思うこと 第147話 2006年10月17日 記
郷中教育についてーその4−
私の父と郷中教育
そもそも私が薩摩藩の『 郷中教育』について語りたくなったきっかけは、九州大学の信友浩一教授からのメール;『納先生、先週、出水市に参りました。そして、先生のHPの『思うこと第102話』に書いてある「出水兵児修養掟」を麓武家屋敷の仏間ではなく納戸で拝見して来ました。・・・・・・(中略)・・・・・納先生はお父上から郷土教育を受けられたようですが、学校では今も郷土教育がされているのでしょうか?』
を読んでの事であった。私の父は、仏間の『 出水兵児(いずみへこ、鹿児島弁では“いずんべこ”)修養掟』(下の写真に示す)を、毎日声を出して読み、私達子供達も毎日声を出して読む習慣がつき、いつしか、この掟は私の人生の掟として幼少時代から体にしみこんでしまっている。
『 出水兵児修養掟』
士は節義を嗜み申すべく候。節義の嗜みと申すものは、口に偽りを言はず、身に私を構へず、心直(すなお)にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂(へつ)らはず、下を侮(あな)どらず、人の患難を見捨てず、己が約諾を違ヘず、甲斐かいしく頼母しく、苟且(かりそめ)にも下様の賤しき物語り悪口など話(ことば)の端にも出さず、譬い(たとい)恥を知りて首刎ねらるゝとも、己が為すまじき事をせず、死すべき場を一足も引かず、其心鐵石の如く、又温和慈愛にして、物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと申すもの也。
この、「出水兵児修養掟」は『士』を『人』に置き換えれば、今でも立派に青少年の教育に使えるものである。私の父親が、これを毎日子供達と一緒に声を出して読んだと言う事は、結果的には私も『
郷中教育』的な精神を父親から教えてもらったことになる。ただ、私の父は自分の毎日の日課・習慣として声を出して読んでいたのであり、、唯の一度も私達に『読みなさい』といったことはなかったし、『
郷中教育』という言葉を聞いた憶えもない。これに加えて、唯の一度も父から『勉強しろ』と言われた記憶がない。私達子供は外で皆と遊ぶのが当たり前で、机に座ってする勉強は自分自身がやりたいと思った時にスタートすればよいと、父は思っていたのだろう。それに私の父は、決して怒ることをしない人であった。私は、私の一生を通じて、唯の一度も父に怒られたこともなければ、ただのいちども他人に対しても父の怒った顔を見たことがなかった。ただ、私の祖母は、私が4歳の時(終戦直後)に畑仕事の時誤って目を突き、それが元で最終的には全盲となり、その後の祖母の楽しみは、ラジオを聴く事と、私に昔話を話し、人間の生き様を教える事だった。私は、自他共に認める“おばあちゃん子”として、夜もいつも祖母の横に寝て、御伽噺や訓話を聞いて寝入るのが常だった。祖母は時々、『光弘は今はまだ子供だから遊んでいるだけでいいけど、男は世の中の役に立つ人間にならなければならないのだから、いずれ時期が来たら、本気で勉強しなさいよ。』と言っていた。その祖母が、私が中学2年生から3年生になる春休みに病死した(享年84歳)。その時、声を出して長時間泣き、涙がかれたところで、祖母の言葉を思い出し、『これを機会に、勉強はじめよう』と決意し、そこから、私の計画的勉強生活が始まったのであった。これも、祖母から『
郷中教育』を受けたわけではないが、何かしら、そのような雰囲気みたいなものを与えてもらったのかもしれない。
最後に信友先生の質問の『学校では今も郷土教育がされているのでしょうか?』に答えると、もろに『
郷中教育』をかかげている私塾が鹿児島市内に幾つかあり、そこには5歳ぐらいから13歳ぐらいまでの少年が土曜日に集まり、昔の『
郷中教育』さながらの訓練を受けているとのことであるが、私はその詳細は知らない。それから、私が受けた小学校、中学校、高校の授業では、何かしら『
郷中教育』の精神みたいな教育で満ちていたように思うが、『 郷中教育』という言葉はついぞ聞いた覚えがない。鹿児島で育った多くの私の世代の若者は、私と同じようにして育ったように思う。