沼津の中にある伊豆
沼津の中の伊豆
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◆ 千本浜の思い出
千本浜に立つと、正面のやや左奥に大瀬崎が見える。右側には、片浜や原町の海岸を大きくカーブして富士山の裾野である旧吉原市や富士市の製紙工場の煙も見え、快晴の日には清水市辺りまで見えるときもある。冬場にはほんのわずかだが、南アルプスの峰がくっきり浮き立つ。左側は、沼津港の外港が大きな城塞になって視界をさえぎる。できあがる前には、大瀬崎に至る内浦や西浦がよく見通せた。
防潮堤ができあがる前は、浜辺にあった千松閣ホテルも賑わい、夏には浜辺は海水浴客で溢れていた。ホテルの近くには水族館や市民プールがあり、弓場や射的場もあって、人の溜まり場だった。
千本松原は、昼の暑さを凌ぐ心地よい遊び場であり、夜は度胸試しの場であった。昼でも薄暗い公衆便所は、首吊り自殺の話もあって、恐る恐る入ったものだ。人さらいの話がでても真に受けるくらいに寂しい場所もあった。夕暮れ時になると人通りが絶え、臆病な私は近づきたくない場所だった。
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◆ 狩野川の河口
外港は私が高校生の頃に埋め立てられ、新しい魚市場が大学生の頃にでき上がった。駿河湾に流れ込む狩野川を誘導するように海に突き出した堤防と製氷工場は元のままの位置に残ったが、以前の沼津港と外港を結ぶ水路を作ったので大回りさせられる。
以前の沼津港は内港と呼ばれ、狩野川との間に水門が作られた。父が子供の頃の沼津港は、河口の上流にあったという。永代橋の近くの下河原にあったようだ。
港大橋ができたのは私が沼津を出てからかなり経ってからだ。できあがる前までは、対岸の我入道へは渡し舟が出ていた。
沼津の魚市場は、対岸の我入道漁協が作ったものだ。何で我入道の施設がこちら側にあるのか私には不思議だった。
どういうわけか分からないが、幼い頃から我入道とは対抗意識があった。自分たちが町の者で、我入道は田舎だという優越感を持っていた。周りの人たちも「川向う」と呼んで、違いを表していた。
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◆ 沼津港の堤防釣り
沼津では海と川で釣りができる。御成橋から永代橋にかけた香貫寄りの土手で、幼い頃は川に入ってハゼ釣りをした。でも、海の釣りは魚種も多様で面白い。
河口の堤防は黒鯛釣りで賑わっていた。川の水と海水が混ざり合っていたから、狩野川側はウナギやボラも釣れた。堤防のコンクリートの隙間に切り身を縛り付けて網を突っ込んでおくと蟹も採れた。夜釣りも盛んで、スズキを狙う釣り人が堤防の先端に陣取っていた。
黒鯛釣りは、サナギと赤土を混ぜた撒き餌が使われ、水面を濁らせていた。ベテラン釣り師は生海老やイソメを餌にしていたが、金のない私は引き潮で採ってきたゴカイを使った。私は一年ほど挑戦したが、ボラしか釣れなくて黒鯛は諦めた。
むしろ、海側のテトラポットの上に乗って、カサゴ釣りを楽しんだ。十センチ程度の小ぶりな成果でも、煮て食えば美味しかったし、黒鯛より確実に釣れた。
カワハギとかフグが釣れても感激はなかった。食えない魚など面白くもなかった。
キスとかアジは引きが強くて、小ぶりでも楽しめた。あのビクビクという、電気の刺激に似た感触はたまらなかった。
釣りの雑誌には、沼津の釣り場がどこにも出てくる。静浦・江の浦・口野・木負・大瀬に加わって沼津港が出ているのも何となく懐かしい。
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◆ 高校生活の中で
沼津の中に伊豆がある。そう感じたのは高校に入ってからだ。同じ市内であっても、狩野川を挟んで考え方や気質が変わった。とりわけ、西浦や内浦の同級生と私にはどこかズレがあった。
町中で生まれ育ったと自負している私と違って、西浦や内浦の同級生は三島市や田方郡に縁故者が多かった。話が噛み合わず、違和感が伴った。
祖父が西浦の出身とはいえ、町中で生まれ育った私には同級生の言葉が理解できなかった。それは、父の従兄弟が遊びに来たときも味わった。「ワリャー・・・」と言われると怒られているような錯覚に陥った。お前はとか、あんたはという意味だが、その勢いにたじろいた。
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◆ 首塚のこと
千本浜公園の近くにある本光寺に「首塚」と呼ばれる石碑がある。海水浴場から離れた、寂しい場所にあるから地元の人しか気がつかない。
甲斐の武田氏と伊豆の後北条氏の水軍が、千本浜沖で対決したときの死者だという。
武田氏が沼津まで進出したのは、塩を得るためだといわれている。
駿河の国に含まれる沼津は、伊豆と甲斐に接する境目でもあった。地理的にも駿河の国の東端だったから、伊豆の影響を受けたに違いない。後北条氏の本拠地とか江戸時代に代官所があった韮山(田方郡)や伊豆国府のあった三島市に近いだけに、伊豆と切り離せない面も多い。
正確にいえば、沼津市内にも伊豆の国がある。内浦地区と西浦地区は元は田方郡であり、古くは「伊豆国君沢郡(くんたくぐん)」に含まれていたという。そして、「川向う」と呼んでいた我入道も、上香貫・下香貫とともに楊原(やなぎはら)村に含まれ、沼津町とは別だった。
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◆ 沼津市内の変化
沼津から離れて三十余年が過ぎた。住宅が密集し、隣家の話し声が聞こえて閉口した生家の周りも区画整理が終わり、どことなくひっそりとしている。
私が沼津を出てから開通した東名高速を使って生家に帰るたびに、新しい町名に気付く。同じ道を走るのも退屈で、抜け道を探すからだろう。
沼津駅から東名高速にかけた金岡地区は、大幅に町名が変わっている。高校の頃は、沼津駅の北側は、「駅北」でしかなかった。高島町とリコー通りの先は、金岡地区か愛鷹(あしたか)地区であった。沼津で生まれ育った父母でさえ、根方(ねがた)と熊堂(くまんど)しか町名は分からないようだ。金岡地区の中に足高(あしたか)があり、別に愛鷹地区があるのも紛らわしい。駿河台、高尾台、沼北町、若葉町の位置などまったく見当がつかない。
また、国道も山側を走るようになったので、高校の頃は知らなくて済んだ、惟路(しいじ)とか、沢田など昔からある地名が新しく付けられたと錯覚させる。
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◆ 西海岸との繋がりの変化
生家に燻っていられない性格だから用が無いのにクルマでうろつく。そうすると否が応でも移り変わりが目に付く。
沼津は、静岡県東部の商工業都市だと自負してきた私にも、周辺の富士市・裾野市・御殿場市・三島市の活性化とか、時間的に東京が近くなって、商業基盤が弱くなっているようだ。
そして、沼津の経済を支えてきた西海岸の人たちとの繋がりも薄れているのではなかろうか。十年以上前から、修善寺とか伊豆長岡あるいは大仁には郊外型の大型店舗がかなり進出している。
かっての西海岸の人たちは、勤め先を得たり、高校に通ったり、買い物をするために沼津に出向いてきた。そういう繋がりで沼津の商業は発展してきたと思う。
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◆ 沼津のひもの
横浜駅前にはほぼ毎週買い物に出向く。近くにある手軽な場所だから、用も無いのに出歩く。デパートやスーパーの地下にある食材街を妻と歩くと、「沼津のひもの」と大書したコーナーがどこにもある。ムロアジではなくマアジのひらきが多い。ホッケ・サバのひらきに加えてキンメのミリン干しまである。横浜の近くには三浦半島・真鶴半島・相模灘もあるのになぜ沼津産がもてはやされるのか分からない。
ひらきの生産を見て育った私には、下河原とか我入道でひらきを天日に干すのはのどかな風景だった。でも、内臓の臭さに閉口し、今もそれを思い出すこともある。
若い頃に、伊豆の新島に一週間ほどキャンプしたことがある。名物のトビウオのひものの「くさや」を飽きるほど食べた。日本酒やビールと合って美味しい。でも、独特の異臭に閉口した。それに比べると沼津のひらきは臭わない。よく醤油がのって食べやすい。だが、全国一の生産量というのはしっくり来ない。
駿河湾の一番奥にある沼津に加工技術が発達したのも、鮮度とは別の需要を見出したからだろう。位置的には鮮度で競えなかったから、保存や加工に向かうしかなかった結果ではなかろうか。
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