たかがクルマのことだけど

人間がクルマを走らせる2つの側面


トップページに戻る  目次ページに戻る  前頁へ  次ページへ

目次
求めるものと好むもの
相互不信の原因
負のイメージを超えて
 

 プルードンというフランス人は、われわれ人間について次のような機知に富んだ文句を残している。
人間は生まれつき社交的である。すなわち、彼はそのすべての交際において平等と正義をもとめる。しかし、彼は独立と称賛を好む。」

 また、D・カーネギーは『人を動かす』という著書で、人間を次のように定義している。
人間は合理的存在でない。感情を持った動物ーゴウ慢で気分に左右されやすい動物だ。
                               


求めるものと好むもの

 私は、あなたとわたしという具体的な関係で語るほうが身近で説得的な気がするし、そういう思考を大切にしたい。しかし、プルードンの言葉は機知に富んでいる。われわれは、《他人に求める》ものと《自分が好む》ものとの2つの矛盾した本性を持ち合わせている。この矛盾が、カーネギーに「ゴウ慢で気分に左右されやすい動物」と定義させるのではなかろうか。

 われわれはバラバラな活動をしているものの、けっして一人で孤立して生活しているわけではない。無視しようとしても無視できない《かかわり》の中でわれわれは暮らしているからである。クルマにしてもそういう《かかわり》を排除できない。いかにクルマを利用するかという目的の相違はあるものの、道路を《共有》して走らせる以外にないからである。クルマとクルマとの関係と映るものの中には、人と人とのさまざまな《かかわり》が反映している。
                               文頭へ戻る

相互不信の原因

 クルマを使うがために人間どうしがいがみあい、傷つけあって相互不信に陥る。これは、人間がクルマを走らす側面が2つあることを忘れ、クルマを使う人や使わぬ人のいずれもが一面だけを強調するからではなかろうか。

 第1の側面は、操作する人の個人差によってクルマの行動に大きな隔たりが生じることである。操作技術、ものの見方、注意力などから多様なクルマの走らせ方が生じる。これが各々のドライバーに、自分と他人との《ズレ》を感じさせ、また、われわれを相互不信にはしらせる。

 第2の側面は、その人の利用目的に応じて十分にクルマを活用できることだ。お仕着せの技術を排除して、《自分の道具》とすることも可能である。目的に応じた利用がクルマをわれわれの友人とさせ、運転を媒介にした人間の結びつきが生れる。
                               文頭へ戻る

負のイメージを超えて

 われわれがクルマを話題にするとき負(マイナス)のイメージで語りすぎていないだろうか。クルマを《凶器》扱いし、自分以外のドライバーを批難して済ませがちである。しかし、そういうとらえ方をするかぎり、クルマがわれわれの道具とならないだけでなく、人間不信と結びつくだけだろう。

 私は、クルマを走らせる中で《どのように危険を排除するか》を具体的にとらえるとともに、《どうしたら互いが気持ちよく利用できるか》をあわせて考えていきたい。
                               文頭へ戻る