たかがクルマのことだけど

クルマを走らせるのは人間だ


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目次
 運転は愉しいものじゃない
 ●殿様ドライバーA氏の登場 
 ●私が思うこと
 ●感情を捨てろと言わない


 クルマの運転は男と女の関係に似ている。好きだと思っても相手にされず、好きだと口にできずにいらだち、それほど好きでもないのに気に入られるようなものだ。また、どうしても好きになれないタイプや許せない振る舞いもある。つまり、クルマの運転には自分が思うとおりにならないことがつきまとう。好かれたいから相手のご機嫌取りをすることも男と女の関係にはよくあることだ。しかし、そんな振る舞いの虚しさに気づいたり、疲れてそれ以上進展しない。

 それはともかく、どんな人だってすべてを他人に依存することはできないのではなかろうか。恋愛感情を持つことは誰にもできるが、それを具体化させて家庭生活を維持・発展させるのと同じような難しさがクルマの運転につきまとうのも無視できない。失恋や離婚で傷つくのは数人で済むものの、運転の破たんは物理的な損害だけでなく、多くの人たちに迷惑や災いをまきちらす。これが恋愛感情とクルマの運転の違いである。
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運転は愉しいものじゃない

 カーマニアとかスピード狂を除いて、クルマの運転はとりたてて愉しいことではない。便利さゆえにクルマを利用するにせよ、恋愛感情ほどの他人や他車とのかかわりを味わえない営みである。恋愛関係には相手を選ぶ余地があり、どうしても気に入らない者とはかかわらなければ済むが、クルマの運転にはその余地がない。ドライバーにできることは、クルマを使用しないか、他車のクセをすばやく見抜いて対処するしかないのである。

 互いが自分を中心にして多様な振る舞いをする道路では、各人が心がまえを持つだけでは不十分である。クルマの操作を的確に行う技術を身につけるのは当然として、走らせる道路状況や走行状況を見極めた判断力も欠かせないのである。しかし、我々が忘れてしまいがちなのは《クルマを走らせるのは人間だ》というごく当たり前の事実ではなかろうか。
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殿様ドライバーA氏の登場

 追い越し車線をノロノロ走行するドライバーがいる。後ろには何台ものクルマが連なっている。走行車線の流れの方が速いから、後ろのクルマは車線変更もままならない。それでも、かろうじて左側から追い越していくクルマもある。直後にぴったりついたクルマはそれもできず、イラダチは増すばかりである。クラクションを鳴らしても、ヘッドライトを点滅しても前のクルマはいっこうに反応しない。

「うるさいやつだな。俺は制限速度で走っているんだ。ピッタリくっついて煽るつもりだな。どいつもこいつも違反ばかりしやがって・・・。左から追い越するしなんて違反だぞ」と先頭を走るA氏は腹だたし気につぶやく。
 後ろのクルマが再びクラクションを鳴らす。
「ガツガツしやがって、そんなに急いで何になるんだ。騒音公害だぞ!」などとさも善人ぶった言いぐさを並べる。
 もはや車線変更をあきらめた後続のBも、
「こん畜生め、こうなったら徹底的に煽り立ててやるぞ。へぼのクセに追い越し車線を走りやがって・・・」
と意地になって、右に左にクルマを振らせてライトやクラクションを浴びせかける。
「それじゃ、ちょっとスピードを上げるか。でも、制限速度以内だ」とA氏は思い直す。
 クルマの流れがこころもち速まる。
「やっとマトモに走る気になったか。やれやれ」とBはため息をもらす。
 しばらくして、突然A氏のクルマのストップランプが点燈する。障害物が見当たらないのに気づいたBは唖然とする。
「やれやれ、後ろのクルマに煽られて制限速度を超えてしまったぞ。違反なんてさせられてたまるものか。まったく困り者が多くて迷惑だ」とA氏は後続車をののしる。
 理解不能な前車の行動に腹立ててたBは、左車線に強引に割り込んでA氏の前に再び入る。
「危ないなア、割り込みをかけたと思ったら俺の前に戻りやがって。こういう無茶をするから事故が減らないんだよ・・・」と、A氏はさきほどまでの自分の振る舞いを棚に上げて社会批評を始める。
 Bがわざとノロノロ走行を始める。
「嫌がらせをしやがって。ゆっくり走ればいいってものじゃないのに・・・」とA氏はしたり顔でののしる。
「遅いクルマは速いクルマに車線を譲ることも知らないのか。左車線を走ればいいのに・・・」 と、自分が先ほどまで同じことをしていたことを忘れて道交法を並べ立てる。
 Bが急ブレーキをかけるとA氏はカッとして怒鳴る。
「違反だぞ、危ないったらありゃしない」
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私が思うこと

 クルマを走らせる以上、運転にかかわる法規を知っているのはドライバーとして当然のことである。しかし、自分が守っているから、守らぬ者がすべて悪いということにならないはずだ。法律は万能でないし、定めをしていることは違反や反則の歯止めとなりえてもそれ以上の抑制効果はないからだ。そして、法規のほかにマナーや状況に応じた判断や行動が運転には欠かせないのである。

 法規を持ち出す人に限って、罰則や損害賠償のことしか気にしていない傾向がある。そういうものは起きた結果であって、円滑に走らせることのほうが優先するのではないか。たとえば道路交通法第1条は、@危険の防止、A交通の安全、B交通の円滑、C交通に起因する障害の防止の4つの目的があげられており、事故の防止だけが求められているわけではないのである。
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感情を捨てろと言わない

 感情を排除してクルマを走らせろと誰もが口にする。しかし、感情を排除すればいいと言うのはあまりにも短絡的な思考ではなかろうか。我々は機械にすべてをあわすことはできないし、感情を伴うがゆえに制御できる側面があることも忘れてはなるまい。速度を制御するのは恐怖心にかかわっているし、故障の発見は五感にかかっているからだ。

 むしろ、互いに感情を持つがゆえに他人と協調する余地が生れ、クルマを凶器にさせない使いかたを身に付けさせるのではないか。当たり前のことだが、クルマの運転は、クルマの操作法を身につけて済むものではない。歩行者を含めた他人と協調して走らせるのである。他人から味わされる不快や不安をまき散らさないのも、互いが感情を持ち、尊重しあうから成り立つものだろう。感情を排除するのではなく、制御しあって走らせるものではなかろうか。
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