思うこと 第184話           2007年1月27日 記       

『硫黄島からの手紙を観て−その2−

第183話の『硫黄島からの手紙を観て』で語り足らなかった大事なことがあるので追記する。
硫黄島の戦いの日米の兵力と死傷者の数字をみてみる。
硫黄島の日本兵は21,152人に対し、硫黄島を取り囲んでいた艦隊の米軍は総数25万人で、そのうち上陸した海兵隊員は61,000人。この上陸した61,000人の米軍兵士の内、実に6,821人が戦死し、21,865人が戦傷。米軍死傷者の合計は28,686人にのぼる。上陸した海兵隊の約半数が死傷したことになる。この時の米軍は制空権、制海権を完全に握り、圧倒的な火力の差があったことを考えると、日本軍の地下洞窟戦法がいかに有効に機能したかがわかる。そして、ここまでは映画でも語られた。
 私がここで取り上げたいのは、日本兵21,152人がどうなったのか、ということである。米軍が上陸を開始したDデイは昭和20年2月19日、そして、栗林兵団長が戦死したとされる日が3月26日未明、この時、大きな戦闘が終了し、米軍がほぼ島を制圧したといっていい。では、この時、日本軍は全滅していたのか?そうではないのである。多くの推定では約1万人が生き残っていたとのことである。このうち、1023人が捕虜となって生き延びた。このうち、野戦病院の野口巌院長(大尉)による入院患者を率いての4月10日の集団投降は有名である。野口院長は投降を決意し、72名が多数決で決めることになり、賛成69人反対3人で、反対者の一人小島伍長のみは自決し、残る71名が投降したとのこと。では捕虜にならなかった兵士の最後はどうであったか?推定では、戦死は3割で、残りは自決または毒物の注射で処置されたとのこと。戦争の悲惨さに胸が痛くなる話である。もう一つ、どうしても付け加えて語りたいことがある。それは、海軍部隊に徴用されて労務者として連れてこられた韓国人が1,500名も存在していたことである。これらの方々の胸中、察して余りある。我々は、戦争の悲惨さを語る時、このことも決して忘れてはならないのである。