日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか
2004年04月17日
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群馬県の上野村には《オオサキ》という家につく動物がいるそうである。大型のイタチのようだが、紹介してくれた内山節さんは実在が疑われるという。気になってオオサキを検索をかけても人の名前や人名しか出てこない。ちなみに群馬県多野郡上野村は長野県や埼玉県の境にあり、中仙道のうすい峠の急勾配をさける間道としてにぎわったという。軽井沢や佐久しか知らないわたしには秩父困民党の残党が落ちのびたり、日航123便機が墜落した御巣鷹山(おすたかやま)の近くというぐらいしかわからない。【内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書、2007年】
人を《だます》動物にはキツネや夕ヌキのほかムジナ、オコジョ、イタチもいる。そして地域性があって、四国はキツネは登場せず、タヌキに集中するようだ。空海の念力というのもできすぎた話である。もっとも内山さんは北海道のキツネは文化圏が異なるとしている。人を《化かす》動物はもっと増えて夕ヌキやキツネのほかに狼、猫、へビ、クモ、カワウソ、ネズミなどもいる。タヌキやキツネはどちらにも含まれるのがおもしろい。そのわりには親しまれたり祭られ、今もなお可愛らしいイラストやマスコットになっている。
最近は《だまされる》とか《化かされる》といういいわけが通用しなくなった。自己責任の時代にそんなことをロにすれば注意力の欠ける《おろか者》扱いされるだけだろう。内山さんは1965年を境に日本人がキツネに《だまされる》ことがなくなった理由をだまされる人間が変わった側面とだます動物の変化で説明しているがここでは取り上げない。むしろ、誰もが《だまされ》たり、《化かされる》という共同幻想が希薄ないし無視されることにわたしは時代の変化を感じる。みんなが賢くなったとか科学的になったわけでもない。共同幻想のひとつが消えていくだけである。そして動物も過保護に慣れて野性を失ったのだろう。
それでもたくましく生き残っているのは人間という動物だ。無意識とか意識を問わず《だまし》あい、《化かし》あうのは日常茶飯事である。オレオレ詐欺にたわいなくだまされ、ありもしない愛や誠を語り、守りもしない公約を並べ、まさつを避けるために自分自身を化かすのも人間だろう。といっても、これをすべて女性にすり替えるのも卑怯である。わたしもそうだが人間という動物は他人に責任を転嫁してしまう生き物のようである。タヌキやキツネはそんな被害をこうむってきたのだろう。