空海を扱った二冊の本
    2007年09月22日


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           NHK取材班「『空海の風景』を旅する」(中公文庫・2005年)
           ひろさちや『空海入門』(中公文庫、1998年)

 先日から本屋を回って司馬遼太郎の『坂の上の雲』を探しているが見あたらない。学生の頃にもてはやされた歴史小説である。そのころは変な時代でマルクスを持ち出す学生がヤクザの任侠映画に共感したり、ハチマキを巻いて刀を持ってポーズをとる作家が美化されたこともあった。『坂の上の雲』は曰本列島改造とか高度成長が謳歌された頃にゼミの先輩がやけに持ち上げていたがヘソ曲りなわたしは読まなかった。国家や政治に無関心なわたしには司馬遼太郎は煙たい存在で、歴史を持ち出して世相を批評するスタイルが鼻もちならなかった。

 最近、司馬が「坂の上の雲」と同時期に書いた『空海の風景』を映像化する記録を読んだ。ー遍という宗教家の伝記を読んだついでの寄り道である。NHK取材班「『空海の風景』を旅する」(中公文庫・2005年)は2002年1月4、5日に放送されたものの製作過程をまとめている。。常々、宗教は阿片、坊主なんて寄生虫(言い過ぎだが父の葬式で高い代金をふんだくられた恨みは消せない)と思っている。そんなわたしは日本を悪くした100人に空海を含めてもいいと思ってきた。善行伝説が残るのもウサン臭いし、あまりにもスーパーマンすぎるからだ。密教という得たいの知れぬ教説を編み出したといえば裁判中のポア教祖を思い出す始末である。

 真言宗の開祖である空海は、天台宗の最澄(さいちょう)と並ぶ平安時代のカリスマ宗教家である。この二人は同時期に遣唐使として派遣され日本仏教の礎石となったとずっと昔に習った覚えがある。弘法大師と伝教大師という別称もある方々である。NHKの『旅する』は空海の人物像にスポットをあて、そこに司馬遼太郎の空海観をただよわせる。だから、空海は国家を手玉にとって、中国の最新技術を巧みに駆使する実務家として描かれる。没落豪族の三男が立身出世からはみ出しつつも、抜け目なく立ち回るサクセスストーリー的な描写もあっておもしろい。でも、密教については曼陀羅(まんだら)の解説にとどまり、ボカされていて内容を知りたいわたしはハグラかせられた不満が残った。

 そんなとき目についたのが、ひろさちやさんの『空海入門』(中公文庫、1998年)である。この本は1984年に書かれたものだ。あとがきでジョージ・オーエルの『l984年』に触れているのも懐しい。空海を管理社会を生き抜く方法として語るのもおかしい。ともあれ、足して二で割るのがわたしの本の読み方である。嬉しいことにこの本は『旅する』の半分で論旨がすっきりしている。空海は真面目にこつこつ勉強するのでなく、ひらめきや直感で行動する天才と描かれる。それも、国家官僚として立身出世できない僧の世界に見切りをつけ、叔父の縁故を抜け目なく利用するおおらかな人物というのもおかしい。

 余談になるが、僧侶には昔から身分差別が伴ったことだ。天皇や公家の子弟は国家公認の「僧侶」になれても、没落した貴族や豪族の子弟は「私度僧」という非公認にとどまるしかなかった。日本の仏教は国家鎮護という成立事情があるからである。後世の親鸞も没落貴族の子ゆえに儀式の席に座れなかったという。空海の母方の叔父は皇太子に儒学を講ずる人だったから僧侶になれ、遣唐使に加われたことも忘れてはなるまい。それは後世の宗教家も同じだろう。出家にしてもしたいからできたのでなく、許可を得てなれたのである。つまり、貧乏人は僧侶になる余地がなかったことを忘れてはなるまい。今だって坊主の子が後継ぎをしているのだから変りはないだろう。

 空海が立派な偉人だったとか超人だったかを並べるつもりはない。また、庶民の立場に立つからでもない。むしろ、何であれ興味を持ったことにひたむきに向った「身軽さ」にある。仏になりきったり、目的を達するために語学を身につける「ひらめき」重視の行動が羨ましい。そして、修験者と交わり教典だけに縛られる人ではなかった。それだからこそ彼の伝説も生まれたのだろう。だから、評価も分かれるのだろう。密教にしても先に取り入れた最澄が理屈で悩んだのと異なり、仏になりきって感じて空海は独自の体系を作りあげたようだ。ひろさんが天才肌の空海は「最悪・最低の教師」というのもうなづける。目立ちたがりで国家を手玉にとる空海というのも常人を前提にして考えるからだろう。あるものは何でも使い、ツボを押えて行動した空海おそるべしか。

【補記】

 密教についてはひろさちやさんの『空海入門』の解説がわかりやすかった。でも、それをもの知りぶって書くのはやめます。関心のある方はご自分で読んでください。



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