思うこと 第238話     2007年7月28日 記         

平家落人・奄美統治の跡を訪ねて−その3−

平家落人・奄美統治の跡を訪ねては、すでに『232話−その1−』『233話−その2−』で述べたが、今回は残された文書等を通して、その足跡を追いたい。
まず、最初の手がかりとなったのは、父親の郷里の戸口出身の方々による会誌であった。

この中には、平 行盛と戸口の関連を中心に資料が網羅されている。
これを手がかりに、鹿児島県立図書館奄美分館で文(かざり)英吉著の『奄美大島物語』を借り、コピーさせてもらった。

この本は、南島社から昭和32年2月28日発行(343頁)されたもので、今や絶版で、やっと奄美分館で捜し当てることができた。著者の文(かざり)英吉氏(下写真)は、その生涯を奄美の民話・民謡の収集研究に捧げたかたで、この本はその集大成ともいわれるもので、奄美の歴史と文化を今に伝える貴重な著書と位置づけられている。

もう一つ私が捜し求め、ついに手にすることが出来た本が


この、『大奄美史』である。この本は、奄美社から昭和24年12月25日初版が発行され、昭和43年5月15日に再版がだされたが、現在絶版となっている。私は人づてに捜したが持っている人が見つからなかったので、昇 曙夢氏の研究者として著名な安野英紀・奄美病院院長に相談したところ、財団法人慈愛会の初代会長の今村源一郎先生が購入され、愛読されていた『大奄美史』が院長室で保管してあるとのことで、数日後には私のもとに届いたのであった。今村英仁理事長とも相談した結果、慈愛会本部で保管することとし、しばらくは私があずかることとなった。この本の著者の昇 曙夢氏は本邦のロシア文学の先駆者として著名であるが、氏の出身地が奄美大島の芝で、くしくも私の母方の郷里でもある。この本の末尾に氏の略歴と写真があったので、下に紹介する。


さらに、『233話−その2−』でのべた私の父の郷里・戸口訪問の際、戸口在住の泉 達郎氏にお会いでき、氏からあずかった以下の3つの資料も大いに参考になった。



以上の資料を通読させてもらったが、いずれの著書でも、記述の元になっているものは、薩南硫黄島の『旧記三所大権現鎮座本記』と、『平家没落由来書』の2つである。これに、口碑、伝説、遺跡等で補われている。まず、それら2つを紹介し、その後に、行盛居城跡のポーリング調査の結果を紹介したい。
薩南硫黄島の『旧記三所大権現鎮座本記』には次のようなことが記載されている。
 新大納言知盛は、内大臣資盛と計って天皇を九州の安全地帯に供奉することに決し、大納言時房、中納言経正、参議業盛等の諸将と女官佐の内侍、狭野の内侍等主従300余人、三位中将資盛を征夷大将軍として、寿永4年3月15日の薄暮壇ノ浦を発した。(別の或書では、壇ノ浦の戦いでは有盛の8歳になる娘を帝の身代わりに海に沈めたとも記されているという。)軍団は、翌日16日未明に伊予の高島に着き、17日日向の細島に着いた。此処でしばらく形勢を探ったが、追手の軍勢日向路に入ったとの情報があったので、29日細島を出帆し、逆風に妨げられて4月5日に漸く大隈の志布志に辿り着き、漸くここで滞留されたが、更に南下し、種子島の浦田に安着された。当時、種子島は上の郡、中の郡、下の郡の3区に別れ、熊毛某、能満某、平山某の三吏が支配していたが、事あって三人とも剃髪して世人これを三入道と呼んでいた。或る日、上の郡の主宰熊毛入道、兵船が浦田港に来たことを聞いて大いに驚き、早馬にて浦田の様子を探らせたところが、帝の軍船で壇ノ浦から遁れ給えるものなることがわかり、驚き、とりあえず薪水糧食の世話をなし、懇ろにお慰め奉った。入道は他の2人の者が鎌倉に内通するようなことがあっては大変なことになると考え、糧食その他の便宜は今後とも誓ってお引き受けするので、更に安全の地を選び叡慮を安んぜ給えと上申したので、一同協議の末、彼方の煙を吐く硫黄島こそは、安全の地なるべしとて、5月1日、彼の島に渡り給うたのであった。見るとこの上ない要害地であったから、ここを皇居の地と定め、直ちに黒木の御所を造営して、天皇の入御を仰いだ。それから城を四方に構え、軍勢を諸手に配って警護を固め、一心に主上を守護したてまつった。然るに、着島後18年目の建仁二年(1202年)春に至って、源氏の兵船らしい白旗白印の船が度々海上に出没するようになった。資盛初め万一のことを慮り、主上の安泰を計るため、長年の旧臣はこの際南の島々に身を隠し、敵に顔を知られない人々によって皇居を守護せしめたほうが万全の策であるとして、建仁二年4月、資盛等は奄美大島に、清房・忠綱は屋久島に、宗親・通正は黒島に遁れた。その後主上には島々から献納する糧米によってあじきなき世を永らえたもうたが、完元二年(1243年)5月5日の夜、66歳を以ってはかなくも崩御あそばされたと。
 この由来記を立証する遺跡・遺物については、文(かざり)氏はその調査結果の一覧表を挙げてある。天皇43歳の時、資盛の娘と御成婚、三年後に隆盛親王が降臨されたが、その時にはすでに後鳥羽天皇が即位されていたので、天に二日なく地に二君なしというところから、御年二歳にして臣籍に降下、長浜家を創設せられ名を吉英と改められた。調査の時、硫黄島で文(かざり)氏がお会いした長浜豊彦氏は33代の末孫にあたるという。
 以上、昇 曙夢氏著の『大奄美史』と文(かざり)英吉著の『奄美大島物語』の2つの著書を通して、薩南硫黄島の長浜家に伝わる『旧記三所大権現鎮座本記』の記載内容を中心に紹介した。次に、同様に、この2つの本に記載してあった内容をもとに、『平家没落由来書』を紹介する。
 『平家没落由来書』は安永二年(1773年)6月、島津藩の命により、時の大島名瀬方役目道響の報告したものであるが、道響自身が作成したものではなく、平家渡来当時平家側(多分行盛勢)の手になったらしい記録を写して報告したものであると昇 曙夢氏著は『大奄美史』の中で述べている。道響は大島竜郷村戸口の人で、代々能呂久米(のろくめ、女神官)の家柄である。昇 曙夢氏は由来書中の不明な点は宝暦8年(1758年)12月に通事方与人格寿文、瀬名方役目定俊両人の名義で上司に提出した記録によって補ったとの事。では、その内容を紹介しよう。
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 建仁二年(1202年)4月硫黄島から奄美大島を指して南下した資盛は手兵2百人と共に、先ず喜界島に上陸し、まもなく居城を構えて七城と称した。今日平家の森と呼ばれているものはその跡とのこと。此処に3年ほど滞在しているうちに、計らずも20年前屋島において別れた有盛・行盛の二将が遥々彼の跡を追って来たのに逢った。喜界島のこれら三将は、近くに横たわる大島の攻略を計画、小船5艘の偵察隊を大島に遣した。3ヵ月後に帰ってきた偵察隊の報告で、これなら征服出来ると判断し、平資盛、有盛、行盛の三卿は奄美本島を3方から一挙に攻め、本島を完全に制覇したのであったが、その詳細は次回『その4』で述べる。