性に関して読んだ本と澁澤龍彦
    2008年03月15日


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●性の教育について

 ■精神分析
 
 息子が大学に進む前に心理士を目指すと言い出したので数年前に数校の模擬授業に参加した。学生の興味をひくためかもしれないがどこでもフロイトの精神分析を取り上げていた。わたしの学生時代にも流行っていたがフロイトの学説は治療経験に基づく仮説が拡大解釈され、医療の範囲を逸脱した「思弁」と批判されるものである(宮城音弥『精神分析入門』)。息子はとっくに心理学のことなど忘れてしまったが、精神分析・ゲシュタルト・行動主義の心理学にかかわったわたしには今もうさん臭さがつきまとう。

 ともあれ、フロイトの汎性論はキリスト教文化に内在する社会的な抑圧にかかわるものだろう。汎性論は本論で紹介したが、無意識の中に幼児の性的経験が含まれるし、人間意識の動因を性とかかわらせるものである。わたしの学生時代にもフロイトを持ち出して性を語る者が多かったが、彼の文化論は抑圧やセックスを顕在化させた功績はあるだろう。とはいえ、性格や行為を性と絡めて決めつける通俗的で短絡的な説明にわたしは今もなじめない。

 また、精神分析を社会的な抑圧に対象としたものは本論(2)で紹介したライヒのほかにE・フロムもいる。フロムには愛や悪を取り上げた本もあってライヒよりもなじみやすかった(フロイトの精神分析はパーソナリティが対象で個別性が強く、普遍性が欠けるという批判がある。また精神分析にはユング、アドラー、ヤスパースなども学派を形成しているが混乱させるのでこれ以上立ち入らない)。

 なお、日本ではフロイトの思想とかかわる学者として安田徳太郎や安田一郎を忘れてはならないような気がする。いずれも医師で、二人の共訳には『性と愛情の心理 フロイド』(角川文庫、1985年)もある。こちらも寄り道したことがあるが省略したい(ウィキペディアには「安田徳太郎」の記事があり、安田一郎はどういうわけか出ていない。オンライン書店ビーケーワンには多数の著書が掲載されているが「現在購入できません」の注記ばかりである)。
 
 ■啓蒙的な実用書
 
 淋病・梅毒およびエイズなどの性病の防止や女性の生理や避妊については医学書を読めばわかる。それでなくても雑誌や通俗本はあきれるほど多く氾濫している。生物学の教科書もけっこう細かく触れているジャンルだ。でも、具体的に何をすべきかという段階でつまるのはいわゆる「体位」の部類だ。自慰とは異なり相手の快・不快を考慮しなけらばならないからだ。浮世絵の春画はグロテスクで見る気も失せたし、そのために買春行為をしなければならないというのはナンセンスである。それを医師が出版しているのが頼もしかった。というわけでわたしが買ったのは次の2冊の本だ。
 
 ■奈良林祥(ならばやしやすし、1919生−2002没)『HOW TO SEX』
 この本は300万部突破というベストセラーだ。副題は「性についての方法」とあるように体位を具体的に写真で示している。説明はいたってシンプルで性交に伴う留意点を絞っている。カラー写真で品のいい仕上がりになっていた。40年間にわたる結婚と性にかかわるカウンセリング歴もある医師ならではの本である。KKベストセラーズから新装版も発行されている。
 
 ■謝国権(しゃ こくけん、1925生ー2003没)『性生活の知恵』
 この本は1960年に出版されていて、ややかたい内容である。この方も医師であって、無痛分娩法を日本に紹介し普及に努めたそうだ。発行した出版社はビルが建ったほどの売れ行きというが部数はわからない。デッサン用のモデル木人形を使った体位の説明が斬新だったようである。この本をもとにして著者自らが監督した映画も作られたそうだがわたしは見ていない。
 
エロシティズムと澁澤龍彦

 かっての流行語に「エロ、グロ、ナンセンス」があった。エロシティズム、グロテスクの略になんでナンセンスが加わるのか不明である。芸術の表現を現わすのだろうか。ナンセンスは自分に不都合な者に投げつける罵倒語として多用されたが、小説や漫画でも奇想天外な発想を表現する技法であったことも忘れてはならないだろう。ここではエロシティズムに脱線するが澁澤龍彦というへそ曲がりな文学者にだけ触れておきたい。
 
 ■澁澤龍彦(1928生−1987没)

 気位が高く、喧嘩早くて、自分の名前にこだわった(龍は竜でなく、彦には人偏がつく)フランス文学者である。要はへそ曲がりの変わり者だ。内容はともかく簡潔な文体で、笑わせてくれる内容の本も多かった。こう続けるとわたしが気に入らなかった作家・評論家だったのがすぐわかるだろう。ひまつぶしに多く読み流したものの気位の高さにムカついて共感するものは少ない。明治時代に活躍した渋沢栄一の本家にあたる生まれだけでなく、東大卒のインテリ臭を漂わせるのは三島由紀夫に似ていた。そんな澁澤をなぜ持ち出すかといえば、サドの研究者として無視できないからである。そして、エロスや悪女に対する真摯で辛辣な評論はおおいに笑わせてくれる。敵ながらあっぱれというところだろうか。わたしは嫌いでも認めるところのある人物は無視できないのである。(蛇足になるがマルクスにしてもくどい言い回しにへきへきし、生活破たん者的な側面を嫌うが分析の方法にひかれる。)
 
 澁澤といえばわいせつ文書販売で起訴された「サド裁判」である。1961年に起訴され、地裁では無罪判決が出たものの最高裁まで争って1969年に7万円の罰金刑が確定した。当時の名だたる作家や評論家が弁護に回ったが弁護側は澁澤の態度の悪さに呆れたようである。彼は当時のわいせつ観を承知の上で自分の文体や主張を通したのだろう。その面で彼は文学者であった。文学にはわいせつさが内在していることを認めていたからだろう。サド侯爵の行為がまともなはずがない。そういう世界に踏み入れて「まとも」を主張すること自体澁澤は笑っていたのではないか。でも、サドだけが澁澤の研究対象ではなかった。バタイユの『エロシティズム』の翻訳のほか、幻想、少女、裸婦、異端、変人、奇人、悪女などあらゆるジャンルに手を染めていた。
 
 エロシティズムに品の善し悪しを持ち出すのもナンセンスである。エロシティズムはギリシャ語の愛の神エロスに起因し、官能愛または人間の性衝動のこととされる。そして西洋哲学やキリスト教では4つの愛のうち、最も自己中心的で、自己への配慮に満ちたものだそうだ。ということは、自己を愛する面だけでなく自己を守るための汚れた面も持ちあわすのだろう。そういう二面を見失うことなく作品だけでなく、自己中心的な行動で示した澁澤はみごとであった。わたしは文学などに縁がないがそういう澁澤には感心するのである。澁澤ファンには申し訳ないがそういう偏見でたまに彼の作品を読むことがあるというだけである。【この文章をまとめるためにウィキペディアの「澁澤龍彦」や「エロシティズム」を参考にしました。】


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