たかがクルマのことだけど

安全箱に入っているごう慢さ


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目次
 
別の立場からみれば
 ●《小悪党=こあくとう》の振る舞い
 ●安全性神話の錯覚
 ●走る凶器となるのがクルマ

 1トン(1,000kg)前後の物体の中に坐っているがために、そして《安全》や《快適》をうたって売り出されるがために、ドライバーや同乗者は知らず知らずにごう慢になりやすい。自分が安全箱に入っているから何をしてもかまわないと考えるのは危険である。こんな当たり前のことが忘れられるのもクルマの運転につきまとう。



別の立場からみれば

 クルマから離れて自分が歩行者になるとこのことは十分わかる。また、自転車や原付に乗るとクルマの恐ろしさをヒシヒシと味わされる。クルマが接近するたび風圧を浴びせられ、ハンドル操作を乱されることも多い。歩道のない狭い道をスピードも落とさず、歩行者をけちらして通り抜けるドライバーがあふれている。ちょとやそっとで自分が傷つかないというごう慢さがそうさせるのだろう。

 泥水をはね、歩行者を押しのけて走行するなど狂気の沙汰である。横断歩道に人が歩いていてもクラクションで威嚇し、クルマを止める気配もないドライバーもあふれている。
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《小悪党=こあくとう》の振る舞い

 前車に接近して走る大型トラックのドライバーでもコンクリートミキサー車やダンプカーには接近しないようだ。追突したら運転席が壁に食い込む危険を感じるからだという。ボンネットがないからぶつかれば自分が傷つくことを十分知っているからだろう。乗用車ならぶつかってもたいしたことはないと思って接近走行するようだ。

 これと似たことは乗用車のドライバーも無意識に行っている。大型車を恐れ、歩行者・自転車・原付などはたいしたことはないと思い込んだ走行も目立つ。《弱者の保護》でなく《強者へのこび》が優先している。それは、長いものに巻かれ虎の威を借りる《小悪党》である私を含めた人間の行動の反映でもある。キレイゴト(たてまえ)をならべても、自分を中心にして行動するのが現実である。
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安全性神話の錯覚

 クルマの《安全性》は、あくまで他のクルマや障害物に衝突したときだけにすぎない。ぶつかった衝撃エネルギーを車体で受けとめ、箱の中にいる人の衝撃を緩和するだけである。車内の人を保護するために車体を壊れやすくするモノコックボデーになっている。でも、箱の中の人にも分散や緩和されるとはいえ衝撃は伝わる。

 そして、忘れてはならないことだが、クルマの相手にされる歩行者や自転車には加速度がついた巨大な物体のエネルギーが加わることだ。1,000kg以上の加速度つきの物体の力が50〜80kg前後の人間に加われば怪我をしたり死んだりするのである。そういうことを忘れているドライバーが多いのも安全神話の錯覚だろう。

 違法な行為と腹をたてたり、じゃまと感じたりする歩行者や自転車を《保護》するしかないのはぶつかれば確実に傷つくという現実を直視した行動である。同じ道路を利用しあう以上、無視して済ませるられない。《安全性》の基準はドライバーだけでなく、歩行者を含めたもので考えなければならないのである。 
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走る凶器となるのがクルマ

 どんなクルマでも使いかたを誤れば人を傷つける。自転車や原付だって人と接触すれば他人を殺すときもある。便利さや安易さで利用するが、簡単に人間を傷つけ、殺すこともあると自覚して運転することを忘れてはなるまい。簡単に操作できるとはいえ自分の体重より20〜50倍も思い物体を動かしていることを忘れてはなるまい。

 でも、それをクルマに責任転化するのはひきょうである。道具を使うのは人間だからである。使い方を確かめ、守るべきことを守り、状況に応じて対応するのが人間の役目である。合図するのも、止めるのもドライバーが判断して行うことである。《狂気》でクルマを利用し、走る《凶器》にさせるのもドライバーという人間の行動の結果である。 

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