12 泉谷しげる
フォークのことあれこれ

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目次
 ●歌詞の面白さ
 ●詩の面白み
 ●春夏秋冬
 ●拒絶から共感へ
 ●それぞれに思い当たる
 ●人間不信のもと
 ●言葉だけでは
 ●追記


(1)歌詞の面白さ

 どんな人間にも1つぐらいは輝くものがある。線香花火とか、あだ花だと他人が言おうと本人が口にしようと、アドリブとかタワゴトというものの中には無意識であるがために、そのひとの情念を忠実に反映しているようでおもしろい。照れ隠しもあるにせよ、どことなく迫真性を感じたりする。

 泉谷しげるのことは僕はよく知らない。僕の印象に残っているのはたった1曲、自作自演の『春夏秋冬』だけである。吉田拓郎と同時期にずいぶん華々しくスポットライトを浴びたはずだった。このあいだ、テレビのコマーシャルに懐かしい唄が流れていた。誰だったかなと首をひねってようやく泉谷しげるだと思い出した。自作の『眠れない夜』を現代風にアレンジしていたが懐かしい唄だ。ビートのきいた歌である。
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詩の面白み

 詩のおもしろさは、作った本人のことを無視して、そこに表現や描写されるイメージの中へ読み手が《同化》してみたり、《反発》することではあるまいか。邪道と批難されるはずだが、分かったふりをして勝手な解釈をしたり、変な思い入れをするよりも主体的ではないか。もっとも、これは《文学》のセンスを持ち合わせていない僕の開き直りにすぎない。

 厳格な解釈も大切であろう。だが、それはどこかヨソヨソしさがただよう。詩を身近に感じたりおもしろく感じるのは、けっしてそういうところから生じないはずである。たった1つのフレーズに共感するのも、そこに読む者の何かをくすぐるものがあるからだといえまいか。《誤解》を生ませ、新たなイメージを与える詩こそ最も優れたもの、生きながらえる可能性を秘めた詩といえまいか。これもまた、フォークの詩に思い入れしてしまう僕の弁解である。(注)

(注)断っておくと、僕は幼稚な詩が優れた詩だと思っているわけではない。詩と呼びうるだけの形式を備えていることは必要条件である。僕がこだわるのは十分条件であり、それは好みとかかわる。完成されきった詩より《誤解》の余地のある、つまり読む者に《新たなイメージ》や《別の思い入れを》連想させる詩に僕はひかれてしまうのだ。
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春夏秋冬

 ここで取り上げる『春夏秋冬』は、上に書いたとらえ方ができる数少ない詩である。まず、題名からしておもしろい。春歌周到ともじることができる。このごろは何もかもがオープンになってコッソリやる愉しさが薄れてしまいがちである。真昼間に真顔で春の歌を口ずさむのは興ざめだ。春の歌は用意周到、女子供がいないのを確かめて、コッソリ口ずさむべきである。そんなことを抜きにしても、この詩には一時期の僕の情念と結びつくものがあった。

 生まれて、生きて、死ぬーーそのいずれもが個人的なことである。それゆえ、他人のことなどどうでもよいと考えてしまいがちだ。生きるのも死ぬのもしょせん自分ひとりと割り切って行けるひとは立派である。僕はそういう人と違って、自分の弱さ、一人の虚しさに怯えて他人のことに首を突っ込みがちである。他人のために良いことと信じてアアダコウダと世話を焼く。だが、それは相手にはオセッカイと受け取られるものである。世話を焼かれる人にも彼なりの自我がありプライドがあるのだ。
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(2)拒絶から共感へ

 他人のことから社会に目を向けると、このての《誤解》がまんえんしている。世のため、人のためと誰もが口にするものの、それはキレイゴト=仮面をつけたエゴイズムであることが多い。すべてが仮面をつけたエゴイズムだと僕は思わない。人間は本心から《正義》を求め、それを実現しようとセッカチに行うときがある。たいていの人々が《青春期》に持つ。だが、たちまちそれが着実な歩みを不可欠とすることに気づき、誰もが忘れるように努める。そういうことを思い返すと次のフレーズが分かりやすくなる。

      人のためによかれと思い 西から東へかけずりまわる
      やっとみつけたやさしさは いともたやすくしなびた
 ♪

 『春夏秋冬』は、いわゆるシラケた時代を反映していたように当時の僕は感じていた。上記のフレーズもそんなものとして口ずさんだものだ。「人のためによかれと思い 西から東へかけずりまわる」ことが流行だった時期があるからである。それが、党派争いや自己崩壊で「いともたやすくしなびた」時期も見てしまったから身近に感じたのかもしれない。だから、次のフレーズの繰り返しがやけにシラジラしく響いたのだった。

      今日ですべてが終るさ 今日ですべてが変る
      今日ですべてがむくわれる 今日ですべてが始まるさ
 ♪
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それぞれに思い当たる

 それよりも、次のフレーズの繰り返しのほうが時代環境を反映するものと映った。東京での暮らしになじめないがゆえに共感したのかもしれない。

      季節のない街に生れ 風のない丘に育ち
      夢のない家を出て 愛のない人にあう
 ♪

 今の僕に似合っているのは次のフレーズそのものである。大人になりたくなくても大人にならざるをえず、その大人になりきれない自分を笑い飛ばしたくなるときは誰にもあるのではなかろうか。

      横目でとなりをのぞき 自分の道をたしかめる
      またひとつずるくなった 当分てれ笑が続く
 ♪

 でも、『春夏秋冬』にただようのは人間不信めいたフレーズの中に、《人間願望》が潜んでいることである。拒絶ではなく結びつきへの願望がただようのである。それは、次にあげる最後のフレーズで救われるのである。

      きたないところですが ヒマがあったら寄ってみて下さい
      ほんのついででいいんです 一度よってみて下さい
 ♪
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(3)人間不信のもと

 僕は不用意に《人間》という言葉を使ったが、いわゆる人間不信というものは、まさにこの《人間》なる抽象的な一般概念を口にするところから始まるのではなかろうか。一部を全部にすりかえるとき誰もが見失うものが、《他人の存在》や《自分もまたその一員である自覚》ではないか。

 吉野弘という詩人は、僕が共感するフレーズを散りばめているが、次の部分はこれを上手に表現している。

     ひとが
     ひとでなくなるのは
     自分を愛することをやめるときだ。
     自分を愛することをやめるとき
     ひとは
     他人を愛することをやめ
     世界を見失ってしまう。
     自分があるとき
     他人があり
     世界がある

         (吉野弘「奈々子に」・詩集『消息』所収)
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言葉だけでは不毛
  
 僕自身がかかわった流行り言葉にはいろいろある。連帯、ナンセンス、シラケ、原体験、挫折などが代表的なものだ。しかし、こういう言葉が定着するとそれから固定したイメージが生まれ、元来の意味と異なる《無内容な怪物》と化すことに驚かされる。また、何かといえば言葉で断罪する安易さを僕は好きになれない。資本主義とか社会主義、自由とか必然、あるいは人間不信とか人間疎外など、かつて何気なく口にした言葉にヨソヨソしさをかんじるのだ。その中でも《人間》という言葉に僕は特になじめないでいる。

 泉谷しげるの『春夏秋冬』は、人間不信に陥っていた当時の僕に、泣き笑いし、互いの痛みを感じ、援け合う生身(ナマミ)の人間の存在を自覚させたのだった。それはまた、《人間一般》とか《社会》というイメージの世界を離れ、山歩きやドライブに打ち込むことによって具体的な営みからものごとをとらえようとする僕の考えの転換期と結びついていた。
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【追記】
 この文章もやや理屈だ先走っています。吉野弘の詩まで引用してフォークとは別の世界まで立ち入り、かえって混乱を増したかもしれません。でも、フォークの歌詞を通じて詩の世界に入った私には、忘れられない詩と詩人もいます。25年前の文章はそれが反映しています。黒田三郎、田村隆一そして吉野弘の詩はこれから先も出てくることをご容赦ください。

 なお、私の学生時代をコミュカルに描いた小説に
三田誠広の『僕って何』があります。流行に振り回される学生を可笑しく描いた本です。

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