コーチングで脱線
    2007年10月15日


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 最近は「コーチング」に関わる話題が増えた。子育てに始まり、学習指導やクラブ活動のほかに経済活動までさまざまに使われる。名古屋コーチンだと思っていたら、やる気(モチべーシヨン)を高める技術のようである。日韓共催で行われたワールドカップでサッカーの監督が「コーチ」と表記されていたのを覚えていますか。野球では監督の下にコーチがいるけど、サッカーには野球のコーチに相応した人を何と呼ぶのだろう。最近退団した古田さんのように野球には選手と監督を兼ねた人を「プレーイング・マネージャー」と呼んでいた。マネージヤーとコーチはどうちがうのだろうか。

 わたしは「人材」や「マンパワー」という言葉が嫌いだ。ひとを材料や力の側面だけで評価するのになじめない。人を材料にするのは人柱(ひとばしら)を連想するし、パワーを持出されると馬と同じかと滅入る。もっとも、経済学では土地・労働・資本は生産の三要素だし、どんな組織にも金・モノ・ヒトが絡む。生産や消費だけでなく生存や生きがいと関わるのが人間だろう。カビ臭いと言われそうだがこれもひととひとの関係が物と物や金と金の関係となる物神性の反映だろうか(余計なことだけど物神性は物象性とか疎外ともいう)。断っておきたいのは言葉を変えれば良いわけでない。人間の「活力」とか「持ち味」といってもひとをモノ扱いする限り、見えて利用できる側面に限られている。

 というわけで、伊藤守さんの『もしもウサギにコーチがいたら』(大和書房、2006年)と土岐優美さんの『コーチングのツボがわかる本』(秀和システム、2007年)を眺めてみた。コーチングが登場したのは上意下達や卜ップダウンの命令方式やマニュアルによる管理・育成方法が時代の変化に対応できなくなったからのようである。子供・選手・部下の能力をいかに把握し、その特ち味をいかに引き出すかが「コーチング」のようだ。こうしろ、ああしろと指示して型にあてはめるのでなく自発性や参加意識を刺激して見えないものを見えるように変える技術かもしれない。

 ちなみに、伊藤さんの本の小見出から抜き出せばこんなものがある。「ファイトはウサギに教えない」、「反省なんかさせない」、「コミュニケーションはキャッチボール」、「「知らない」ことを知らない」、「かくれんぼの楽しさは、見つけられることにある」、「説明なんか要らない、ー緒にいれば伝わるから」、「ウサギはウサギの理屈でしか動かない」、「頑張りすぎたウサギは、感受性が低下する」などだ。ウサギを子どもや自分自身に当てはめるとけっこう該当するものがある。

 下っ端管理者にはうっとうしい意見である。煙むたい上役に合わせ、部下にコーチングではス卜レスが増すばかりだ。でも、仕事に限らず家庭にしても何かを行うときには任せることも大切だから「コーチング」は取り立てて目新しいものではない。子どもにしたって頭ごなしにあれをしろ、これをしろと言っても動かない。自尊心をくすぐり、その気にさせることも無視できないものだ。先にあげた2冊の本では伊藤さんの本がたとえが具体的で分かりやすかった。

 脱線のついでにひとつ加えたい。道楽を続けるのも家族に対するコーチングが欠かせない。好きなようにさせておけばウサギは余計なことを詮索しないものだ。



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