南方熊楠 忘れ去られた変わり者
    2008年04月29日


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 南方は、ナンポウやナンカタでなく、またミナミカタでもなく、ミナカタである。クマというのは熊野権現でグスは楠の木からとった気宇壮大な名前だ。1867年に生れ、1941年に亡くなった人だからわたしは知らない。博学多才で生物学や民俗学に名を残したという。評伝は多いものの彼の著作で簡単に入手できるものは岩波文庫の『十ニ支考』上・下ぐらいのものだ。棚上げにされた巨人といったら南方ファンに叱られそうだ。ともあれこの本は持てる知識の博覧会で、尾ひれはひれがついて、何が言いたいのかと首をひねる。おもしろいもののまどろっこしい。

 神坂次郎さんの『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』(新潮文庫)は、波瀾万丈な彼の生涯を学問や行動と結びつけた興味深い読み物である。粘菌採集のために渡米し、人跡末踏のキューバを探索し、金稼ぎにサーカスに加わり、大英博物館に出入りし、英語ほか18国語を操って海外に論文を発表したというのに驚く。その反面、大酒飲みで醜態をさらし、人情もろくてさびしがりというのがおかしい。そんな偉人がなぜ和歌山にこもったかも不思議である。神坂さんの小説は和歌山県の偉人である南方という語りがつきまとう。おらが国さの有名人が世に受け入れられず、縛られたまま没したというのも南方らしなのかもしれない。

 わたしは博学多才な人物が煙むたい。そういうタイプは眩学者かほらふきだと思っている。曲学阿世の徒などと断罪する気はないが変わり者にちがいない。たから南方ブームがあったときには無視した。いくら美化しても忘れ去られたことに変りはないからだ。わたしは天の邪鬼でへそまがりである。ブームが去ってからこっそり出かけたり読み直すこともある。菌類の粘菌をどんなに多く発見してもわたしには興味はない。むしろ南方が粘菌探しをする中で、環境と人間の結びつきを考え、田辺の人々といかにかかわって彼の民俗学が生れたかに興味がつきない。

 そんなわけで鶴見和子さんの『南方熊楠:地球志向の比較学』(講談社学術文庫、1981年)を読み始めた。神坂さんのサブタイトル「縛られた巨人」は鶴見さんから出たようだ。こちらは柳田国男の民俗学との比較であり、日本民俗学の新たな展開をめざしたもののようである。鶴見さんは付録に南方の「神社合併反対意見」を加えているが、粘菌の研究だけでなく生き物と環境のかかわりを体感していた南方こその意見ではないか【この活動については神坂さんも多くをさいて語っている】。

 余談になるが、先日まとめたアフォーダンス(2008/04/27ブログ掲載「言葉調べで無駄遣い☆アフォーダンスで頭が混乱」http://himajin-nobu.at.webry.info/200804/article_22.html)も南方の研究方法につながるような気がする。ギブソンの定義にしたがえば、アフォーダンスは「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」であり、それはぼくらのまわりに潜んでいる意味(佐々木正人『アフォーダンス入門』P72)なのだろう。このアフォーダンスという言葉は生き物と環境を総体的に把握する考えから使われているような気がする。

 南方の研究や足跡はフリー百科事典のウィキペディアが詳しい。わたしはこれから「忘れられた変わり者」として寄り道したい。巨人と言うのは美化につながるし、南方は変わり者として語った方が人間味があるような気がする。研究という道楽に生きたと言ったら語弊があるが、生活者としての南方は家族や親族のほかに支援した人々に支えられて研究を続けられた面がある。変わり者を温かく見守る風土に南方という人格を大成させた何かがただよう。

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