ロックらしくない。
このアルバムはそこが素晴らしいと思います。
今とてもロック的なものと言えば、彼の国の首相あたりでしょうか?
ロックを愛する方々には失礼な発言でしょうが、首相は余りにもロック的な方だと言えます。
「ええじゃないか」で、民衆を熱く躍らせてくれました。
そして、それがまだ有効だという前提の下に
政を治めようとしています。
そんな無駄な燃焼とは全くの対極。
その地点を覆う夕闇の中にでも流れていそうな音楽でしょうか。
本当の意味で民俗的な、我々の生活と協和する文化としての音楽がここにあります。
それが堪らなく素晴らしい、高山謙一さんが創った三番目のレコード。
収められた音楽は、息も凍てつく時期に録音されました。
しかしそれが姿を現す時は灼熱の最中。
時が蜃気楼のように歪みます。
さて...。
例えば、寝苦しい夏の夜。
その熱で膨張した大気にさえ像を映し出す音楽。
ちょうど、熱帯夜にどこからか流れてくる誰かの音楽のような。
ロックにはいささか荷が重いだろうから、それはボサ・ノヴァでしょうか。
哀愁を帯びたメロディがシンパシーを抱きしめ、心の緊張を解きほぐしてくれます。
だけど、音楽が投影する像の輪郭を微塵たりとも揺るがせはしません。
やたらにテンションを高める必要など、もうないのでしょう。
だからロックの猛々しさという殻を捨て去りました。
意識を目覚めさせるという作業が、
静かな熱の中で進みます。
サンバに源を持つというボサ・ノヴァ。
それがジャンルとして成立したのは、まだ 45 年前だとされています。
ボサ・ノヴァの bossa とは「特殊能力」を意味するポルトガル語のスラングなのだと
アントニオ・カルロス・ジョビンを説明するネット記事にありました。
一方の nova は「新しい」を意味することばでしょう。
ボサ・ノヴァとは、まだみたことのない力?
あの歌のことを思い出します。
「まだみたことのない」
『いつの日かの扉 / 広場で』。
Alchemy Records ARCD-154。
タイトル曲のひとつ「いつの日かの扉」の英訳は "A Door"。
もうひとつの「広場で」は "Across the Voice" とされています。
ツメタイイキノママはこの CD 出版の時点で、高山さんと宮部誠人さんのデュオ。
彼らを核として、様々な人の存在がここに収められた音楽の裏打ちを強化しています。
現存する人々も居れば、想いの送り相手として在る人も居ます。
共に等しい重みを持って、この音楽に関わっています。
日常生活がやはりそうやって営まれるように。
この音楽はふたつの世界と協和します。
それは出遭い場のような音楽。
CD だけどこの作品は LP のような二面構成をとっています。
『扉』サイドと『広場』サイド。
『扉』サイドはロック的なアンサンブルによる演奏だけど
テンションを高めるのではなく、意識を深いところに向わせてくれます。
独特のうねりを伴い、ゆったりと始まる「いつの日かの扉」。
「狂いもせずに、だけど少し緩んだ刻み」という歌詞が記憶を刺激します。
「イディオット・オクロック」という、時間との密接な関わりを想起させるバンド名。
あの頃から今まで流れ続けている時間と一体化した血脈を、脳裏に結像させる音楽でしょうか。
鉄琴の送り出すパルスが脈々とした血流のように振る舞い、歌に息の力を与えます。
心臓と呼吸の関わり様に意識を向わせてくれるようでもあります。
小池克典さんのアコーディオンがとても良い。
宮部さんのベースと協和し、海のようなうねりを創出します。
次の「シ・ビ・レ!」を導くのは、宮部さんによる奇矯とも呼び得るうねり。
まるで海面から波がしぶくようにして高山さんが放つ息が、とても格好良いと思います。
「夜よりも、朝の方が良い」と闇からの脱却を促しますが、行き先は自分で見つけてくれと。
引力と逃れる力と、振り子のように揺れる感じはイントロのベースのうねり自体それのよう。
そして、「オワラナイウタ」がその名に反して『扉』サイドを締め括ります。
そこでは、稲冨英樹さんのハーモニカとスライド・ギターが大活躍。
この歌は捧げものであるけれど、同時にそれだけではない。
我々の生きている世界は、避けがたい迷宮世界。
そのことを、露呈します。
『広場』サイド。
熱狂の音楽、サンバ。
そこから派生したボサ・ノヴァ。
祭の熱狂が導き出したのに、ただ浮遊する魂。
ボサ・ノヴァはそれをそっと抱きしめる為の音楽でしょうか。
だとそれば、馬鹿げたロックの熱狂を収めるのが『広場』の音楽。
空しい猛々しさの中にさえ漂う白い想いを、時計の鼓動で生き永らえさせながら。
『広場』の中でも、「この空ろの中をずっと」が自分にはとても興味深い。
「空」と書いて、「うつろ」と読ませます。
脱力さえしているようでいながら、
創作者のヴィジョンをはっきりと意識に投影する。
高度成長なのか、空しい競い合いなのか。
そんな熱狂の果てに創生されたものは
もはや抱きしめる価値も無い。
「広場で」は、そんな歌。
「恋人」は夢のような。
だけど確かな記憶。
熱帯夜は終わりかけている季節ながら、
情念のヴィジョンはまだ幕を閉じようとはしていません。
振出しに戻る / Going Home
初稿 2004年9月6日