本公開講座を市民にお知らせする新聞広告

第46回日本神経学会総会市民公開講座

日 時:平成17年5月28日(土)

場 所:鹿児島市市民文化ホール第1ホール


【司会者】 
 お待たせいたしました。ただ今より、第46回日本神経学会総会市民公開講座を開催いたします。開催にあたりまして、第46回日本神経学会総会学会長、鹿児島大学神経内科・老年病学分野教授、納 光弘よりごあいさつ申し上げます。

【納 光弘】
 皆さん、こんにちは。今日は、はるばるこうして皆さんお集まりいただいてありがとうございました。実は、私晴れ男ですから天気になるって思っていて、そして、その通りなってくれましたが、人数に関しましては、どれぐらいの方が集まってくださるのか心配でした。もし、ほんの一握りだったら、山口先生と井形先生に申し訳が立たないと。だけど、会場に入りきれなかったら、今度は来ていただいた方に申し訳が立たないと。この1900人は入る大フロアーが、少しゆとりをもってほぼ満杯というのが私の理想だったけど、きょうは、もうまさに皆さん方が理想を実現してくれまして、もうこれ以上の感激はありません。
 今日の講演会は神経学会のような学会が、直接市民に情報公開をするというのは、とても大事なことだと思って企画させていただきました。しかも、私が最初の口火を切りますけれども、引き続き日本の最高峰の井形先生と山口先生に、お話をいただけることになりまして、もうこのことも、私にとっては非常に感激でございます
それでは、早速、会を始めさせていただきたいと思います。

講演1
「健康な暮らしに役立つ内科の知恵」

座 長:大勝 洋祐 大勝病院院長
講演者:納  光弘 鹿児島大学大学院医歯学総合研究科
          神経内科・老年病学(第三内科)教授

【司会】
 それでは、さっそく講演を開始いたしたいと存じます。
 はじめは、「健康な暮らしに役立つ内科の知恵」納 光弘の講演でございます。座長は、大勝病院院長、大勝洋祐先生にお願いいたしております。大勝先生、よろしくお願いいたします。

【大勝 洋祐】
 座長の大役を仰せ付かりました、大勝病院の大勝です。マイクの都合で座ったままで、座長の役を務めさせていただきます。
 先ほど、納先生から簡単にご紹介がありましたけれども、昨日まで3日間、日本全国から神経内科の専門とする先生方が4,000人も鹿児島に集いまして、世界的レベルの研究とか、あるいは討論、そういうものが熱心に行われてまいりました。納先生は、その学会の会長さんで、その3日間を立派に素晴らしい会に仕上げていただいたんですけれども、 本日は、また納先生の企画で市民公開講座として、お3人の講師の先生方が講演されるわけです。納先生も含めて3人の先生方は、日本で最高トップクラスの方々で、この3人が顔を合わせて公開講座をされるということは、非常に難しい組み合わせだと思うのです。それがこのように実現したことを、大変私も1人の聴衆として楽しみながら、きょうの講演会を拝聴させていただきたいと思っております。
 納先生は、ただ今アナウンスのほうからご紹介ありましたように、鹿児島大学病院神経内科・呼吸器内科の教授をしていらっしゃいますけれども、先生のご略歴については、きょうの講演の中で何かお話が出るらしいのです。本日のサブタイトルが「私のこれまでの歩みをご紹介しながら」ということですので、私のほうからあえて蛇足を付け加えません。きょうの納先生の講演を楽しみにしてお伺いしたいと思います。先生、どうぞよろしくお願いいたします。

【納 光弘】
 どうも、大勝先生ありがとうございました。
 それでは、早速、お話を始めさせていただきます。この桜島の写真は、おとといの昼、ここの会場から撮ったものです。
 それでは、今日、私は、
「健康な暮らしに役立つ内科の知恵」というお話をいたします。このタイトルは、1年前に決めてていたのですが、その後お話したい材料を集めたら、とってもたくさんあって、それを全部しゃべると10時間ぐらいかかりそうなんですよね。それを30分でしゃべるのは、やはりこれは無理だなということでかなり絞って省略して、「私のこれまでの歩みをご紹介しながら」というサブタイトルをつけさせていただいて、文字通り私の内科医師としてのこれまでの歩みをご紹介する中から、なにか皆様のお役に立てるお話ができればと考えた次第です。


 それでまず、私の自己紹介から始めますけれども、私は甲南高校を出て、九大を出て、消化器内科を3年ぐらいして、それから、聖路加病院で研修して、ここで、日野原重明先生との運命的な出会いがあったのです。










これは、私のホームページからスライドに作ったものです。詳しくは、私のホームページの
http://www5f.biglobe.ne.jp/~osame/essei/seiroka-omoide.htmlをご覧ください。 私にとって聖路加病院でのレジデント研修の期間は、わずか8ヶ月という短い期間ではありましたが、私のこれまでの人生のなかで、とても貴重な、かけがえのない、そしてまた私の人生の転機となったすばらしい8ヶ月でした。1970年5月から12月までという異例の短期間でしたが、これは私の医学部同級生の友人が都合で急遽、聖路加病院のシニアレジデントを辞さなければならなくなり、その後任として臨時かつ短期の内科シニアレジデントに任命していただいたという特殊事情によるものでした。それまで大学でインターン研修を行い、その後、大学の消化器内科で3ヵ年をのんびり過ごしてきた私にとって、聖路加病院でのレジデント生活は震度8を超えるようなカルチャーショクの連続でした。日野原重明先生の回診での一言一言に感動し、それまでしらなかった臨床のすばらしさと奥の深さに、心底から驚いたのでした。日野原先生との出会いがその後の私の人生を変えたと思います。

去年の10月16日、日野原先生が「輝いて生きる」という講和をされたときにお会いしたときも、
http://www5f.biglobe.ne.jp/~osame/omoukoto/23-wa-hinoharasennsei-kouenn/hinoharasennsei%20-kouenn.htm
やはり、相変わらず日野原先生は輝いておられて、私も93才まで長生きできて、そしてあれぐらい輝やけたらなあと、とってもうらやましく思ったのでした。今日の私の話は、どのような生き方をしたら、年をとっても輝けるのかということの一端でも話ができたらなあというようなことを考えている次第でございます。



 それでは、私の人生にとって最大の出会の、井形先生との出会いについてお話いたします。それは1971年のことでございました。時は、昭和46年の10月で、これは当時の鹿大病院の写真です。









この旧鹿大病院の、1番目の建物と2番目の建物の間にあったプレハブの半分が、私たちの第3内科スタートのときの教室のすべてでございました。











ここで、私は、井形昭弘先生にお会いしたのです。これは、当時の先生のお写真で、先生は42歳の若さで教授として東京から赴任してこられたのでした。私は、井形先生に感動して一番目の弟子として、弟子入りさせていただいたのでございます。








そのとき、私は28歳で、その1年後の、これが私の写真ですけれども、ほんとに夢多きと言いますか、井形先生から夢をいただきまして、そして、きょうの今まで夢を追って生きてきたわけでございます。









1973年、井形先生にお会いして1年半後に、国立療養所南九州病院の筋ジストロフィー病棟の病棟医長として、井形先生の命(めい)を受けて勇んで赴任いたしました。そして、その病棟を新しく建設する作業をする中で、常に私の頭の中にあったのは「納君、医学の進歩に期待しながら、いつの日か治る日の来るのを夢見ている患者さんたちのために頑張ってほしい」という井形先生のお言葉でした。そして、私は、その筋ジストロフィー症の患者さんたちとの出会いの中から、私の一生は、神経難病の解明に取り組むことというふうに固く決意したのでございます。


 そして、その夢を果たすべく、さらに腕を磨いて、この病体を明らかにしなきゃいけないということで、旅発って行ったのが、「メイヨークリニック」でございました。ここで私は、3年間の留学生活をしたのですけれども、これがちょうど、留学することのきっかけになったときの写真で、世界最高峰の筋委縮症の研究者のエンゲル先生が、井形先生を頼って一路、鹿児島にお見えになりました。そのときの横におられるのが、ただ今、座長をしている大勝先生が助教授の時でございます。



 そして私は、勇んでロチェスター、ミネソタの「メイヨークリニック」に出かけて行ったのです。この町は旭川と同じ緯度のところで、しかも大陸の中にあり、シベリアみたいに寒いことで有名な地域でした。









しかもことさら寒い時の12月25日の夜に着きまして、ウィンドチルを含めてマイナス76度という人間想像のできない中で生活を開始いたしました。











このスライドにお示しいたしましたように、この私がおりました3回の冬(1977年から1980年)が記録的な寒さの年でした。冬の間の最高気温の数カ月の平均がマイナス14度で、一度もマイナス10度以上になった日がなかったという記録的な3年間を過ごさせていただきました。








おかげで私が見るもの、聞くもの、南国育ちの私にとっては、もうまるで別世界の経験をさせていただきました。これは、研究室と駐車場の間に立っていた木の樹氷です。











二重窓の外のガラスには、日に日に雪の結晶が大きくなって春が来る直前には、10センチほどの結集になっていたのを思い出します。











ある朝、大学に行こうとしたときに、黄金のように輝く虹の世界に驚いて、よく見てみますと、それはキラキラ光るダイヤモンドのような小さな結晶が空中に舞ってからなっておりまして、の水滴が凍って虹を作る、いわゆる、ダイヤモンドダストと呼ばれる現象でございました。







 このメイヨークリニックというのは、たった5万人の町なのに、従業員が全部で1万人を超え、働いているお医者さんだけで、1,300人という想像を絶する大きな病院です。










どちらの方向に車で10分間走ると、地平線がそこに広がっていて、すべての人が高速道路か、飛行機で世界中から集まって来られるというそういう病院でありました。











そこで私は、家族4人で3年間の生活をしました。この写真の後ろに見えるのがメイヨークリニックです。













これは、私が書いたスケッチですけれども、私が住んでいたアパートは、このようにとっても環境の良い、これがアメリカンライフだというようなところでありました。











研究に関しましては、私は毎日、毎日、筋委縮症の患者さんたちの顔を思い浮かべながら、いわゆる、臥薪嘗胆、3年間全力を上げて取り組み、それなりの成果を出すことができて、アメリカの筋ジストロフィー協会から賞状ももらって帰って来ることができました。








 帰国しました時に実は、ちょうどその時に、本日、座長をしていただいている大勝先生が、助教授から今度は大勝病院を開設され、そして私が、大勝先生の後を継いで三代目の助教授に就任したわけでございます。









大勝先生は、その後、神経内科のみの単科病院としては、日本一の規模の病院に育て上げられたわけでございます。












しかも、大勝先生は昨年4月、鹿児島大学医学部臨床教授に推挙されまして、多望な業務に加えまして医学部学生の指導にも活躍しておられ、そして、井形先生が理事長をしておられる日本尊厳死協会の理事であり、また鹿児島支部の支部長でもあるわけでございます。








 私が、メイヨークリニックから帰って来ました時に、その時に、私がやはり常に思っておりましたのが、あの井形先生の「納君、医学の進歩に期待しながら、いつの日か治る日の来るのを夢見ている患者さんたちのために頑張ってほしい」という、私が出会った時におっしゃった、あの言葉でございました。






そして、いろんな病気にチャレンジし、かなりな成果をひとつひとつ上げることができたように思っております。中でも、この「HAM(ハム)」という病気の患者さんたちとの出会い、そして、それに私が井形先生と共に名前を付けて、そして治療の、この病気を治すんだということで、若者たちと一緒に随分頑張ってきました。







細かいことは申しませんけれども、結局、HAMの発症機序を解明して治療法を確立し、できれば発症因子を解明して発症予防をし、効く薬だけを選んで投与するという目標に対して、現在、もう非常に幸いなことに発症機序については、私はかなりのところまで解明できたと思っております。しかし、残念ながら治療法の確立では、今ちょうど山の半分まで来たかなと。できることなら、できるだけ早い機会にこの数字を100%にもっていきたいとそういうふうに思っている次第でございます。





今、HAMの話をしましたけれども、実はもちろんのことですけれども、HAMだけではなくて、今、第3内科の若い先生たちは、市民皆さま方の目から見えないところで、まだ治療法が確立していない多くの病気の治療法の研究に、毎日、毎晩、深夜遅くまで、頑張っていることをここでご報告いたしたいと思います。







 ではここで、私たちの第3内科の診療内容について、お話しさせていただきたいと存じます。第3内科は、神経内科と呼吸器内科が中心の科でございます。一方、これは、私は患者でもありますけれども、痛風・糖尿病、膠原病・アレルギー・血液、血液凝固。もちろんこの辺のところは、1内科、2内科、3内科のそれぞれ専門の皆さんが一体となってチームを組んで頑張っているのであります。





 さて、この神経内科ですけれども、神経内科というのは、脳・脊髄・神経・筋肉の障害によって起こる病気を内科的に診るということが、この神経内科の説明です。けれども部分的には、脳神経外科、あるいは整形外科と共同で患者さんを診ることもありますし、心療内科と共同で診なきゃいけない患者さんもいらっしゃいますし、精神科と共同チームをつくって治していかないといけない患者さんもあるわけでございます。





そして、この神経内科の病気の患者さんというのは、もう実に多くて、一番多いのは、やはり頭痛ですね。そして、脳卒中・痴呆、現在認知症とも呼びますが、その他含めて600万人以上の患者さんが日本にいらっしゃるわけでございます。









それで、どんな症状を見たら神経内科の病気を疑うかと言いますと、簡単でございまして、とにかく、目まい・しびれ・頭痛・物忘れ・力が入らない・歩き難い・ふらつく・しゃべりにくい・ひきつけ・けいれん・手足が痛い・勝ってに手足がに動く。このようなのがどれか一つでも、どんなに軽くても、私たちの領域の病気で、ほとんどの病気を私たちは、かなりなきちっとした形で診断でき、かなりな部分が治療可能な病気でございます。





 では、結局そのような症状から、診断に行き着くときに、どのような診断に納まるかと言いますと、脳卒中・頭痛、これが一番多いのです。それから、てんかん・しびれ。しびれは診断ではないのですが、まあ分かりやすいようにしびれと書いて、これは末梢神経障害の感覚障害という意味です。それから、四肢麻痺・痴呆認知症・筋委縮症、ALSとか筋ジストロフィー症ですね。それから、パーキンソン病などの変性疾患・脳炎・脊髄炎、それから筋炎など。そしてまだ他にも、病気を上げると大体200ぐらいの病気が上がってまいりますが、数が少ないのでここでは代表的なのだけを出させていただきました。


 それで特に私は、きょうはこの頭痛については、ぜひこの市民公開講座で皆さんに一言ご報告申し上げたいことがあります。それは、片頭痛の患者さん方というのは、頭痛のうちの大半を占めますから、ものすごい数になるわけですね。おそらく日本で150万人ぐらいの患者さんがいらっしゃると思いますが、これまで良く効く薬がなくて、お医者さんのところへ行って薬をもらうけど治らないということで、もう二度とお医者さんのところに行くものかという人が多かったのです。ところが、うれしいことに、最近、実はとっても良く効く特効薬が開発されたのです。ところが、それを知らずに、いまだに頭痛で苦しんでおられる方が多いということで、きょうは特にこのことを、頭痛の患者さんにとって、この大変な朗報が現在あるんだということをお伝えしたいと思います。ですから、頭痛でお悩みの方は、ぜひ神経内科の専門医または頭痛の専門医のいる医療機関を受診していただきたいと思う次第であります。

 それでこのような神経内科疾患、先ほど言ったような症状があって疑われたら、どこへかかればいいのかと。これが、鹿児島県というのはものすごく恵まれているのです。日本で、県民あたりの神経内科の専門医が一番突出して多いのです。やはりこれは、井形先生のご努力で、私を含めてここまで多くの専門医が育ってきたせいだというふうに思います。どうぞ、皆さん方のお近くに、一番大きな病院は座長の大勝先生の大勝病院ですけれども、この他、今ここに書いてある病院はすべて、この神経内科の認定された専門医が診療している病院ですから、どうぞ安心して診療・診察を受けていただきたいというふうに思います。


 さて、第3内科の専門領域は、先ほど言ったように非常に広いのですけれども、これを全部話していたら、またもや何時間あっても足りませんから、取りあえずきょうは、このうちの糖尿病・痛風のところだけを少し軽く触れさせていただきたいと思います。糖尿病は、さきほどもお話いたしましたように鹿大病院では、第一内科、第二内科、第三内科が一体となって鄭科長のもとで診療に取り組んでいるのであります。





 糖尿病というのは、この日本の食生活が西洋風になって、どんどん、どんどんカロリーが増え、自動車が、いわゆる文明が、どんどん、どんどん進むにしたがって、昔は10万人しかいなかった患者さんの数が、今はもう750万人で、予備軍を含めると1600万人というもうとても想像ができない、驚くべき数の方が治療対象になっているわけでございます。






そして、この糖尿病は、なぜ、注意しなきゃいけないかというと、特にこの神経系の病気を含めてとてもいろいろな合併症があって、その腎臓もその内の一つです。











やはり糖尿病というのは痛みがないんですけれども、絶対に治療をきちっとしなければ命を縮めることになります。治療をすれば大丈夫です。ですから、気合いを入れて治療をするということが大事になるわけです。糖尿病グループの第3内科のメンバーの外来診療は、水曜日・金曜日が外来の新患日で、出口先生、堀之内先生と超ベテランの先生がやっています。実は、これから話す痛風のほうもこの2人が中心になって、あと多くのドクターが関与しているわけでございます。痛風のほうは、これは昔、江戸時代にはなかった病気です。やはり、これも食生活がこういうふうになってくると同時に、現在60万人の痛風の患者さんがおられて、高尿酸血症を定する予備軍が600万人という、これも糖尿病よりは少ないのですが、それでもやはり注意しないといけないわけです。それで、痛風もやはりいろいろなリスクを抱えていて、特に腎障害のリスクというのは、決して軽視してはいけないわけです。


実は、私は、きょうはこの5項目を述べに壇上に上がったと言っても過言ではありません。「健やかに長生きする、納の5か条」というのがあります。これをぜひ、覚えて帰っていただきたいと思います。
 一番大事なのは、この1と2です。睡眠不足を避けること。これは、「忙しいから納先生そんなこと言ったって無理ですよ」と言わずに、やはり自分の体のためですから、必ず睡眠時間を確保する。理想的には、やはり1日に6時間は寝てほしいですね。6時間以上寝るのはどんなに長く寝てもいいのですが、6時間を切らないように気をつけていただきたい。それから、太り過ぎないこと。太り過ぎは万病の素ですね。糖尿病にも痛風にも心臓病にも、全部いい事はありませんので太り過ぎないこと。


では、体重コントロールの秘訣を伝授しましょう。これは私が痛風発作を4年前の夏に起こした時に、太り過ぎだっていうんで標準体重にもっていった。3カ月で7キロ体重を減らしました。この時私は、ずっといつも体重測っていて、朝起きて排尿した後にパンツ一つで測るというのが私のスタイルです。一番この体重コントロールの秘訣は、「同じ時間帯に同じ条件で」体重を測っていくということです。 赤い線は私の尿酸値です。





それから、3番、これも大事なんですね。できるだけストレスをためないこと。このストレス社会において、ストレスを無くせというのは不可能なんです。だけどストレスは、昼間忙しい人は帰ってきたら、ちょっとリラックスする。奥さんは、三つ指ついて「お帰りなさいませ」とにこやかに迎えるとか、いろいろなことが、大事なことがあるわけですね。それで、とにかくストレスをためない。土・日には、ちょっと軽いジョギングでもするとかね。
 それから、この4と5も大事なんです。すなわち、生きがいを感ずる生き方をすること。それから、楽観的に物事を見ること。これは、アメリカでの大規模のスタディがいくつかなされまして、この4と5が人間の寿命にものすごく関係があるということが科学的に証明されたのです。ですから、この4と5は、どうぞ大事に考えててください。「私は悲観的な人間だから、そんなこと言っても無理だ」とおっしゃらずに、物事というのは常に見方を変えると、いいほうに見れるわけですから、こういう努力をしないといけないと思うのです。ですから、この5か条を言ったらもうこれで私は、壇上から下りてもいいんですけれども、もう少ししゃべらしていただきたいと思います。(笑い)

 ここで私が2年前の夏、病に倒れて、そして、それを契機に健康に留意した生き方を始めたお話。この私の話から、「あー、そうなんだ」と、「健康っていうのはこういうとらえ方があるんだ」というのを感じていただければ幸いだと思います。









 私は、2001年の2月、鹿児島大学の病院長に就任いたしました。ところが、ちょうど病院長を1年もしないうち、8カ月ぐらいたったところで激しい痛風発作。これが、何と病院長という、あの当時の病院長は非常に激務でした。新しい病院を建てないといけない、新しい「歯」の病院と、「医」の病院とを一緒に合併しなければいけない。そして、いろんなことをしないといけない中で、文科省との交渉、大変なストレスでありました。私は、ストレスに強い人間と信じていたんですけれども、このタフと思っていた私がストレスのため痛風に罹患してしまいました。そして、痛風は何とか克服しましたが、とうとう、過度のストレスから病気(高血圧)に倒れ、大勝病院に入院させていただいて、本日座長の大勝先生に救っていただいたのでございます。幸い、病院長の職務は愛甲孝教授に引き継がれ、鹿大病院はさらなる発展をとげたことは、皆様ご存知の通りでございます。

私にとって、この4カ月の入院生活というのが、掛け替えのない貴重な入院生活になりました。と申しますのは、この間に私はとっても大事なことを気づいたんです。「そうなんだ」と、「自分は今まで何だか息咳切って走ってきた」と。そして、だから周囲のことも目を向ける暇もなく、自分のことにゆっくりと目を向ける暇もなく、本当にゆとりのない人生であったと。そうなんだと、やっぱり、これ間違いだったと。やはり、自分が病気になって悲しむのは家族だし、仲間だし、同僚だし、自分を頼ってくださっていた患者さん方だし、だから、やはり自分自身の健康、あるいは自分自身の幸せというのを無視した生き方というのは、よくないんだと。そして、自分と袖触れ合う人たち、近いところにいる人たち、家族・患者さん・教室員・学生などのために何か役立つこと。その辺を目的に掲げようではないかということが、私のあのときに悟った、何か目からうろこというような形で考えを変えさせていただきました。

 そして、その結果、起こった出来事というのが、昔から描きたくて、描きたくて、描けなかった絵の道にも少し時間を割こうと。忙しいからというのは言い訳にならない。時間は自分の努力でつくるものというので、睡眠時間は取らないといけませんから、9時に寝て3時に起きて6時間寝る。3時から5時まで日本画を描く。そして、5時から6時までかけて、いろいろとやって大学に到着して、6時から大学で仕事を始めるということで、仕事は絶対手を抜かない、仕事は今までと同じようにするけれども、この何とか時間をつくって自分の健康管理にも気を配るということを始めましたわけです。


 それで、特にこの「天然岩絵の具」というのは、とっても高価な物ですけれども、私の病気が治ったお祝いに家内が無いお金をはたいてくれました。










それで、ちょうど、お師匠さん(究極の師匠、村居正之先生との出会いについては
http://www5f.biglobe.ne.jp/~osame/garou/nihonga/nihonnga-shi-tonodeai.html
にリンク)に出会って8カ月目ぐらいに、三宅美術館のご好意で、この「納 光弘展」を開かさせていただける好運にも恵まれました。











そして、そのときに展示した絵が53点でしたけれども、これが53番目に描いた絵で、50号の大きさの「夕陽に燃える桜島」の絵でございます。これは、朱の墨絵と呼ばれる技法です。










そして、これが群青の1色で描いた群青の墨絵と呼ばれる世界で、これも50号のサイズでございます。雪の降った桜島の夜の満月の日の光景でございます。











あるいは、これは、加治木の蔵王岳を前景にして描いた錦江湾と桜島。これも雪の日でございました。












そして、これは屋久島の千尋の滝。これも夜中に1時間半ぐらい、じーっと深夜にここに立ちすくんで、もって帰った印象でいっきに描いた絵でございます。











このときに、「入院を機に絵筆、日本画家に師事」というタイトルで南日本新聞にも掲載されましたが、













皆さんご存じのように、26日おとといの木曜日の夕刊でも「学会会場にギャラリー」として紹介されましたが、これは、この学会場に私も含めて会員が皆持ち寄って、「憩いの間」と名付けたギャラリーをしたのですけれども、そこに、これまでに描いた私の絵に加え、








私が最近2カ月ぐらい精魂込めて描き上げたこの50号の絵も展示させていただきました。これは、今回初公開の絵でございます。











 そして、もう一つのこの単行本出版に関しては、あるいは、皆さん新聞等でお読みになったかもしれませんが、











12月1日に初版発売してから、4月現在で4万部を超えました。それで、いろんな形で紹介されました。












実は、この本の中に私が病気で倒れたこの気持の変化も書いてありますので、もしも興味がある人がいたら、この本の印税でわたしの岩絵の具代をプレゼントしていただければ、感謝これすぐるものはないと思っております。(笑い)








 さて、最後に私の個人のホームページに関するお話ですけれども、実は、私はこの学生とか若者に、一度しかない人生を大事に生きてゆけと訴えることが好きで授業でもよく若者との対話をするのですが、授業時間というのは学問も教えないといけませんから、人生はこうあるべきだとか、熱っぽくいろんなことを言うのに、私はもう、しゃべりだしたら30時間ぐらいしゃべりたい。ところが、脳卒中はどうだとか、痛風はどうだとかいう話をして、そういうことに使える持ち時間というのは限りがあります。ですから、若者に語りかける機会を増やすためにホームページに作ったのです。その結果、若者が見てくれさえしたら、10時間か、20時間か、30時間分の講義をしたと同じ価値があるということに気づきました。


この私のホームページは、大人の皆さま方にも楽しめるような内容になっております。どのようにしたら到達できるかと言いますと、どんな検索でもいいのですが、例えば、ヤフー・ジャパンで「納」、一つ空けて漢字で「光弘」と入れていただいて、この検索をクリックしていただきますと、








大体、数千件ぐらい「納」が出てきます。大体最近は、「痛風」のが出てくることが多いのですが、必ずこの一番上に「納 光弘のホームページ」が出るように、仕組んでございます。これが一番目に出ないといけないんですよね。そんな4,000の中からホームーページを探そうなんて、これは太平洋で小船を探すようなものですからね。でも、必ず一番上にありますので、それでここをクリックしていただくと、この私のホームページが出てくるわけです。





このホームページの「若者に告ぐ」、「思うこと」。この2つが、私が一番若者に訴えたいことを書いています。ここの
「ページ作成経過」に書いていますように、このホームページは人生の指針を求める若者、中学生・高校生・大学生・医学徒など、並びに、豊かな人生を求める方々に何らかのご参考になればと考えて作成しました。作ったのは1年半前の2003年11月17日ですが、現在はもう、7万をすでに超えて、きょう、いままで7万8千ぐらいだと思います。結局、なんと一番アクセスが多く、返信のメールでくるのは、やっぱり、全国の高校生が多いんですね。
 「先生のホームページを見て、何だかやる気が起こりました」、「目標をはっきり見せていただきました」と。きょうの皆さん方は、ここは息子さんや娘さんに読むことを薦めていただければ、子供さんのやる気に火をつけれるかもしれませんよ。ほかにもいろいろあります。「芝に学ぶ」とか、「私の画廊」、「私のゴルフ」。いかに、私がゴルフに熱を入れた時期があったかとか、ボーリングに熱を入れた時期があったとか。この
「最近更新したページ」も便利で、一番新しいところから後ろに下がっていっていただくという方法もありますし、それから、先ほど言った「納 光弘展を振り返って」とこの「画廊」と両方、読み比べるとまた面白いというわけです。これは、実は、全部読むのに紛れもなく20時間はかかりますので、覚悟してお開きいただきたいと思います。
 というわけで、ほんとに短い時間でしゃべるので、ほんとに、いろいろしゃべりたかったけれども、もうあとはホームページを見てくださいというぐらいのメッセージで終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

(拍手)

【大勝 洋祐】
 会場の皆さまが、非常にわいて熱心に目を輝かしてお聴きになってらっしゃるので、もう私が、その何か言葉を添えることはありませんけど。ただ今、納先生は井形先生が鹿児島の地に初めて神経内科の教室を開設され、それを納先生が引き継がれて神経内科の大きな、日本でも大きな教室として発展させ、そして今、ご自分であまりおっしゃいませんでしたけれども、「HAM」という病気。「HAM」って言っても、食べる「ハム」じゃないんですけれども。これは、鹿児島に多い病気なんですが、これが今まで原因不明であった病気の原因が、鹿児島にも多いこの白血病と関係のある病気であって、その病気がどういうふうにして起こってくるか、そして今、治療をどのように進めているかというようなご紹介で。これはもう、世界的な医学的な発見の一つになっておりまして。国際敵に的に、WHOからも高く評価されておられます。
 その他、神経系の疾患、神経の専門医が人口あたりで言うと鹿児島県は日本で断トツに数が多いというのも、井形先生・納先生の子弟を育てた、そして、りっぱな専門家に育てたということが、そこからうかがえるわけです。
 お話を最後まで聴いてすごくスタミナ満点で、もうお料理が食べきれないぐらい満腹感があったんじゃないかと思うのですけれども、この納先生も自分が病気にかかられて、それでまた一皮も二皮もむけて、この物の考え方が円熟味を増したというふうに、私は感じております。そしてその中から、ご自分の病気の体験から「納の5か条」という、養生訓ですね。そういうもので、いちいち納得できるようなお話だったかと思います。それから、その病気をきっかけにして、仕事も大事だが、私生活も大事であると。家族のため、友人のため、あるいは、自分の趣味のことを生かしていきたいということで、今まで医学一本やりの納先生が、人間としても幅を広げてきたことをご紹介されたわけです。私たち、現代社会においては、仕事に追いまくられ、何かの目標、課題を背負わされて、もうエンジンかけっ放しで、生活している人が多いのではないかと思いますけれども、この納先生のようなタイプの方すらも、そのようなことに体験されて得られたその5か条の養生訓は、これは非常にこの含蓄のある感じがいたしました。
 それから、医学だけではなくて、岩絵の具による、あの迫力のある絵を描かれておられますけど、やはり、絵の内容も迫力ある力に満ちた絵であったように思います。そこの中に、火を噴くような、かつての桜島の噴火の赤い火の姿だけではなくて、静かにたたずまっている桜島とか、自然のそういうものをこう描いておることから、納先生も心境の変化とか、あるいは、幅広い成長を遂げられたのだと。私、先輩だからこんなこと言わせていただき、おこがましいんですけれども。そういうものを通じまして、本日ご来場の皆さま方が、きょうの講演のメインのタイトル「健康な暮らしに役立つ内科の知恵」というものを感じ取っていただけただろうと思います。
(拍手)

【納 光弘】
 どうもありがとうございました。
(拍手)