数式の多い本に手を出す
2007年04月22日
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音楽の解説書もあきたので久しぶりに数式の多い本を読んでいる。わからないことも多いが我慢して先に進むとなんとなくわかった気分になるのも不思議だ。でも、当たり前だと思い込んでいた概念の拡張は論理的にうなずいてもウサンくささがつきまとう。自然数、整数、有理数、実数と展開してルート記号のつく「無理数」に向かうとあれこれと感覚とのズレが伴う。これでi(アイ)という得体の知れない「虚数」がでてきたらお手上げである。
河田直樹さんの『優雅なeiπ=ー1への旅/数学的思考の謎を解く』(現代数学社、2006年2刷)は人間の感覚と数学の証明のズレがなぜ起こるかを論じる。それは思考の拡張をともなう「意味の流通場」になじめるか否かにかかるようだ。それは論理的には理解しても人間の感覚からズレる違和感だろう。
河田さんの説明でおもしろいのは経済学の説明がときどき登場することだ。交換手段の貨幣がモノとしての属性を失っても、代わりのモノが本物にすり変わり、流通の場で実体に変わることを持ち出す。これは「資本の物神性」や「価値の価格への転形」にも通じる考えである。それはまた数学の「意味の流通場」をズレと感じる人間の判断なのかもしれない。
この本の内容を説明しても楽しくはないだろう。数式アレルギーの娘はタイトルを眺めただけでページを開かない。先日まで音符ばかり目立つ本を読んでいたときにも娘はオタマジャクシの並びに拒絶反応を示した。我が家はわたしを含めて典型的な文系家族である。個別で具体的なものになじんでも論理や抽象的な思考に体質的なアレルギーがある。
わたしは、図解したり数字で判断する習性が学生の頃から身につき、遊びの計画と実行のズレを分析してきたから数式もさほど苦にならない。それは思考のひとつのパターンであってすべてではない。むしろ、定義のあいまいな文章を読まされるよりマシである。数式は何度でも読み直せるし、展開も明解である。どこにレトリック(ひっかけ)があるかもつかめる。必要なのは数式の意味を確かめて先に進む根気である。それがわたしに欠けるから何度も似たヘマを繰り返す。わかったつもりがこじらせるのはパソコンいじりでたっぷり味わっている。