思うこと 第232話 2007年7月10日 記
平家落人・奄美統治の跡を訪ねて−その1−
私にとって、6月15日から16日までの1泊2日の奄美市(旧名瀬市)の講演旅行が、極めて実り多く、充実したものであったことについて、『個人的出来事 第81話』で述べた。この6月15〜16日の旅の目的は大島郡医師会・薬剤師会勉強会で講演をするためであったが、私は空港と名瀬との往復の合間をぬって、平家落人の奄美大島統治の跡を訪ねた。
安徳天皇は平家物語では壇ノ浦で崩御されたことになっているが、島の伝承によると平家の船団に擁されて南海の硫黄島に生き延びたとされている。その後、喜界島に集結した軍団は、三年間本島の様子をうかがった後、平資盛、有盛、行盛の三卿は奄美本島を3方から一挙に攻め、本島を完全に制覇した。その後、三卿は奄美本島を3分して統治し、資盛は諸鈍に居城を構えて全軍を総管し、有盛は浦上に居城を構えて北部を警備し、行盛fは戸口に居城を構えて東南を警備した。その居城のあった地域に、現在、それぞれ、大屯神社、有盛神社、行盛神社があり、村人達により祭られている。
今回は、時間的余裕がなく、駆け足で下の赤字で書き込んだところだけを見て回ったので、写真を紹介し、次回以降、残された文書などをたよりに注釈をくわえてゆく。
上述の赤字で書き込んだ所が、今回訪れた場所である。
まず、浦上の有盛神社、名瀬市の空港への国道沿いにあった。
有盛が源氏の軍船の見張り(遠見番)を配置した跡が現在今井権現神社として祭られている。
今回は、時間の都合でその横の絶景の岬、今井崎にのみ立ち寄り、
今井崎灯台の展望台(下写真)から、
の龍郷湾に広がるソテツの自生林(判り難いが、湾の向こう側の山肌はソテツで覆われている)を堪能した。
対岸の半島に行盛が源氏の軍船の見張り(遠見番)を配置した跡が蒲生権現神社として祭られているとのことであったが、今回は行く時間がなかったので、今井岬灯台のところからの遠景撮影だけにした。下の写真の半島中央部にちょっとだけ隆起した場所があり、それが展望台で、その横に蒲生権現神社があるとのこと。
さて、もう一つの史跡めぐりの戸口の行盛神社訪問、ならびに、資料については次回以降で述べる。