音産

 1990年代は、その中間地点に発生した阪神淡路大震災により真二つに分断された。
あの時点を境に、様々な価値観が転回してしまったという確信が今も確かにある。
それを都市の、あるいは国の変質だと考えるのは余りにも無情なことに思えてならない。
だから変質ではない、それは変容にまだ止まっているのだという一縷の希望にすがりながら生きている。
そんな風にして、ひとつの世紀が過ぎて行ったような気がする。

変わり果て行く京都、そして時代の精神。
オウブとの出遭いは、そんなものに対する情念の渦巻く前後に起こったことを良く覚えている。
その綴りは、Aube。
「夜明け」、「白」などを意味するフランス語だ。
空が白み行くのだから夜明けを意味するのだろうなと、妄想を刺激される。

京都・知恩院の近在に住む中嶋昭文が遂行するソロ・ノイズ・ユニットに冠されたのが、この言葉である。
このユニットには、ひとつの規律がある。
音楽が、我々の日常にある様々な物質と現象に発する音響を素に構築される。
水、火、大気、大地、金属、ガラス、鉱物、そして脳波、心拍音、血流、肺音。

 これら多様な音源から、ただひとつのものを源として用いひとつの作品を創る。
それが、オウブに課せられた規律である。
発信機、アナログ・シンセサイザーなどの機器が用いられる時もあるが、その場合にも一音源一作品の鉄則に揺るぎはない。
ひとつのモノに発する原音は中嶋の手腕により様々に変調され、構築される。
そして姿を現すのは、原材料とは桁違いのスケールとダイナミズムを持つ有機ノイズである。

ただし面白いのは、大規模な形態変調を経ながらも結果として出現する音響が原材料本来の特質を失っていないことだ。
むしろ、元々秘められていながら表には出ていなかった原材料の特質が露わとなる。

そのプロセスは青虫が蝶へとメタモルフォシスを起すような「変容」なのであり、決して「変質」ではない。
瞑想によって、物質あるいは現象に秘められた本性を開花させるような作業なのである。

ひょっとして、京都はまだメタモルフォシスの最中にあるのかな?
オウブの演奏を聴いていると、そんな妄想さえもが湧いてくる。
音響の彼方に京都のイメージを投射してみたいと、つい想ってしまうのである。



変容