思うこと 第143話           2006年10月13日 記

郷中教育についてーその1−

 九州大学に信友浩一教授という傑出した人物の存在については、かって『思うこと 第21話』で紹介したが、 先日その信友先生から次のようなメールをいただいた。
『納先生、先週、出水市に参りました。そして、先生のHPの『思うこと第102話』に書いてある「出水兵児修養掟」を麓武家屋敷の仏間ではなく納戸で拝見して来ました。解説に曰く「学校教育が制度としてなかったころ、・・・・・・・・・・・郷土の先輩たちの手により独特の学風や士風が醸成され・・・」とありました。その見識からすれば、現行の学校教育に委ね、郷土の独特の学風・士風を醸成することを、何時頃から放念してしまったのだろうか?、 と多いに気になって出水を離れた次第。納先生はお父上から郷土教育を受けられたようですが、学校では今も郷土教育がされているのでしょうか?知らないからお尋ねしているのですが、郷土教育の上に国民教育があるのでは、と出水訪問以降、考え始めています。』
 私はこの信友先生からのメールを読んで、この機会に薩摩藩の『 郷中教育』(薩摩の発音では“ごじゅきょういっ”であろうが、現在は“ごじゅうきょういく”または“ごうじゅうきょういく”と呼ばれている)について、このHPで語ることにした。 とても一度に語れる量ではないと考え、何回かに分けて語ることにする。

 現在日本の教育現場では『郷土教育』の重要性が説かれている。この『郷土教育』の原点は鹿児島藩(薩摩藩)で行われていた『 郷中教育』に他ならない。薩摩の『 郷中教育』に似たものとしては会津藩の「什」があるのみである。信友先生がメールで言われた出水の『郷土教育』とは、出水の『 郷中教育』のことである。 出水は肥後と国を接する薩摩の表玄関にあたり、国境の守りとして古来から、武道に力を入れ、薩摩でも抜きん出た士気と兵力を有していた。 1587年(天正16年)に豊臣秀吉の九州征伐の際、秀吉勢が出水の防衛線を突破した途端、島津氏が豊臣氏に降参したのも、出水を最終防衛線と位置づけていたからに他ならない。『 郷中教育』にはそれぞれの郷中ごとに掟があり、出水の郷中の掟が「出水兵児修養掟」であり、薩摩の『郷中の掟』の中でも抜きん出たものとして、高い評価を得てきた。それゆえ、私の父親もこの「出水兵児修養掟」に対し『家訓』なみの扱いをしていたものと思われる。薩摩独特の青少年育成のための、この『郷中教育』のはじまりは、実は豊臣秀吉が九州を制覇した後の、豊臣秀吉の命による朝鮮出兵の時にさかのぼる。留守を預かる武士の青少年の風紀が乱れた事があり、これを心配した留守居役の家老たちが考案した青少年教育システムが薩摩郷中教育といわれている。 もっとも、後の章で述べる予定の日新公(島津義久・義弘公兄弟の祖父)がすでに郷中教育の原型ともいえるかたちで青少年育成に力を注いでおり、後の『 郷中教育』の中の柱の一つが『日新公のいろは歌』(これも後の章で詳述の予定)を暗誦し実行することでもあったから、島津義久・義弘公兄弟の時代に突然『 郷中教育』が考案されたというよりも、この頃に制度(システム)として確立されたと考えるべきであろう。
 では、『 郷中教育』のシステムについて語ろう。『 郷中教育』は薩摩藩の武士階級子弟の教育法で、面積でいうと4-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年の教育システムで、一つの「方限(ほうぎり)」は40〜80戸ほどの比較的小さな集団で、鹿児島の城下町はほぼ30の方限(ほうぎり)からなっていた。鶴丸城近くの方限には上級武士が住んでいたが、甲突川近辺は下級武士が多く住んでいた。西郷隆盛の育った加治屋町方限は、甲突川東岸ぞいの地区で、今の加治屋町にあたり、当時約七十戸があった。このせまい方限から、西郷はじめ大久保利通、吉井友実、伊地知正治、篠原国実、村田新八、西郷従道、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛、などたくさんの偉人が出ている。まず、現在の鹿児島市の航空写真(私がヘリに乗り撮影した)と地図を示し説明しよう。


下級武士が住んでいたのは加治屋町ばかりではなく、幕末当時はまだ田畑の多い地区であった上之園町、高麗町、上荒田町にもさらに下級の武士達が住んでいて、それぞれ上之園町方限(ほうぎり)、高麗町方限(ほうぎり)、上荒田町方限(ほうぎり)とよばれ、それぞれで郷中教育がなされていた。これら3つの方限(ほうぎり)の合計戸数は約400戸であったという。実は、この3つの方限(ほうぎり)からこそは多くの明治維新の立役者が出ており、それらの偉勲を顕彰するために『三方限(さんぽうぎり)の碑』(左写真)が3つの方限の境界地に、有志により昭和10年に建立された。碑には48人の我々がよく知っている維新の立役者の名前が刻まれている。この『三方限(さんぽうぎり)の碑』は私が3年間通った甲南中学校の正門横の校庭にたっていたので、私にとっては庭の一部みたいなものであった。私が小学1年から4年まで通った中州小学校も、新たに分校開設され5年と6年を過ごした荒田小学校も、上述の甲南中学校も、そしてまた高校時代を過ごした甲南高校も、全てこれら3つの方限(ほうぎり)の中にあった。さらにおまけまでついていて、私が35年の永きにわたって奉職してきた鹿児島大学の本体もこの中に含まれる。これら5つの学校を上の地図に緑色のサークルで示した。もう一つ私個人との関わり合いを言うと、上記の地図で「私の実家」の場所を記したが、ここで私は小学、中学、高校時代を過ごしたが、加治屋町と上記3つの町ならびに甲突川は私の子供時代の遊び場で、鹿児島大学の敷地も当時は農学部が主体で(前身の高等農林学校の略称の高農と呼ばれていた)、畑と木立で覆われ、我々子供達にとっては格好の遊び場となっていた。今から思うと、放課後、全く勉強などせず、全ての子供達が暗くなる直前まで、すもう、めだま、かった、喧嘩にあけくれていたのは、『 郷中教育』の 小稚児(こちご、6-10歳)ならびに長稚児(おせちご、11-15歳 )の姿と2重写しになる部分もないでもない。前置きが長くなったが、システムに話をもどすと、各方限(ほうぎり)では郷中教育は 小稚児(こちご、6-10歳) 、長稚児(おせちご、11-15歳)の上に 二才(にせ、15-25歳) 、長老(おせんし、妻帯した先輩)の2つのグループがあり、計4つのグループで編成されていた。 それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負う立場にあった。西郷隆盛は、二十歳のころ、下加治屋町郷中の二才頭に選ばれ、誠意をもって後輩を指導した。郷中教育では、先輩が後輩を指導し、特に難しいことは二才頭に教わることになっていたので、隆盛の所には何人もの後輩たちが教えを受けにきた。明治維新にはこの加治屋町方限(ほうぎり)からも、数多くの偉人が出たが、そのほとんどが隆盛の影響を強く受けて育ったといわれている。さて、小 稚児の生活は、早朝、毎日先輩の家へ走っていって本読みを習い、家に帰って朝食後その復習をしたのち今度は、馬場と呼ばれる広場や神社の境内などに集って、馬追いや降参言わせ、相撲、旗とりなどの山坂達者によって身体を鍛え、午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、槍、弓、馬術など、武芸の稽古というものであった。長稚児たちの生活様式は、夕方から二才たちが集まっている家に行って、郷中の掟を復唱したり自分たちの生活を反省し、武士の子としてよくない行いがあれば注意を受け、場合によっては厳しい罰を受けることもあった。このように、『 郷中教育』は、一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾(しつけ)・武芸を身につけ、勉学に勤(いそ)しむというシステムであった。私の子供時代は加治屋町、高麗町、上之園町、上荒田町の4町を縦横に遊びまわっていたが、江戸時代の郷中は極めて自己閉鎖的な集団で、剣術や槍の稽古をするときでさえ庭の周囲にむしろをはりめぐらし、他の方限のメンバーには見せないほどだった。したがって、方限の違う郷中同士が町ですれ違うと、ひんぴんと喧嘩が起きた。その喧嘩のさい、犯してはならない戒律があった。それは「刀は決して抜いてはならず、万一抜いた場合は、かならず相手を止め刺さなければならない。いったん刀を抜いて、むなしく鞘におさめるのは、男子の恥辱なのである。刀を抜いた場合はもちろん、抜かないまでも相手に重傷を負わせ、ついに死に至らしめたような場合、加害者は藩庁の裁きを待たずに、切腹して果てなければならない。他方では、喧嘩で負けてはいけない。同時に、怪我を負わせるような勝ち方もいけない。要するに郷中では、「大人の喧嘩の仕方」を学ぶのである。喧嘩だけではない。郷中では、「大人になる」ことを学ぶのが全てであった。その教育の内容は「武士道の義の実践」 と「心身鍛錬」が中心で、 「嘘を言うな」 「負けるな」 「弱いものいじめをするな」「質実剛健たれ」の教えが繰り返したたきこまれた。 このように、 教育の中味は、ずいぶん厳しい「しつけ教育」であったが、厳しいなかにも特に幼少者に対しては慈愛をもってあたったようであり、また、年中行事の活動のなかには、慰安の含みもあった。教育の方法は、各郷中で独特のものが工夫され、会員相互がなんでも心から話しあえる会である反面、各自が日常守るべき規約を定めて、違反した人は、処罰するという厳しいものでもあった。次回の『 郷中教育についてーその2−』では、そのきびしい処罰の実例を紹介する。