きだみのるとタやけ小やけの里
2007年07月14日
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『にっぽん部落』(岩波新書、1967年)
八王子市と藤野町を結ぶ陣馬街道には「夕やけ小やけの里」がある。今では上と下にわか
れる恩方(おんかた)は童謡「夕やけ小やけ」の生まれた場所だ。ひなびた村でこれが東京か
と何度も驚かされたが圏央道が開通し八王子西インターもできたからこれからは喧騒さが増
すだろう。そこで思い出すのが変くつ老人のことだ。1975(昭和50)年に亡った「きだみのる
」を覚えている人はいるだろうか。本名は山田吉彦。1895(明治28)年生まれの社会学者である。今では差別用語とされる「きちがい」や「部落」をタイトルにしたー般向けの著作が多かった。岩波新書の青版623『にっぽん部落』(1967年)をわたしは何度も読んだ。グローバ
ルスタンダード(世界標準)というアメリカ追従では断罪されている根回しと集団決定といわ
れる日本的経営の源流がそこにあったとわたしは思う。
きだの使う「部落」は行政単位の村を構成する共同体、つまり大字(おおあざ)に対する小字(こあざ)であり、差別や被差別とは異なる。彼は恩方に住んで住民の暮しを見つめ、慣習に基づく住民の行動や意思決定をおもしろおかしく描いていた。フランスに留学したインテリからみれば「きちがい」と映ったのだろう。彼の作品には、平気で他人に干渉し遠慮なくものを言う活き活きとした人物を描いていて昨今のルポルタージュとは違う毒気があった。だが、それはわたしが生れた時代には片鱗があって「どこそこの息子は怠け者」とか、「あの嫁はどうこう」という井戸端会議に持ち出されていた。互いに合意するまでの根気強い打ち合わせを続け、掟破りに対する厳しい制裁がそこには流れていた。
ともあれ、風俗や伝承を収集する民俗学と違って最小単位の構成体を動的に分析したところにきだの独自性があった。でも、きだの表現や用語があだになったのも確かである。恩方だけがきだの観察対象だけではなかった。彼はそれを日本全国を巡って検証していた。『ドブネズミ漂流記』(中央公論社、1961年)や『ニッポン気違い列島』(平凡社、1973年)もそういう著作だった。そこに、遺物を扱う民俗学との違いがあってわたしはひかれたものだ。でも、そういう共同体も都市化や世界標準とともに解体していくのだろう。個々人の楽しみや暮らしに特化し、恨みや妬みが伴おうと互いに活き活き暮らす社会が忘れられていくのだろう。
余計なことだが、夕やけ小やけの里の先には上恩方町と藤野町の境にある和田峠や陣馬山がある。カーブも多くすれ違いの困難な道で、昔は山岳ラリー好きしか入らなかった。若い頃には何度も走行したが緊張が伴う道に何度も肝を冷やした。10年前に妻を連れて陣馬山に登ったがハイヒールで登れる山ではなく背負う始末だった。山に慣れないドライバーは入ってほしくない道である。