お茶に砂糖やミルクを入れる文化
    2008年04月02日


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 しるこやまんじゆうには緑茶があう。でもそういう店はコーヒーや紅茶の喫茶店におされて繁華街から姿を消している。我ケ家では抹茶や煎茶は忘れられた存在である。コーヒーになじんだわたしと紅茶に親しんでいる家族は茶の入れ方を忘れた。これでもわたしは社会人になる前に4年ほどお茶汲み修行をした。湯煎(ゆせん)をしたり、茶葉の種類に応じた温度とひたす時間に気をくばったものである。それが今では緑茶もティーパックである。これも世の中があわただしくなったからだけでなく、嗅覚(きゅうかく)がどんかんになった反映でなかろうか。

 そこで思い出したのが角山栄さんの『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』(中公新書596、1980年)である。緑茶も紅茶も元をただせば中国産である。《チャ》を意味する世界各国の言葉は、中国の広東語のCH’Aと福建語のTAYの二系譜に従って、大きく二つのグループに分けることができるという(同書12頁)。つまり茶とティーは同じものなのだが、緑茶が西欧に異国情緒で取り込まれて普及し英国の生活に欠かせなくなったとき、貿易赤字を減らすためにインドやセイロンで紅茶が資本的生産により増産されて中国や日本の緑茶は世界市場から駆逐されたようである。むろん、製造技術の稚拙やマーケットリサーチの不定も輪をかけたのだろう。角山さんはそこに「厚い文化の壁」があったという。

 日本ではお茶は薬や精神修養として受け入れられ、茶の香りを味うものとなったが英国ではそういう香りを消すため砂糖やミルクを入れて飲むものとなったちがいがある。そこには素材が本来持つ味を生かす文化と香辛料と熱で加工する文化とのずれがある。極論を言えば英米は嗅覚の欠けた文化なのだろう。食生活のずれは思考、判断、行動のちがいを生んだにちがいない。余談になるが高山さんによれば英国は元々ココアになじんでいたが、西インド諸島の植民地栽培がハリケーンで全滅してからお茶に変ったそうだ。米国はコーヒ−が主流であるが日本の緑茶の最大の輸出先であったときもあるようである。

 問題は、お茶にミルクや砂糖を入れる文化が生み出す動物保護やエコロジーの鈍感で独りよがりな思考を受け入れないわたしの「厚い壁」があることだ。牛、豚、鳥は食うための家畜とし犬、猫、クジラは愛玩動物というのもなじめない。また個性だアイデンテイテイ(独自性)をうたうわりに規格外のチビ、デブ、ブスを罪人扱いする人権無視もある。ひとことでいえば自分たちに合わないものを排除してきたどんかんさになじめない。それが異国のことだと笑っているうちに、そのどんかんさをグローバルスタンダード(世界標準)だと勘違いしている者に囲まれている現実である。気遣いの欠けたおおらかな鈍感さに振り回されるのもうんざりする。


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