花のことは花に問え
2007年08月15日
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栗田勇『ー遍上人ー旅の思索者ー』(新潮文庫、平成12年)
興味や関心が欠ける本を読むのは退屈である。でも、読み進むうちにそういう考えもあるのかとうなづくときもある。相模原市の当麻(たいま)山無量光寺や藤沢市の清浄光寺=遊行寺にかわわる一遍という武家生れの浄土僧が残した言葉にうなずくのも道楽三昧している自分に都合がいいからだろう。起こったことにコメントを求められて「花の事ははなにとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍はしらず」という突き放した応えに驚嘆する。似たような文句に北原白秋の「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。ナニゴトノ不思議ナケレド」(薔薇(バラ))という思わせぶりなものもあるがそれとは響きが異なる。
病気になれば不安になって医者の言うことを都合よく解釈して済ませてきた。不安に悩むよりヤブ医者でも数をこなしているから少しは安心になるだろう。そんなわたしと同様に、最近は安易にコメントを求めすぎるのではなかろうか。評論家とか専門家といわれるヤカラが起きた結果をあれこれ解説しても事件や事故が減るわけでもないし、自分だけが正義の使者というのもうぬぼれだろう。ま。これも政治家と同様に商売だから批難をする気は失せた。事実を事実として認め、自分でやってみて感じ、考えてまとめることを忘れるのは不毛である。他人の解説をまって自己正当化を図る前に、花のことは花に問えばいいのだと勝手な解釈をするだけだ。
信心など持ち合わせない者が宗教家の伝記を読んでもちんぷんかんぷんである。読み始めてからひけずに読んだのが栗田勇さんの『ー遍上人ー旅の思索者ー』(新潮文庫、平成12年)だ。昭和52年に発表された本の文庫化という。西洋絵画もあきたので日本画に戻ってさし絵の聖絵にひかれて読んだにすぎない。古代的な姿をとどめた部族社会が崩れて、家族という小単位に分割され、御家人として鎌倉政権に再編成されていった地方武力豪族の崩壊と再編成の時代に活動したのがー遍だったという。浄土というユー卜ピアや死後の世界への指向を古代への復古と結びつけ、南無阿弥陀仏(なむあゆだぶつ)の念仏を唱える行為に彼の特異性があるそうだ。
我ケ家には山折哲雄さんの『西行巡礼』や末木文美士さんの『日本仏教史ー思想史としてのアプローチ』(いずれも新潮文庫)も本棚に並べてあるが誰も見向きしない。キリス卜教やイスラム教の解説もあるがどれもこれもわからない。理解しようとしたり共感する気が欠けるからだろう。知らないよりマシという程度だ。栗田さんによれば、ー遍は国家鎮護や天下安泰という我ケ国の仏教が持つ俗権との癒着を問題として聖なる世界を確立し、女人禁制としていた仏教を熊野の民間信仰を受け入れてタブーから解放した宗教家のようである。彼につきそっていた超ーはじめとする女性信者なしに念仏踊りは成り立ちえなかったという。
わからないものや理解できないものを持ち出して「そうだ」や「ようだ」という言葉を並べるのも曖昧である。また、読んだ本の印象など残すこともない。本の紹介と言いながら自分勝手な思いを語るのも無節操だ。出歩くついでに季節に応じた本を流し読みをするだけである。あの世の世界はもとから関心がないが花火や盆踊りに無関心になったこのごろである。栗田さんの解説は読みごたえがあって、いつものように放置しておくのもできなかったことを付け加えておきたい。関心のある方はご自分でお読みください。