死んだら終わりよ
    2006年08月12日


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 創刊700号というキリのよい番号と夫婦特集が目に止まり、雑誌PHP2006年9月号を買ってきた。カラフルなイラスト迷路に頭をひねり、かんじんの特集はきれいごとすぎてわたしには期待はずれだった。何気なく巻末を開くとイラストレーターの山藤章二(やまふじしょうじ)さんの「こころにひびくことば」というエッセイが載っている。

      死んだらどうなるか、
      と訊かれます。
      「死んだら終わりよ」、
      と答えます。

 言葉の出典は臨斉宗天竜寺派管長・関牧翁(せきぼくおう)さんが新聞のインタビューに答えたものという。山藤さんは、若いころには「それなら日々を安逸に過ごしてもかまわないのか」と解釈したが、時を経てこの言葉の深さに気づいたとすすめ、「自分が生かされている証を残すこと、子孫に恥ずかしくない有意義な日々を過ごすのだと考え直した」という。

 戦場の写真を撮っていた日本人カメラマン(一野瀬大造さんか)の遺稿に『地雷を踏んだらおしまいよ』というのがあった。戦場だから誤爆や誤射もあるだろうに地雷が出てくるのも、良い写真を撮ろうと前に進むからだろうか。ここにも「死んでしまえば終わりよ」に通じるものがある。

 ちょっと辛いと何かと死を口にする人がいる。それを逃げ口上につかうのも醜い。どうやって生き延びるか考えないのも卑怯だろう。生きることはカッコを気にしていたらみじめに映るだろう。カッコよさだけで生きようとする考えに甘えがあるだけだ。

 山藤さんが「生かされている証」とか「子孫にはずかしくない」というのにわたしはビックリさせられた。誰のためでなく、自分が恥ずかしくない生き方をすれば十分ではないか。限りがある命をぞんざいにせず、精一杯に生きればいいだろう。勲章や名誉のためでなく、つつましく生きれば十分だろう。生きるために家族や友人を裏切ったり、他人を押し退けることもない。

 山藤さんはこのエッセイを、「高僧の言葉の真意を理解するには、相応の歳月が必要なのである」としめる。高僧に限らず、他人の思いやりに気づくにはつらさや苦しみを通り抜けてわかることも多い。親になって気づいたり、自分で乗り越えてやっと気がつくものだ。他人に思いやりを求めても自分で実行できない人には身につかないのと同じだ。生きているうちに実行するしかないだろう。

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