沼津の中にある伊豆

沼津から西海岸に向かう




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◆ 五ケ浦という分類
 
 伊豆の地域区分が気になり、買ったまま放って置いた本を読み始めた。

 『街道の日本史二二伊豆と黒潮の道』(仲田正之編・二〇〇一年・吉川弘文館発行)を読むと、北伊豆・南伊豆・中伊豆・西伊豆・東伊豆に加えて、「五ケ浦」とある。

 六つの地域区分のうちの五つは陸地からの区分だが、最後の区分は海からの区分のようだ。どう見ても、沼津を基点とした区分だ。五つのうち四つまでが沼津市内に関わる。

 ちなみに、「五ケ浦」は、静浦・江浦(えのうら)・内浦・西浦・東浦をいい、西浦には西海岸を含め、東海岸を東浦と一括している。漁法の相違からの分類のようだ。
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◆ 大久保の鼻(静浦・江浦)

 旧沼津御用邸の前あたりから、国道四一四号は急に狭くなる。志下(しげ)・馬込・獅子浜と続く。家が密集しているから海岸は見えないものの、昔から漁業が盛んな「静浦」だ。うっかりすると漁港があることさえ気がつかない。

 鷲頭山(三九二米)の尾根が海にせり出した岬が、大久保の鼻だ。土石採取でずいぶん切り崩され、広い空間を作っている。海に面した側にひものセンターがあり、反対側から走ってくると沼津市街に近づく安堵感がでる場所だ。

 大久保の鼻を過ぎると、ひっきりなしにカーブが続きハンドル操作に緊張する。道がかなり狭くなるので大型車が来ないよう祈りたくなる場所だ。江浦湾に沿って、江の浦・多比(たび)・口野がある。

 ここまでが、行政上は「静浦地区」になるが、「静浦」と「江浦」は海岸線も漁法も異なるようだ。静浦のほうは駿河湾に突き出すように港が作られているが、江浦は入江が深くて天然の良港だ。

 江の浦にはマリーナがあり、口野ではハマチの養殖もしてきた。山の斜面を掘って倉庫に使っているのも狭い地形からだろう。
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◆ 三津浜(みとはま・内浦)
 
 内浦と次の西浦は、沼津市と合併する前は田方郡だった。元は「伊豆国君沢郡」だ。
 内浦には、重寺(しげでら)・小海・三津(みと)・長浜・重須(おもす)がある。

 高校の頃は、暇つぶしを兼ねて三津浜まで自転車で往復した。片道一時間半はかかったから、私にとってはちょっとしたサイクリングだった。口野を過ぎると一層カーブが増して道も狭くなったが、生簀越しに見る富士山も乙なものだった。

 同じ市内でも内浦は遠い場所だった。伊豆長岡から県道一三〇号を使ったほうが早いだろう。淡島や三津浜が早くからリゾート開発されたのも、伊豆箱根鉄道の利用客を誘致するためだったかもしれない。

 かっては、沼津港から龍宮丸と千鳥丸が発着していた。三津の水族館に出向く客で賑わった。龍宮丸は何隻も出ていたが、千鳥丸は一隻だけだったように思う。私は龍宮丸しか乗ったことがないが、船底がガラス越しに見えたのも懐かしい。三津の桟橋では、船と船を渡って上陸するのに怯えた。

 三津浜から発端丈山(四一〇米)に、小学校か中学校の頃に遠足で登ったが、富士山が見えたかどうかの記憶がない。
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◆ 大瀬崎(おせざき・西浦)
 
 大瀬崎までが沼津市になる。内浦と同様に元は伊豆国であった。「五ケ浦」の分類では、西浦は、伊豆の西海岸を含めている。

 沼津の西浦には、木負(きしょう)・久連(くづら)・平沢・立保(たちぼ)・古宇(こう)・足保(あしぼ)・久料(くりょう)・江梨がある。河内(こうち)は海に面していない。

 三津の先の長井崎トンネルを抜けると西浦が始まる。海岸は岩肌を晒し、荒天になると波しぶきも上がり、箱庭の海から荒々しい海岸に変わる。

 木負や久連からは、かっては沼津港に直行する地元の生活便が来ていた。他の地区については記憶がない。生活便が出ていたのは、陸路が整備されていないことに加えて、バスに乗る時間の長さもあったのではないか。三津から大瀬崎まで三十分以上はかかる。

 沼津の西浦は、海より山のほうが広い地形だ。丘陵を利用してみかん畑が作られたのも、良港に恵まれなかったからだろう。

 途中の古宇から山に入り、真城峠・戸田峠を経て、戸田に向かったり、達磨山経由で修善寺に抜けたこともあるが、狭くて気を使った。祖母を生前に連れて走行したが、泣き言も並べなかったのには驚いた。
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◆ 戸田村に至る道
 
 駿河湾と遠洋漁業は、イメージ的になじまない。でも、二つの災害で身近に感じる。一つは、一九五四(昭和二九)年三月に、焼津漁港所属の第五福龍丸がビキニ環礁付近で操業中に水爆実験で被爆したことだ。もう一つは、一九六五(昭和四〇)年十月に、マリアナで操業していた静岡県の漁船七隻が台風で遭難し、死者・行方不明二〇九人がでたが、これは戸田の船だった。多数の船が同時に遭難したのにはびっくりした。

 戸田村は、安政元(一八五四)年の大地震で損傷し、曳航途中に座礁・沈没したロシア軍艦ディアナ号の代わりに作られた「ヘダ号」が竣工された場所だ。戸田の郡名を付け、「君沢型」呼ばれた同型船は江戸湾防御に使われたという。

 戸田村には国道は通っておらず、大瀬崎経由の県道沼津・土肥線しかない。この道は、大瀬崎と戸田村井田の間が、長い間舗装もされず、見通しも悪かった。

 十年前にようやく井田トンネルもできて、道も広くなった。途中には海岸に下る公園もでき、海のかなたに聳え立つ富士山の美しさに改めて感激した。

 戸田湾は噴火口が港になったという。数年前に家族で久しぶりに修善寺から土肥を経由して戸田に入った。夕焼け時の港に富士山がくっきり映り眩かった。特産のタカアシガニは高いので食べなかった。大瀬周りを嫌い、達磨山経由で沼津に出たが、相変わらず戸田との陸上交通は遠いことを実感した。
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