利子と擬制資本
            2007年11月25日


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 利子について調べていたら擬制(ぎせい)資本という何だか分からない言葉が出てきた。わが身をささげる「犠牲」、ものまねの「擬声」、まがいものの「擬製」でもない。そういえば退屈な英文法に出てきたと思い出した。「擬制」というのは、本質はちがっていてもみかけはこうであるということらしい。それにしてもこの「擬」という漢字は「擬古文」・「擬人法」・「擬似」・「擬態」とあるように@おしはかる、Aなぞらえる、Bうたがうというようにうさんくさい。もっといえば「もどき」や「まがい」というニアンスが伴う。でも、疑わしいけど偽装や偽作というほどのウソや偽りはない。「たとえてみれば」といったところだろう。抽象的なものを具体的に示す方便(ほうべん)としよう。

 どんな学問も言葉の定義から始まり、どうでもいいことをああだこうだと説明されるのにうんざりする。利子にしても、あらかじめー定の分けまえが約束されている「配当」や「利息」と異なり、がまん(耐忍)の対価だったり、現金で持っているか投資にあてるかの思惑差(流動性選好)だったり、将来受けとる利益の現在価値への割引率という説明もある。といっても現金を持っているだけでは「もうけ」は生まないから、預けたり投資をして分けまえを得る。それはお金(貨幣)が資金(資本)として生産や流通に組み込まれ、その資金量や回転率に応じた分けまえを得る社会だからだろう。でも、利子は価値を生まないとか悪徳だと決めつける気はない。【こういうことに興味のある方は白取春彦さんの『世界四大宗教の経済学ー宗教とお金、その意外な関係ー』(PHP文庫・2006年)がおもしろい】

 先日は久しぶりに経済学の解説書を読みきった。伊東光晴さんの『現代に生きるケインズーモラル・サイエンスとしての経済理論ー』(岩波新書1013・2006年)である。マルクスの『資本論』と同様に今では見向きもされないJ・M・ケインズの『雇用・利子および貨幣のー般理論』がいかなる事情で書かれ、どのように受け入れられ、それがどうして無視されてきたかをたどるだけでなく、現代でも適用できるというのが伊東さんの主張だ。そこで批判されているヒックスのlSーLM理論を調べ直すうちにマクロ経済学やマルクス経済学の入門書を読み直せばゴミが増えたとバカにされている。

 伊東さんは『ー般理論』を妥協の書とする。ケンブリッジ学派の俊才であったケインズが部分均衡を体系化した恩師マーシャルの新古典派を脱却できず、共同作業に参画した学者の意見を受け入れたためにー貫性を欠くという。伊東さんは非自発的失業(不完全競争)を認めて投資を拡大するとともに、貨幣数量説を否定して個々人の投資判断を採用した流動性選好をケインズの独自性とみている。それだけでなく、ケインズにはスミス以後の経済学に流れる社会から離れて生きていかれない人間のモラルハザ−ドとしの道徳哲学があったとする【わたしは翻訳されたものしか読んでいないがスミスの『諸国民の富=富国論』、リカ−ドの『経済学及び課税の原理』、マルクスの『資本論』、レ−ニンの『帝国主義論』などには教科書と異なるものの見方に驚く】。

 伊東さんは、ヒックスのlSーLM理論はケインズが否定した静学的均衡モデルであり、米国のケインジアンが認めない流動性選好を組み込んでいると主張する。また、愛弟子の英国ケインジアンは無視する理論という。はっきりいってこの部分はわたしにはわからない。いわゆる新古典派総合の米国経済学はケインズ批判者を含めてlSーLM理論をマクロ経済学でうんざりするほど解説する部分である。それが面倒でうさんくさくてわたしは経済学から足を洗った。ちなみに、ヒックスは自説の誤りを認めたものの理論だけ−人歩きしているようだ。【lS曲線は国全体としてみて商品の需要と供給がー致する利子率と国民所得の組み合わせを表す曲線。また、LM曲線は貨幣市場を均衡させる国民所得と利子率の組み合わせを表した曲線です。つまり、生産物市場と貨幣市場を関連するものととらえ、利子率と国民所得をどう動かせば均衡するかという操作ができるという考えで利用されるようだ。この部分は木暮太ーさんの『落ちこぼれでもわかるマクロ経済学』(マトマ商事出版局・2006年)を参考にしました。】

 マルクスの経済学から始ったわたしが近代経済学にかかわったのは国家試験に必要でサムエルソンの『経済学』を読んでからだった。それに飽き足らず伊東さんの『ケインズ』(岩波新書)のほかに宮崎義ーさんや都留重人のかみくだいた著作に触れたことにある。その延長でジョーン・ロビンソン、G・ミュールダール、P・スージー、J・K・ガルブレイス、ヴエブレン、カップ、ハイルブロ−ナ−などにも寄り道してきた。公害とか寡占に傾るのはそういうものを分析する理論的根拠を経済学に期待したにすぎない。それはマルクス解説にとどまる


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