思うこと 第200話             2007年4月5日        

友人の書いたエッセイ『せごどんに免じて』


 宮崎で産婦人科を開業している私の大学時代の親しい友人・郡(こおり)君から『医友しののめ』という小冊子が送ってきた。その中に、同君の書いた『せごどんに免じて』というエッセイが載っていた。同君の許可をもらえたので、ここに紹介する。同君以外の固有名詞は殆どを匿名にした。私にとっては『思うこと第200話』の節目の話を郡君に飾ってもらえ、感謝この上ない。


上写真がタイトルと郡君写真、下写真の後列向かって左端が郡君で右端が私(納)


せごどんに免じて

こおり産婦人科・内科 郡 征一郎

 大学の同級生、納光弘君は抜群の脚力を持っていた。教養部2年の昭和36年7月、鹿児島から北海道宗谷岬まで、3,200キロを28日かかって自転車で走破した。当時の南日本新聞にボッケモンの自転車旅行と紹介された。あの頃はまだ一級国道と言ってもジャリ道であった。
 義兄Aの結婚式の時、旅館の部屋でたわむれにAの兄Bが納君と相撲を取った。Bは京都府立医大時、空手部に在籍し体力には自信があった。勝負はあっけなく付いた。立合い直後、Bはふすまの前まで吹っ飛ばされた。義兄は一言も発せずあきれた顔で納君を見上げていた。
 昭和37年当時学部に進級すると、上級生が歓迎会を開いてくれていた。呉服町の三鷹ホールで、納君が同級生を代表して挨拶した。解剖の山田英智教授の電子顕微鏡の組織学が評判であった。納君は感激して「もう、オングストロームの世界です」。と、皆を笑わせた。
 インターン時代、皆堰を切ったように運転免許を取得した。北海道大学でインターンをしていたC君が、寒冷地仕様のパブリカを購入して帰福した。ある雨の日、天神の仏教青年会の前の薬院川に、ガードレールがないため、増水した川と道路の区別がつかず、そのまま川に走りこみ、半回転して着水、逆さになった頭の下から川の水が入り込んできた。さいわい本人に怪我はなかったが、水の引いた薬院川に仰向けになったパブリカが哀れみを誘った。
 納君も車大好き人間であった。彼の弟さんが納君の赤いサニーに乗って、友人達とドライブに出かけた。前原を過ぎて唐津に向かう国道で事故に遭遇した。幸い友人達には怪我はなかったが、弟さんは頭に5針ほどの外傷を負った。
車は大破したとのことであったが、翌日事故現場に車はなく、前原警察署に行って尋ねたが、車については不明との返事。盗難の可能性が高いとのことで、捜索願いを出して帰った。同級生のD君が「前原郊外の自動車修理工場に事故車があるようだ」。と、私に連れて行ってくれと言った。修理工場に着くと殆ど原型を留めない事故車が一塊となって、転がっていた。
納君はいっこうに警察から連絡がないので、下取りなしでサニーの新車をまた購入した。D君からの連絡で自動車修理工場に行き、工場長に何故ここにこの車があるのか聞いたところ、事故に立ち会った前原署の警官の依頼で運んできたが、持ち主がなかなか現れないので、不思議に思っていたと言う。事実関係を質しに前原署長に会って調べてもらったところ、事故を担当した警官と捜査担当の警官の間の連携がなかったことがわかった。警察署長は鹿児島出身で、目敏く納君の鹿児島訛りに注目した。「ここは同郷のよしみで、せごどんに免じて許してもらえないか」と、頭を下げた。「せごどんを引き合いにだされたら、仕方ない」と、納君は引き下がった。
 納君は勉強家であった。ある日彼の下宿に遊びに行った。まだパソコンなど存在しない頃で、パンチカードに夥しい文献を整理していた。彼はこれを統括するノートが大切なんだと、一冊のルーズリーフを示した。私は産婦人科教室に入局したが、彼ほどの勉強家を知らない。彼ほどきちんと文献を整理している人間に会ったことがない。
 同級生にEさんという年配の鹿児島鶴丸高校出身の、サッカーで国体に出場した選手がいた。母一人子一人の家族構成で、お母さんは首に袋を下げても(乞食してでも)子供の教育はさせてみせるといった気概に満ちておられた。長かったEさんの浪人中でも、一度たりとも苦情を言われなかった。Eさんや納君らを交えて時々コンパをした。Eさんは「はんや節」が得意で、納君と手踊りをしていたが、興に乗ると突然「いまきたにせどんな、よかにせどん」と、大声を出し二人で部屋中を踊り回った。私は異文化に接するようにただ眺めていた。学部進級の昭和37年からインターン終了の昭和41年までを、Eさんは「黄金の無責任時代」と今でも懐かしむ。
 昭和42年3月27日、Eさんの結婚披露宴が博多ステーション・ホテルで行なわれた。まるで鹿児島県人会の様相であった。その日は朝から小雨模様であった。2年先輩のでっぷりしたF先生が、満面の笑みを浮かべて司会をした。F先生は「このような天気は鹿児島では、島津雨と言い大変縁起のいいものです」と、言った。
同級生を代表して納君が祝辞を述べた。普通感極まって涙声になることはあるが、この時は様子が違っていた。いきなり「Eさん」と泣声になり、お祝いの言葉にならなかった。「Eさん」と呼びかける声が場内に響き渡った。その間に泣きじゃくり、絶え絶えになりながら、ようやくお祝いの言葉を述べた。会場は水をうったように静まりかえった。ひな壇の新郎新婦は、凍りついたように身じろぎもしなかった。数多くの結婚披露宴に出席したが、こんなに愛情のこもった祝辞を聞いた事はない。いつも冷静な産婦人科の先輩G先生が「あの時は思わず貰い泣きした」と、言われた。
 納君は九州大学第3内科、聖路加病院を経て鹿児島大学第3内科に入局した。昭和46年の事である。郷里を愛する心が人一倍強かった。米国留学(メイヨークリニック)後、一生懸命やっているうちに何か不思議なおかしい神経疾患が多いことに気付いた。昭和61年新しい病気だということをランセットという学術誌に報告して、HAM(成人T細胞白血病ウイルスの関与した脊髄疾患)と名付けた。世界的にこれが認められて、第3内科は「ヒト・レトロウイルス性神経疾患WHO協力センター」に同年12月に指定された。納君はHAMではいろんな賞をもらったが、米国の教科書に1章書いてくれと言ってきたことが、いままでの人生で一番嬉しかったことかもしれないと述べている。英文の論文を地道に読み解き、パンチカードにこつこつと整理していた彼らしい感想である。ちなみに鹿児島大学には、世界最大のHAM患者サンプルが保存されている。
 納君の脚力は現在も衰えることを知らない。米国はメイヨークリニック留学中の昭和54年夏至の日、同僚と朝5時スタートし一日で105ホール手引きカートを引きながらラウンドした。休まず回り午後7時30分終了した。
 また平成9年夏、英国のリンクスコースを一日で94ホールラウンドした。彼のゴルフ人生で絶頂期であったため、5ラウンドとも80台で回った。新聞社のインタビューに答えて「私はロイアル・ダブリン海外メンバーに選ばれる事が夢です。そうしたら私は毎年ここに2、3週間皆様と楽しむために来るつもりです。しかしそれは単なる夢です。もしそうなるならダブリンは私の第二の故郷になるでしょう」。このコメントでなんと納君はザ・ロイヤル・ダブリン・ゴルフ・クラブの海外名誉メンバーに選ばれ、いつ行っても自由にプレイ出来ることが現実になった。
 納君は学生時代から絵が上手だった。仲の良かったD君は「解剖のスケッチがじつに見事だった」と、述懐している。
最近日本画を正式に勉強し出した。京都画檀で活躍中の村居正之画伯に師事し、めきめきと腕を上げた。初め人造岩絵具を使っていたが、現在は天然岩絵具を使用している。高価な物だが村居先生の個展を見て感動し、天然の岩絵具の世界に挑戦したいという気持ちを抑えきれなくなった。今年は二度目の個展開催を予定している。
 納君から日本脳卒中協会発行の卓上カレンダーを貰った。カレンダーに納君描く櫻島の日本画が、私の気持ちを慰めてくれる。

参考資料:納光弘のホームページ