14 かぐや姫
フォークのことあれこれ

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目次
 ●なじめぬ歌詞
 ●
 ●自分を欺せない
 ●ペテン師
 

(1)なじめぬ歌詞

 ブームが去ってから気に入り、反発が共感に変わるものがある。音楽にはそんな感情的な《シコリ》がつきまとう。ビートルズにしかり、そして、このかぐや姫もそうだ。

 いわゆる四畳半物語つまり『神田川』や『赤ちょうちん』などのかぐや姫のヒット曲を僕は好きになれない。僕には
かかわりのなかった《同棲生活》を美化する側面が強く押し出されているからだ。軽蔑されることはあっても、女の子に相手にされずに悔し涙を流した僕の《ひがみ》がそうさせるのかもしれない。この系列に属する唄は『妹』を除いてなじめないのである。もっとも、この唄だって僕に妹が2人いて、いつも頭が上がらないために、皮肉なフレーズがあるがゆえのことだけである。 
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    妹よ お前は器量が悪いのだから
    俺はずいぶん心配したんだ
    あいつは俺の友達だから
    たまには三人で酒でも飲もうや
 ♪」
         (『妹』喜多条忠作詞、第2節)

 ついでに加えると、賢い妹たちは僕の心配をよそになかなか身をかためる気を起こさないのだ。僕がそっと口にするたび、「お兄ちゃんこそ身をかためたら・・・。いつまでも遊びまわってちゃダメよ!」とグサッと刺さる言葉を返す始末だ。そのたびに僕は後悔する。《
妹なんているばかりに女の子がツマラナク映る》と。だから、この唄にある最後のフレーズなど僕にはなじめないものだ(せっかく追い出したのに戻ってくるのをすすめるようなバカなことを口にするものか)。

    そして どうしてもどうしても
    どうしてもだめだったら
    帰っておいで 妹よ
 ♪

 かぐや姫のメンバーのうち僕が贔屓(ひいき)にしているのは伊勢正三だけである。『22才の別れ』、『置手紙』、『あのひとの手紙』、『アビーロードの街』などは彼の作詞だ。むろん僕の好きな唄である。他のメンバーと違って彼は独自の音楽性や詩情を持っているからだ。かぐや姫は
1975年4月に解散したのだが、そして各人が別々の歩みをしているものの、1978年に再び『かぐや姫・今日(ツデェイ)』を発表した。僕は、このアルバムにある『わかれ道』、『湘南・夏』、『遥かなる想い』にも共感する。これらはいずれも伊勢正三の作品である。
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(2)自分を欺せない

 ブームのときに反発したのは、当時の社会状況を反映する私的な情感の虚しさにあった。かぐや姫は恵まれた若者の心情をくすぐる唄が多かった。政治や社会から逃避し、自分たちだけの狭い殻にこもる側面に僕はなじめなかったのだ。《若者》の世界を反映するがうえにウケタものの、その世界だけを美化するのに嫌悪感を味わされたのである。

     
ひとつだけこんな私の
     わがまま聞いてくれるのなら
     あなたは あなたのままで
     変わらずにいて下さい
     そのままで 

         (『22才の別れ』伊勢正三作詞)

 ちなみに、このフレーズと同じ内容を荒井由実も唄にしている。

     あの頃の生き方をあなたは忘れないで
     あなたは私の青春そのもの
     人ごみに流されて変わってゆく私を
     あなたはときどき遠くでしかって
 ♪
        (『卒業写真』荒井由実作詞)

 
この2つのフレーズに共通するものは、女の子が《男》に望む何かーーたとえば愉しかった《青春》の一部ーーといえまいか。それは、好むと好まずとにかかわらず《世間》を生き抜いていくしかない僕たち《男》にとっては重荷であろう。そればかりか、《青春》を美化しすぎていないだろうか。変わらずにいてくれと望まれても、それを維持していくのは困難である。そこに立ち止まるだけでは不毛なのではないだろうか。《青春》の美化はノスタルジー(想い出)を増幅させるだけで、後ろ向きにつながるような気がしてならない。
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ペテン師

 ところで、かぐや姫の唄の中で、僕が最も多く口ずさみ、今もふと口ずさんでいるのは『ペテン師』である。この唄は1つの物語であり、《男》の世界を暗示している逆説的な詩である。僕の気に入っているフレーズは次のものだ。

     そうさ男は自由を手離しちまった
     そうさ男は人生のペテン師だから
     ひとりぼっちの幸せを
     たいくつな毎日にすりかえたのさ
 ♪
          (『ペテン師』喜多条忠作詞)

 この唄は、男と女の結びつきの中で《男》が味わされる何かを象徴しているものの、それだけではなく僕らが生きていくうえでとらざるを得ない振る舞い、あるいは味わされるもの=つまり、自己を含めた他人を「ペテン」にかけていく営みを巧みに表現している。「ありふれた思い出にすりかえ」、「たいくつな毎日にすりかえ」る営みをする以外に手立てのない僕らは、「ペテン師」たらざるを得ないのかもしれない。
 
 僕は、この『ペテン師』を口ずさむたびに、好きな詩人の詩を思い出す。陰(ネガ)と陽(ポジ)の表現の違いはあるものの、この2つに共通するものを感じるのである。

      ああ
      あんなにも他愛なく
      僕自身によってさえやすやすと
      欺されてしまったのに
      僕には
      僕を欺すことさえできない
      なんて

          (黒田三郎「ああ」・詩集『失われた墓碑名』所収)


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