唱指導するのを真似て「はかなく生きる野の花よ ハイッ なぐさめはげまし・・・」と、歌われる。「ハイッ」が出ると、皆反応して笑い転げた。安藤先生はこの「ハイッ」を言いたいためだけにこの歌を歌われた。

 *第一外科の三宅博教授のポリクリで実際にあった話。一年先輩が呼び出され、腹壁に出来たツモールのベフンドを述べさせられた。「ヒューネル・アイ・グロースのツモールがあります」。と、先輩。実際そんなに大きく見えなかったが、すかさず三宅教授「君下宿か自宅か」。「下宿から通っています」。教授大げさに「ああ、そんなら小さい」。

 *外科医になるには体力が要るとよく言う。成富先生が一外科に入局した戦後、手術中にすぐ停電になることが多かった。新入局員交代で自転車をこぎ前照灯で術野を照らしたという。外科医は体力が要るはここから派生した。

 *整形外科の天児民和教授は、臨床講義が始まる時間になると医局員に命じて講堂の後部ドアを閉めさせられた。講義開始後講堂の前方ドアから入る剛の者はさすがになく、学生達は時間厳守するようになった。

 *産婦人科の山田衞講師は大の西鉄ライオンズファンであった。先生は平和台球場の坂道を登る時が、人生最高の瞬間であると言われていた。
なかなか文才があり、西日本スポーツに「本日球診」を連載されていた。「巨人・大鵬・卵焼き」に対し「西鉄・柏戸・ふぐ料理」が持論であった。ある朝早く出勤されていたので、「どうしたのですか」。と、尋ねると、無言で自分の文章が載っている、医局に配達された新聞のページをはずされていた。

 *産婦人科の井槌助教授の講義は絶妙であった。子宮、付属器の説明の際、白衣を頭から被り自らを臓器に例えられた。両手の付属器が微妙に動き、学生一同大笑い。まさに熱血指導であった。

 *品川護郎君とは、同グルッペであった。彼は言う「お前達眼を悪くする程勉強すれば、九大に受かって当然」。ちなみに護郎君以外の3人とも眼鏡をかけていた。彼は福岡教育大附属中学受験の際も、道すがらの文房具店で買った鉛筆を削りながら、試験場に到着した。

 *卒後20周年の記念講演に、退官された寄生虫学の宮崎一郎教授をお招きしたことがあった。その際教授は「我々が見て来たのはウェステルマン肺吸虫ではなく、ベルツ肺吸虫の寄生による肺疾患であったようだ」。と、言われた。これを聞き及んだ上月寧君は懇親会の席上で宮崎教授に「20数年前わたしは寄生虫学を落としましたが、本当は合格していたんです」。と、言い、教授も手を打って大笑いされた。

 平成20年5月10日、鹿児島在住の納光弘君を幹事として41会(同窓会)が霧島のホテルで開催された。奥様方も含めて31名が集まった。
近況報告の時、脇坂信一郎君が持参した昭和41年産の赤ワインの説明をした。「ご無沙汰のおわびにワインを2本持参しました。我々の卒業の年1966年(昭和41年)の赤ワイン(フランスワインとイタリヤワイン)です。42年の歳月のため、光に透かすと少し澱が浮遊しています。もちろん沈殿物を一緒に飲んでも無害ですが、口にざらつきが残るでしょう。飲み頃(賞味期限?)はとっくに過ぎており、味や風味が劣るのはやむを得ませんが、飲みながら卒業以来の年月を振り返り、いろんな出来事を思い返すのも一興と思います」。赤ワインは全く時間を感じさせず、実にまろやかで癖が無く、またたくまに無くなってしまった。
納君も手を尽くして集めた森伊蔵、魔王等の幻の焼酎群をテーブルにずらりと並べ披露した。

なんとも言えない懐かしい味であった。
 納君が趣味としている日本画が2点展示されていた。天然岩絵具を使用した桜島の絵に、一同感心した。末盛君は自院の待合室に飾るのだと、早速大作を注文した。
 宴も終わりに近づく頃、中村さんと納君が舞台にあがって「はんや節」を踊り出した。



薩摩藩の郷中教育の流れをまのあたりにして、45年目の踊りにファインダーが涙で曇った。